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研究会の活動報告一覧

第13研究 歴史のなかの記憶と記憶のなかの歴史
研究代表者:中井 義明(文学部)


開催日時2016年12月17日 14時~17時
開催場所神学館会議室
テーマ追悼演説のポリティクス: 共和政ローマの葬送儀礼における記憶の継承と構築
発表者米本雅一氏(本学特任助手)
研究会内容 9名出席
 発表者はヘイドン・ホワイトの「実用的過去」という概念を用いて共和政期ローマの政治文化を分析する。共和政期においては追悼演説において過去が語られるが、それは政治的エリートによる過去の記憶の独占、民衆支配の装置とみなされてきた。しかし発表者は追悼演説に対する民衆の反応に着目し、グラックス兄弟の記憶、マリウスの記憶、カエサルの追悼演説などの事例を通じて民衆の側における過去の記憶と記憶の形成に対する影響を指摘し、それを「オルタナティブな記憶」と呼ぶ。そのオルタナティブな記憶がカエサルの神格化を結果したとし、ゲルツァー以来の元老院貴族支配というローマの政治文化論を批判する。元老院貴族による一方的支配ではなく、民衆が自立した存在であり、政治的エリートに影響を及ぼしていたと論じる。
 本報告は共和政ローマにおける民衆に着目してきた報告者のこれまでの研究の延長線上にあることは言うまでもない。

 追悼演説が帝政期にどのように変化していくのか、準備期間が短い追悼演説は予め聴衆の反応を計算していないのではないか、護民官職の復活という事情がカエサルの演説を容易にしたのではないか、ファビウス・マクシムスの例から追悼演説は複数あるのではないか、などの質問があった。


開催日時2016年11月19日 15時~17時
開催場所徳照館第1共同利用室
テーマローマ都市の起源 ―神話と考古学からの検証―
発表者ヴィンチェンツァ・イオリオ氏(ラツィオ考古監督局)
研究会内容 23名出席
 報告者は21世紀に入ってからのイタリア考古学の新しい動向と成果を紹介した。これまで断片的に紹介されてきたイタリア考古学の方向性を、本報告を通して知ることが出来た。 
 地中海世界を統合し三大陸にまたがる大帝国を築いたローマの建国についてはリヴィウスなど古代の著作家たちによってトロヤ落人の子孫ロムルスに帰せられている。前753年のこととされる。近代歴史学の立場から古代ローマ史研究を確立したニーブールは神話と歴史学/考古学を峻別し、歴史から神話を排除したのである。その影響は現代の研究者にまで及んでいる。しかしイタリアでは21世紀交以降歴史学/考古学と神話を接合する動きが強まり、2010年代に入ってフォロを発掘しているローマ大学のカラーファは前8世紀に遡る古い遺構を見つけている。ローマ市内にある「牛の広場」からは中期青銅器時代の住居と墓が発見されており、テーヴェレ川を利用する中継交易地としてローマが古くから発展していたことが窺える。またアウグストゥスの凱旋門付近やパラティヌス丘からは前10世紀の住居や墓地、前8世紀のギリシア製土器が見つかっている。フォロにおけるカランディーニによる2006年の発掘では前730年頃に属する城壁や王宮などの存在が明らかになっている。これらのことから神話で語られてきたことが考古学によって裏付けられるようになってきている。
 このような近年におけるイタリア考古学の情報は我が国における我が国におけるローマ史研究に裨益する点が多いと確信している。


開催日時2016年10月22日 15時~17時
開催場所徳照館第1共同利用室
テーマテクラ崇敬とローマ女性史 ―Susan Hylenの研究を手がかりとして―
発表者足立広明氏(奈良大学教授)
研究会内容 14名出席
 報告者は長年にわたり古代末期の社会の変化と女性の問題を研究してきている。今回の報告は今一度その研究の原点に戻って内外の研究史の整理と動向を探り、外典に属する「パウロとテクラの行伝」を新たな目で見直し古代末期の女性を取り巻く社会と文化を論じるものであった。
 報告者は古代末期におけるテクラ崇敬の概要を説明したあと、2015年のSusan HylenのA Modest Apostle: Thecla and the History of Women in the Early Churchに至るまでの研究史の動向を紹介する。1990年代に入ってE. ClarkやK. Cooperらの研究が出るまでは研究者たちはテクラやその他の女性聖人にまつわる史料は彼女たちが活躍した時代の社会を反映しているものとして捉えて来たのである。しかし1990年代に入り歴史研究に言語論的転回が取り入れられるようになると、史料が古代末期の社会状況を反映しているわけではなく「行伝」の著者の意図やレトリックが女性聖人の物語やエピソード(奇跡を含む)を構築していったと論じられるようになったのである。もっともそのような言語論的転回に立つ批判に対して、口頭伝承に基づいている部分のあることや女性から女性へと語られる歴史と男性が記述する歴史との間には相違が存在していること、読み手や聞き手としての女性の主体性を指摘する批判も現れたのである。
 これらの研究の流れを受けてHylenは従来の研究が二項対立的に研究を組み立てていると批判する。Hylenによれば古代ローマ時代の女性が従属的地位にあったことは確かであったが、それでも機会は少ないが公的な舞台に姿を現し、公衆から称賛を浴びることもあったと指摘する。史料が伝える言説はそのまま社会の実態を表わすものではなく、女性はしばしば指導的な役割を社会の中で果たしてきたのである。テクラは男性に対する反抗者でなければ異端でもなく、社会に参加していく女性の姿を反映したものであると評価する。
 このHylenの見解を報告者はテモテやリヴィア、エジプトのパピルス文書の登場する女性、小アジア出土の碑文に見られる女神官などと比較検証し、その報告をまとめる。

開催日時2016年7月31日 15時~17時
開催場所徳照館2階第1共同利用室
テーマ帝国の記憶と遺産
発表者中井義明(本学教授)
研究会内容 前4世紀の90年代前半のアテナイを論じた。前404年のアテナイの降伏は帝国(アテナイ帝国)の解体のみならず民主制の崩壊をも結果した。民主制は内戦の結果回復されるが、帝国は回復されることはなかった。対外的にはスパルタの覇権に従い、積極的に外交政策を展開することはなかったのである。ところがコリントス戦争前夜になると突然アテナイによる海上支配が資料の上に現れてくる。この間の約10年アテナイの歴史は国内の党派と階層間の対立の歴史として語られてきた。問題は何故アテナイの海上支配が正当な権利として主張されるようになったのかが明らかにされていないということである。報告者はサモス民主派との決議碑文(IG. II2 1)とタソス民主派との一連の決議碑文( IG. II² 6, IG II2 24, IG II² 33, cf. IG XII 8. 263)をベースに海外の民主派や亡命者とアテナイとの関係性に着目し、これら民主派との関係が敗戦によっては消滅しなかったことを指摘し、帝国の遺産として残され、強く意識されていたことを報告したのである。またアテナイを中心とする帝国時代の民主派ネットワークが残存していて、そのネットワークを通じてアテナイがその外交的影響力を行使していたことも論じた。その際クセニア(賓客関係)やプロクセニア(名誉領事制度)の付与、アネル・アガトス(善行者)顕彰を通じて帝国時代の記憶が求められ、アテナイとの密接な関係の記憶が当事者間で共有され、決議文の中で強調され、碑文に刻み公表されるというかたちで記憶の共有が試みられたのである。そしてこれらがアテナイの海上支配要求の背景にあったことを論じた。第一次世界大戦が記憶から語られ始め歴史に記述されるに至るのに対して、古代アテナイの事例では歴史に記述されることから始まり記憶に至るという逆のプロセスを歩んだとも言える。
 歴史と記憶について多くの質問があり、SEGなども参照して、最近の碑文研究にも配慮する必要性が指摘された。  (18名参加)

開催日時2016年6月25日 14時~16時
開催場所寧静館会議室
テーママウレタニア・ティンギタナ属州におけるローマ支配の実態
発表者大清水 裕(滋賀大学教育学部准教授)
研究会内容 本報告は現モロッコ西部に属するマウレタニア・ティンギタナにおけるローマ時代の遺跡と属州部族指導者へのローマ市民権付与を記した「バナサ碑文」に関して行なわれた。
 マウレタニアは40年にマウレタニア王プトレマイオス2世がカリグラによって殺害された後、クラウディウス帝によって属州としてローマ帝国に編入された。属州の東半分にはアトラス山脈が走り、西半分に平野が広がる。属州の中心はウォルビリスと推定され、属州西半分は平たんな地が広がり、河川に沿ってローマ風の都市が建設された。しかしコロニアとして建設されたサラには円形闘技場や劇場がなく、また属州全体に建設された都市の数も少なく、ローマ化の浸透の低い帝国辺境の属州の特徴を窺わせる。注目されるのはバナサというローマ都市の広場に公示されていた青銅板の皇帝勅令である。「碑文」は在地部族の指導者に対するローマ市民権の付与を明示する。ローマ市民権が属州総督コイエディウス・マクシムスの尽力によって皇帝マルクス・アウレリウスと共同統治帝ルキウス・ウェルスから付与されている点に報告者は注目する。帝国の中心から遠く離れたマウレタニア・ティンギタナは属州を防衛する軍団を持たず、属州内外の土着民、マウリ人諸部族の反抗と侵入に苦しめられていたのである。そこでゼグレンセス族の指導者ユリアヌスとその家族にローマ市民権を付与することで属州の治安の維持を図ったのである。シャービン・ホワイトらの研究者がルーティーン化された市民権付与を示すものに過ぎないと政治的意味合いを低く評価するのに対して、報告者は十分な軍隊を持たない辺境の属州総督の外交的努力の表れであると高く評価する。
 本報告に対してサラ以南の地に対する帝国の関心はなかったのかとか、ウォルビリスの遺跡図から判断してデクマヌスに沿った街区はローマ的な特徴を有しているが南東の街区はそのような特徴は見られないとか、「バナサ碑文」の文字などについて質問があった。
 参加者9名

開催日時2016年5月29日 14時 ~ 16時
開催場所徳照館会議室
テーマ後期ローマ帝国における過去と現在の表象:変化、衰退、権力をめぐって
発表者西村昌洋氏(龍谷大学非常勤講師)
研究会内容 12名出席
 帝政期のローマに流行った文学のジャンルにPanegyricusと呼ばれる頌詩がある。皇帝を称えるための演説であるが、それは文字に起こされてパンフレットの形で広く知識人たちの間に広められたのである。その内容、称賛される徳目、文章などは様式化され定形化されていた。報告ではクラウディアヌスのスティリコに対する頌詩などが紹介された。古代末期になるとキリスト教の聖職者たちによって亡くなった皇帝を称える賛辞が著されるようになる。本報告は頌詩と賛辞を比較考証することを目的としている。
 皇帝への頌詩が実際には大衆を前にして読み上げられたというよりは、宮廷の限られた空間で少数の人々を前にして朗読された可能性があり、その内容は一般に流布される可能性は低かったと思われる。しかしこの頌詩は作者が所属するエリート知識人層を強く意識するものであり、朗読と同時にパピルスなどに筆写されこの知識人層の間に流布されていったのである。頌詩の作者や頌詩で称賛される皇帝たちはこの知識人層の間での評判を意識する必要性があったのである。
 頌詩が生きている皇帝を称えるのに対してキリスト教聖職者たちは物故した皇帝を称える賛辞を著している。その例としてアンブロシウスによる故テオドシウス帝への追悼頌が取り上げられる。その中でキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝は評価されず、母后のヘレナが称えられる。そのヘレナが聖地で発見したと言われる十字架の釘を使った冠を被ることがその後の皇帝の正当性を証明するものとして評価されるのである。
 この報告に関して頌詩が共和政時代からの伝統なのか、また何故亡くなった皇帝への頌詩が存在しないのか、スティリコは皇帝ではないのに何故頌詩を献上されたのか、頌詩は現実を語っているのかそれともそのように想定された理想像を語っているのかなどの質問があった。

開催日時2016年4月24日 14時~16時30分
開催場所寧静館5階会議室
テーマゼウス・ヘルメケイオスとエレウシスの儀礼:
パイアニア決議IG I3 250の再校訂から
発表者竹内一博(アテネ大学・明治大学兼任講師)
研究会内容 報告者はペアニアのリオベシから出土したパイアニア区の儀礼決議碑文の再校訂を試みる。碑文は摩耗と欠損が多く、パイアニア区が決めた儀礼に関して碑文学者による校訂に依るところが多い。本碑文はW. Peekによって1941年に校訂された。決議AとBは同じ内容のものを含んでいる。報告者が特に問題としたのは決議B22~23行目のPeekの復元である。この箇所は削り取られた跡があり、残された文字は明瞭ではないが、PeekがΔllll-…をΔ├├ hιερεόσυνα ├├├├(女神に2ドラクマ、神官に4ドラクマ)と復元したのを批判し、M. H. JamesonがΔΙΙΗΡ…ΟΙΙΣ…c7…と復元しているのを評価する。また24行目をPeekが[ές] Άνθε[ια](アンテイア祭へ)と復元するのを退け、Jamesonの[έ]ν Θεοιν[ίοισι(双柱の女神の神殿において)という復元を採用する。つまり問題の削除箇所にはゼウス・ヘルメケイオスとエレウシスの神殿への儀礼が記されていたと主張するのである。

質問等:
この報告に対してB22~23行目の削除がどの様な意味を有しているのか、何故A決議・B決議と再決議したのか、碑文を前450~430年代に比定した理由は何か、デーモスの決議碑文という公的なものにも拘らずストイケドンがない原因は何か、極めて私的な祭儀に関係するゼウス・ヘルメケイオスへの祭儀をデーモスという公的な祭儀として決議する理由は何か、ディオニュソスへの言及が本碑文に見られないのでアテネ大学に提出する博論から本碑文を除外するという結論で良いのか、などの質問があった。