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研究会の活動報告一覧

第5研究 生きるための環境をめぐるマニュアルの社会史
研究代表者:服部 伸(文学部)


開催日時2017年7月29日 13時~17時30分
開催場所徳照館2階第1共同利用室
テーマ「ディズレイリの死とホメオパシー―ヴィクトリア朝イギリスの科学的医学に関する一考察―」
「精神医学的理性とその不満―診断マニュアルDSMを中心に―」
発表者黒崎周一(明治大学)/美馬達哉(立命館大学)
研究会内容 イギリスでは1840年代以降、正規の医師免許を取得したホメオパシー医を中心に、ホメオパシー普及活動が展開されたが、医師人口の1%程度を占める少数派に過ぎなかった。しかし、イギリスホメオパシー協会が1844年に設立されたことを皮切りに全国各地で組織化が進み、ホメオパシー専門雑誌が刊行されるようになり、病院や診療所も開設された。これに対して、正統医学の側からは、考案者ハーネマンを崇拝する排他的で非科学的な「セクト」として、医師会や医学会からホメオパシーを排斥する動きが現れた。その背景には、ホメオパシーが医学の科学性を脅かすことへの懸念があった。しかしながら、自由放任主義の影響下で、患者・消費者の選択の自由を尊重する声や、自由競争による科学の進歩を支持する声が根強く、ホメオパシーが法的に禁止されることはなかった。
 1881年に保守派の大物政治家であるディズレイリの体調悪化が新聞で伝えられた。彼は掛かり付け医で、ホメオパシー治療も行う内科医キッドの治療を受けていたが、症状が悪化し、ヴィクトリア女王の侍従医であった内科医のクエインがキッドと治療について協議を行った。さらに病状が悪化する中で著名な内科医ジェンナーが、クエインの要請で診療にやってきたが、彼はクエインに対する個人的な好意で訪問しただけであって、正式な治療協議を行ってはいない。最終的にはディズレイリの死去によって治療は終了するが、この間のいきさつについては、当時の新聞が報道している。そこから浮かびあがってくるのは、正統医学の医師たちが、ホメオパシー治療も行う医師とは距離をとり、治療協議を拒否していたことである。医師団体や医学専門誌では、ホメオパシー医と距離を置こうとした医師の姿勢を擁護する声が強かったが、一般紙のなかでは、キッドと距離をとり、治療に協力しなかった正統派医師たちの姿勢に疑問を投げかけた。さらに、ホメオパシーを排除する正統派医学の姿勢こそがセクト主義であるという批判している。ただし、正統派医師全体が、ホメオパシーの排除に与していたわけではない。当時は、ホメオパシーを支持しない医師の中でも、視野の広さや寛容さこそが科学的な人間の条件であるといった主張も根強く、正統医学(科学)と異端医学(非科学)のあいだに境界線を引くことには強い抵抗感があったのである。(黒崎)

 「精神疾患の分類と診断の手引きDSM」はアメリカ合衆国で1952年に第1版が発行され、その後も版を重ねている。DSMが、精神科医だけでなくアメリカ合衆国で関心を持たれるようになるのは、1980年に発行された第3版(DSM-III)以降のことである。
 DSM-IIIは、それまでの手引きとは根本的に異なるものになった。その背景には、まず、1960年代中頃以降、各国で精神医学診断の客観性に対する疑義が出されたことある。すでにトーマス・サズは1961年に「精神疾患は1つの神話にしか過ぎない」と述べて、精神科医は医学的な診断や治療を行っているのではなく、「実際には、生活上の、個人的、社会的、道徳的諸問題を取り扱っている」と述べている。70年代には、精神科医の診断や治療の問題性がマスメディアによって大々的に取り上げられ、精神医学への信頼が揺らいでいた。
 さらに、アメリカ合衆国の精神医学界の特性がある。アメリカでは第二次世界大戦後、フロイトの精神分析の影響が大きく、診断名の正確さよりも、精神症状の原因として想定された心的葛藤やコンプレックスについての理論的解釈が中心であり、その結果、精神症状の正確な客観的記述よりも、その意味の精神分析的解釈が重視されていた。このような問題を克服して、特定の理論的立場に基づかない客観的な症状記述に基づく分類を行うことが提唱されたのである。とくに、1970年代に薬物治療が行われるようになると症状の客観的な症状の把握が必要になったのである。
 DSM-IIIでは、精神疾患で生じる症状を正確に記述して、その自然経過を正確に観察することを通じて、疾患の実態に迫ることをめざし、診断基準として症状の項目を列挙し、その中から一定数以上が該当する場合に、症候群として疾患を定義するようになった。したがって、DSMでは近代医学の基本である生物モデルが当てはまらないことになる。
 DSMの内容は数年ごとに学界・委員会内での多数決で改定される。①生物-精神疾患では、身体的病院の明確でない精神疾患とされることがスティグマとなる可能性があること、②セクシュアリティやジェンダーに関わる「逸脱」が、社会規範をめぐる社会運動の象徴的ターゲットになりやすいこと、③医療保険適用など金銭的利害とも関係をもつこと、⑤操作主義的な疾病概念であるために、正常と病気の区分が連続的である、子どもへの適用可能性が問題となる、近代医学の生物モデルの立場から批判されやすいことなどの理由から、その時代ごとの社会の影響を受けやすいのである。(美馬)


開催日時2017年6月25日 13時~18時
開催場所徳照館2階第1共同利用室
テーマ「サライェヴォ事件をめぐる「記憶」の変遷―第一次世界大戦の開戦責任論との交差―」
「エイジ・フレンドリー・コミュニティの模索―CCRC(継続ケア付退職者コミュニティ)を中心に」
発表者村上亮(日本学術振興会)/鈴木七美(国立民族学博物館)
研究会内容 ボスニア・ヘルツェゴヴィナの州都サライェヴォ訪問中のハプスブルク帝国皇太子夫妻が「青年ボスニア」の一員であるセルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプによって射殺されたサライェヴォ事件の歴史的評価の変遷を見てゆく。
 まず、両大戦間には、プリンツィプは好意的には評価されなかった。第一次世界大戦後に成立したユーゴスラヴィアには、戦勝国のセルビアと、「敗戦国」クロアティア、スロヴェニア、ボスニアも加わっており、国内統一のために、政府がサライェヴォ事件を積極的に評価することはなかった。さらに、第二次世界大戦中には、ユーゴからの独立を唱えるクロアティアのファシスト集団がドイツのユーゴ侵攻後に傀儡国家をたてたが、プリンツィプに対する敵意を示した。
 第二次世界大戦後には、対独抵抗を主導したティトーによってユーゴは再統一されると、皇太子夫妻暗殺は、ハプスブルクによる植民地支配圧政に対する民族の抵抗を示すものと解釈されるようになった。一方、ドイツ国内では1960年代にフリッツ・フィッシャーによって、ドイツがかねてから「世界強国」となるための戦争準備を行っていたことを実証し、セルビア人研究者もこれに依拠して、自分たちがドイツ・オーストリアの被害者であったと主張した。
 しかし、冷戦終結後にユーゴ国家は解体へと向かい、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ独立承認後には、三つ巴の内戦が激化したが、セルビア人による民族浄化だけが欧米諸国で問題視されるようになり、セルビアが国際的に孤立したが、プリンツィプを英雄視するセルビアと、テロリストと見なすボシュニャク人・クロアティア人との間で、歴史解釈が分裂した。その後、コソヴォ紛争によってセルビアの孤立は深まったが、セルビアでのプリンツィプ評価はさらに高まった。歴史家クリストファー・クラークが2012年に公刊した『夢遊病者たち』では、セルビアに開戦責任があるようにも読み取ることができる。従来有力だった、ドイツの戦争責任を相対化することになりかねないこのような見解が広く支持された背景には、旧ユーゴ内戦での、セルビア・イメージの悪化が影を落としているとも考えられる。(村上)

 高齢化が進む中で、人々の暮らしの場、コミュニティの崩壊が懸念されるようになり、地域に居住しつつ、心地よく、安心して年を重ねることができる社会の形成(エイジング・イン・プレイス)への関心が高まっている。その中で、高齢者のウェルビーイングに資する環境を模索し、全ての人のウェルビーイングをめざし、高齢者だけではなく、多様な人々が平等に包括的な環境を享受することを志向するエイジ・フレンドリー・コミュニティの整備にも注意が払われるようになってきている。
 エイジ・フレンドリー・コミュニティの展開例として、まずカナダの事例を見てみよう。カナダには日系人専用のCCRCはなく、日系人向け生活支援付高齢者住宅で、日本の文化活動を軸とした相互交流を行ったり、日本食弁当配達する活動などが実践されている。介護が必要になった場合には、一般の介護付き施設へ移動しなければならないが、その場合にも、ボランティアを通して、日本文化を維持する活動が行われている。また、中国系カナダ人向けに設立されたCCRCの中に日系人用棟を設置して、ボランティアらが入居者の希望を聴いたり、彼らから日本文化を学ぶ活動が行われている。これらの試みに共通するのは、カナダの多文化社会の中で、日本への関心を共有する、多様なバックグランドをもつ人々と、日系人居住者とのネットワーク形成・交流が重要な意味をもっていることである。
 合衆国においてもさまざまなCCRCが運営されているが、ここでは再洗礼派の宗教的バックグランドをもつ施設について見てゆく。再洗礼派はヨーロッパでの宗教的迫害を逃れて、信仰の自由を求めてアメリカに移住してきた歴史をもっている。彼らは非暴力・平和主義の立場から良心的兵役拒否を貫き、代替活動としてケアなどを行ってきた経験がある。このような経験を生かしながら、宗派を問わず受け入れるCCRCを運営している。ここでも、住人のウェルビーイングを構築するために、多様な企画が行われている。そのなかで、住人自らが積極的に地域のためにボランティア活動を行ったり、生涯教育を実践している。
 これらの事例から明らかになることは、豊かな生活の舞台としてエイジ・フレンドリー・コミュニティを形成するにあたって、生涯教育実践の場を作り、そこで異文化や新しい体験を重ねていくことを通じて、高齢者のウェルビーイング向上につなげることである。(鈴木)


開催日時2017年4月15日 13時~18時
開催場所徳照館2階第1共同利用室
テーマ「20世紀スイスにおける子どもの強制保護―マイノリティの排除と福祉事業のあいだで―」(穐山)
「江戸の『乳』という視点から見えてきたものと今後の課題―『江戸の乳と子ども-いのちをつなぐ』とともに―」(沢山)
発表者穐山洋子(同志社大学)/沢山美果子(岡山大学)
研究会内容 スイスにはナショナル・マイノリティとしてのイェーニシェという「移動型民族」がスイス国籍を取得して居住している。彼らは19世紀のスイス国民国家化の過程で市民権と国籍を付与されたが、定住義務を課せられ、行商などの移動を伴う仕事については許可制となったうえ、就学児童を連れての移動生活を禁止された。この政策は20世紀になってより徹底されるようになり、1926年から活動を開始した「街道の子どもたち」は、市民的価値観からの子どもの保護という名目で、「移動型民族」の子ども約600人を、強制的に親から引き離し、彼らに定住生活を強要した。民間団体であるこの組織は市民からの寄付を募り、多くのボランティアがその活動を支えた。しかし、連邦からの補助金を得ており、公的な性格をもっていた。その活動の狙いは、定職をもたず、子どもの養育ができない「移動型民族」の子どもを強制的に引き離し、施設に収容して、市民社会の規範に従って生きてゆくことができるように教育することであった。この活動は、特に変更もないまま第二次世界大戦後も継続されたが、1972~73年の施設批判運動の中で、批判にさらされ、1973年に活動を停止した。「移動型民族」は、社会の周縁にいた人びとが、国民国家形成過程でスイス市民に包摂されたことによって排除の対象となり、そのことを通して自分たちのアイデンティティを形成した。そして、「街道の子どもたち」の活動は、マジョリティ社会の規範によって、マイノリティに押しつけられた福祉事業と位置づけることができる。(穐山)

 近著『江戸の乳と子ども』は、主体の側からのいのちの環境が問題になった近世社会におけるいのちをつなぐ営みを、赤子の命綱であった乳に焦点を当てて、当時の人びとの具体的な経験として明らかにするものである。報告では、同書の到達点を明らかにした。すなわち、近世社会では、授乳は公共空間でも行われており、現在のように母子だけの閉鎖的空間での行為ではなかった。当時は授乳できるかどうかが乳児の生死を決定することにもなり、母親が乳を提供できない場合には、乳母を確保するためには、さまざまな社会的ネットワークが活用されていた。父親もまた積極的に乳母を求めて行動しており、授乳は母子だけで完結する関係性の中にあったわけではなく、乳母と乳児をつなぐ経路には父親など男性も含めた、さまざまな人びとが含まれていたのである。授乳との関わりで母子関係が強調されるようになったのは近代のことであり、とくに大正期には母性イデオロギーが強調される中で、「母乳」「実母哺乳」が重視され、母親の育児責任が重視される一方、乳房をもたない父親が排除されることになった。このような内容をもつ本書に対して、書評では、江戸末期にはすでに、実母以外の女への警戒感が生まれていたこと、他方で第二次世界大戦後の高度成長期以前にも地方では屋外での授乳が行われていたことが指摘されており、本書で示した構図が常に当てはまるわけではないことも明らかになった。今後、エゴドキュメントやマニュアル本を読み込んでゆくことによって、民衆生活の現実を読み取り、近世から近代への移行期の変容についても、地域に即して実態を解明することが可能になるであろう。(沢山)