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研究会の活動報告一覧

第10研究 歴史学の成り立ちをめぐる基礎的研究―現場と公共性―
研究代表者:小林 丈広(文学部)


開催日時2017年8月29日 11時00分~18時00分
開催場所奈良町からくりおもちゃ館、元興寺文化財研究所・総合文化財センターなど
テーマ近世のからくりおもちゃの復元について
発表者安田真紀子
研究会内容 本年度5回目の開催となる今回の研究会は、奈良県奈良市の中心部に位置する、奈良町エリアにての所外開催となった。参加者は近鉄奈良駅に集合した後、まず奈良市史料保存館に立ち寄った。同館では常設展示のほか、奈良町にあった芝居小屋「尾花座」に関する企画展示を見学した。
 つづいて、奈良町からくりおもちゃ館を訪問した。2012年、奈良市に寄贈された旧松矢家住宅を活用して開館した同館では、所蔵するからくりおもちゃ(複製品)を来場者が実際に手にとって遊ぶことができる。奈良大学で25年間にわたって教鞭を執り、「実験歴史学」を提唱した鎌田道隆氏からそれらの所蔵品を寄贈されたことが、開館のきっかけであった。館内には工房もあり、体験イベント日には、自然素材を使ってのからくりおもちゃ作りを体験することができる。ゲスト講師の安田真紀子氏は、同館館長をつとめておられ、それらの経緯と現状についてのご報告を伺った。
 安田氏は奈良大学で鎌田氏に師事。同館の所蔵品も、その大部分が安田氏らの手によって復元されたものである。復元作業には、かぎられた当時の文献資料から遊びかたや内部の構造を読み解く苦労や楽しみがあるのだという。また、復元作業をとおして同氏が強く感銘を受けたのは、当時の人々が自然素材の特性を熟知し、その特性を活かした構造や遊びかたを工夫していることだった。
 「実験歴史学」の一環として伊勢参りを復元した「宝来講」ついても話を伺った。実験は、自分たちが履くわらじの稲を栽培するところからはじまるという、徹底したものであった。「宝来講」は25年間つづけられ、「宝来講が来ると春が来る」と沿道の人びとに言われるほどの名物行事となった。こうした取り組みは、文献研究がけっして机上のものだけにとどまらないことを予感させる、きわめてユニークな歴史研究の可能性を示すものだといえよう。
 安田氏の報告の後、参加者は同館から元興寺文化財研究所・総合文化財センターに移動し、同館を見学した。1961年に元興寺が立ち上げた仏教民俗資料調査室が母体となり、昨年11月に同センターが開所した。同センターでは、古文書修復の中心を担っておられる金山正子氏に作業現場をご案内いただきながら、お話しを伺うことができた。


開催日時2017年7月16日14時00分~18時00分
開催場所同志社大学徳照館201号室
テーマ近代の〈承久の乱〉像
発表者長村祥知
研究会内容 本年度4回目の開催となる今回の研究会は、京都府京都文化博物館の学芸員である長村祥知氏をゲスト講師に招き、ご自身の中世史研究を踏まえて、承久の乱(1221)について史学史上の位置づけを試みていただいた。
 承久の乱は、武家優位の政治体制が確立する、日本史上の一大画期とされる。後鳥羽院に対し、鎌倉幕府側が勝利して三名の上皇が配流されるという結末に終わったこの事件をどう描くか、後世の歴史叙述を丹念に検証され、そこにあらわれる位置づけの変容を検証した。
 報告ではさらに、明治期における京都の歴史書『平安通志』(1895)における承久の乱の記述に注目し、同書が依拠した史料は何か、また、どのように情報が取捨選択されているかなどについて、刊行されたテキストと草稿とを比較しながら、詳細な検討がおこなわれた。その結果、同書の承久の乱の記述は、その多くを『吾妻鏡』と『承久記』流布本とに負っていることが判明した。また、事実の取捨という面では、北条政子の演説が描かれていないことや、草稿から刊行に際して戦闘叙述が大幅に増補されていることが指摘された。軍勢の配置についても、鎌倉方の記述が粗略であるのに対し、京方のそれは数量なども詳細に描かれている。
 報告のあとは、フロアとの質疑応答がなされた。同氏のアプローチは本研究会にとって非常に示唆に富むものであり、活発な意見交換がおこなわれた。


開催日時2017年6月18日 14時00分~18時00分
開催場所同志社大学徳照館201号室
テーマ安丸思想史の射程
発表者福家崇洋
研究会内容 本年度3回目の開催となる今回の研究会は、福家崇洋氏(富山大学)に民衆思想史を代表する研究者であった安丸良夫について、その思想史を貫く「意識と全体性」を軸に、思想史的分析をおこなっていただいた。
 報告にあたって、福家氏は、安丸の生まれ育った富山県東砺波郡高瀬村森清(現在の南砺市)を実際に訪れ、歩いたという。研究会当日は当地の地図や写真も配付され、参加者は、具体的なイメージを思い浮かべながら報告を聞くことができた。たとえば、安丸は故郷を回顧して、浄土真宗の信仰が非常に盛んだったことを述べている。しかし、実際に森清周辺を歩いてみると、神明宮が多くみられるなど、安丸の回想とは別の発見があったことも紹介された。
 さて、安丸思想史といえば、「通俗道徳論」というイメージで語られることが多いが、福家氏は、そのように両者を直結させることに疑問を呈する。氏は、安丸思想史を年代別に計4期に分け、その変遷を緻密な調査をもとにたどっていく。安丸の通俗道徳論には大塚久雄の影響が大きく、その初期においては、通俗道徳は生産力とセットになって語られていた。
 安丸の思想にとってもうひとつ重要な概念として、「可能意識」が挙げられる。もともとはL・ゴルドマンの言葉であるその概念は、やがて民衆宗教研究をつうじて、安丸に「唯心論的な世界解釈」、ひいては「全体性(コスモロジー)」と「社会的意識形態」という問題関心を導くものとなった。そして、当初は歴史の変革主体として想定されていた「民衆」が、「共同的」主体へと再設定されていったのだと福家氏は指摘した。
 報告のあとは、フロアとの質疑応答がなされた。緻密かつ網羅的であった福家氏の報告を受け、議論の内容も多岐にわたったが、1990年代以降の安丸を歴史学の立場からどのように評価するかなど、忌憚のない意見交換がなされた。


開催日時2017年6月6日 13時30分~18時00分
開催場所京都市歴史資料館
テーマ湯本文彦関係資料について
発表者秋元せき
研究会内容 本年度2回目の開催となる今回の研究会は、本研究会のメンバーでもある京都市歴史資料館の秋元せき氏が、同館所蔵の湯本文彦関係資料について報告をおこなった。本年度最初の学外開催となり、当日の出席者は報告者を含め7名。全員が研究会メンバーであった。
 京都府の官吏であった湯本文彦(1843-1921)は、日本における自治体史の嚆矢となる『平安通志』(1895)の刊行を発議し、編纂主事をつとめた人物である。京都市歴史資料館には、同書の稿本など彼の遺した大量の資料が御子孫にあたる上野氏より寄贈され、保管されている(「上野(務)家文書」)。本研究会は、同資料の整理を目標のひとつに設定しており、今後、同館の協力を仰ぎながらどのように研究を進めていくのか、秋元氏による資料概要の報告を踏まえ、検討することとなった。
 京都市歴史資料館では、1997年から98年にかけて、同資料の第一次調査を実施した。結果、資料の一部がマイクロフィルム化され、現在、紙焼きの写真帳という形で閲覧が可能となっている。しかし、撮影されたのはまとまって保管されていた冊子など一部に限られ、書簡類など未撮影の文書が大量に残されている。今回はその中でも大きな木箱に収納された文書類の整理に取りかかり、おおまかな分類を行った。その結果、木箱には稿本類や日記など貴重な一次史料が含まれていることが判明した。
 今後については、研究会としてどのような形で整理や撮影などを進めるか、同館と協議しながら検討することになった。また、作業の合間を利用して、今年度後半の報告スケジュールについても話し合った。


開催日時2017年4月9日 14時00分~18時00分
開催場所同志社大学徳照館201号室
テーマ労働問題としての発掘現場
発表者本田次男
研究会内容 第11回目の開催となる今回の研究会では、新年度最初の開催ということで、まず、第19期研究会活動報告書をもとに昨年度の本研究会をふりかえり、今年度の計画について話し合った。昨年度は5月から3月までの間に計10回の研究会を開催し、各メンバーはそれぞれ自身のテーマに関わる史料調査を進めた。今年度は、それらの成果を活かしながら、これまで取り上げることができなかった分野や、研究会メンバーによる報告を積極的に行うという方針が示された。また、本研究会と関連して、科学研究費の申請内容について小田龍哉が補足説明をおこなった。今年度以降の計画としては、元興寺文化財研究所など関係施設の見学や、研究会メンバーによる報告、合評会、史料調査、シンポジウムなどが具体的に挙げられた。
 つづいて、かつて京都市埋蔵文化財研究所につとめておられた本田次男氏(現在「きょうと夜まわりの会」)をゲスト講師に招き、氏が携わった埋蔵文化財発掘現場について労働問題の視点から報告いただいた。
 本田氏は、1982年に京都市埋蔵文化財研究所の臨時職員に採用され、調査補助員として発掘現場での作業にあたることになる。同年、氏は組合を立ち上げ、賃金格差の是正や、交通費の支給、社会保険への加入などを実現させていく。組合を立ち上げた氏は均等待遇を求めていたが、組合の方針は正職員化となり、1989年には臨時職員のうち41名が正職員に採用された。氏が運動を始めた当初は、周囲の労働環境への関心は高いとはいえず、臨時職員は考古学を学んでいるボランティアのように考えていた管理職もいたという。氏は1992年に埋文研を退職された。
 報告は途中から、フロアとの応答方式で進められた。活発な議論がおこなわれたが、特に、考古学を専門とするメンバーが学生時代にアルバイトした現場での事例や、自治体での勤務経験を紹介し、本田氏の活動と比較することで、1980年代の労働運動をめぐる雰囲気や、以降の時代における変化が浮き彫りになった。