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第13研究 歴史のなかの記憶と記憶のなかの歴史 研究代表者 中井 義明(文学部)<2016, 2017年度>、堀井 優(文学部)<2018年度>

本研究会のテーマは「歴史のなかの記憶と記憶のなかの歴史」である。記憶と歴史の関係性と相違を探求していく。近代における国民国家の成立は国語の制定と過去の記憶の創造、国民史の構築、そして学校教育や記念碑などを通じて国家への帰属意識の共有を推し進めてきた。近代において生じた現象は古代においても中世においてもアナロジーとして生じていた。ポリスやエトノス、ナティオなどの枠組みの中で過去の記憶が創作され帰属意識形成に利用されたのである。記憶の相対化を通じて歴史が構築されていくが、それは主観的過去との決別でもある。本研究会はそのような現象を探求し、記憶と歴史の関係性を明らかにするものである。
基本的には年間8回程度の研究報告会を実施し、夏期などの休暇中は海外での調査や報告を予定し、外国の研究者を交えた公開講演の開催と外国語による成果報告の出版を考えている。

2018年度

開催日時 2019年1月19日 14時~16時
開催場所 徳照館2階第一共同利用室
テーマ プトレマイオス朝初期の王権とエジプト宗教―マアト概念を例に―
発表者 藏戸亮太
研究会内容  神官団の決議碑文に見えるマアト観を通してマケドニア人の王朝であるプトレマイオス朝が在地エジプト人勢力の台頭を前にして譲歩を重ねていく過程を論じた。
 前3世紀後半、特に前217年のラフィアの戦いを契機に被征服民であったエジプト人の民族意識が高まり征服者であるプトレマイオス朝に反抗を強め、王朝を弱体化させ混乱の度合いを強めて行ったというのが伝統的学説の骨子である。本報告はこの伝統的学説に準拠していると言えよう。
 報告者は前3世紀中葉の碑文が王朝側の主導によって決議されていたのが前3世紀末になると神官団中心によって発議されていた事を示しているとし、それが在地エジプト人の台頭と王朝側の譲歩を反映していると評価する。
 本報告が抱える問題は伝統的なプトレマイオス王朝史の枠組みの中に留まっている点にある。参加者が指摘したように決して王朝が在地勢力に譲歩する事はなかった。南部における反乱鎮圧後は王朝によって各地に軍が派遣され、神殿に駐屯するようになる傾向に留意する必要がある。ギリシア語によるテキストだけでなく、ヒエログリフやデモティックによるテキストを使用する必要があるとの指摘もあった。また神官団決議という史料の性格を考える必要もある。
開催日時 2018年11月23日 15時~17時
開催場所 徳照館2階第一共同利用室
テーマ 近世フランス宗教史上の転換点―ギュイヨン夫人と「神秘主義の黄昏」をめぐって―
発表者 深沢克己
研究会内容  報告者は啓蒙主義と科学革命という名前の下に理解されてきた17世紀フランスにおける神秘主義の広がりについて報告した。ルイ14世のナントの勅令によってフランスは強力な王権の下にカトリシズムに統合されていくと見られがちであるが、それは近代歴史学が作り上げてきた物語に過ぎない。実際はプロテスタントから改宗させられた「新カトリック信徒」を介してカトリックの間に神秘主義が広がっていくのである。フランス国内に神秘主義が浸透していく上で大きな影響を残したのがギュイヨン夫人である。
 フランスに神秘主義思想を伝えたのはスペインとネーデルラントやドイツであった。スペインの神秘主義が「体感的神秘主義」であるのに対して、北方の神秘主義は新プラトン主義的であった。常に神秘主義には潜在的に異端性を宿していたが、カトリックの中にも広がっていったのである。ギュイヨン夫人は幼子イエスとの霊的結婚を主張し、パリで活動を展開する。彼女にはルイ14世に近い人たちの支援があった。その中にはルイ14世の愛人マントノン夫人、側近のフェヌロン、有力者のペテュヌ=シャロン夫人、ボヴィリエ公などがいた。ギュイヨン夫人はパリ大司教に訴えられて幽閉されるが、彼らの助力によって解放されている。
 さらにギュイヨン夫人の神秘主義をめぐってボシュエとフェヌロンの間で論争が持ち上がり、教皇にまで持ち込まれる。しかし教皇庁の中にも神秘主義への影響が広まっており、その処断をめぐって教皇庁の回答は「小教勅」に留められた。ギュイヨン夫人は一旦はバスティーユに収監されるが、5年後には解放されブロワに居を定めることとなる。そして1717年に亡くなるまで様々な宗派の人々、様々な国の人々と霊的交流を続けている。その影響はメソディスト教会やフリーメイソンにも及んでいる。
 この様に見ていくと17世紀は合理主義と科学革命の時代と見られてきたが、同時に神秘主義の時代とも見ることが出来るのではないか。ニュートンが一方では万有引力の原理を発見し、他方では錬金術に嵌っていったこと、ケプラーが惑星運行の3法則を発見すると同時に、占星術師であったことを想起すれば良いのではないか。
開催日時 2018年10月27日 14時~16時
開催場所 徳照館2階第一共同利用室
テーマ 古代ローマにおける庭園文化の受容と展開―ポンペイ遺跡の事例から―
発表者 平井遥佳
研究会内容  ポンペイ遺跡におけるローマ帝国確立期の文化的様相を示す豊富な考古史料は、高度な自治力をもつ地方都市における貴族とローカルエリートの交流を明らかにする手がかりとなる。本報告では、ローマ文化の受容やローマ人の嗜好を示す住宅・庭園を取り上げた。これらの近年の研究は、1990年以降のアトリウム中核論に対して、ペリステュリウムや庭園を重視するようになった。この研究動向を受けて本報告では、共和政末期から帝政期初期にかけての知識人による文献史料をも検討対象とし、庭園(造園)文化の導入から浸透に至るまでの嗜好の変化を検証した。
 その結果、古代ローマ文化の特徴的な質実剛健さから離れる豪華すぎる住宅・庭園は批判の対象であり、著作家たちは古代ローマ伝統の田園風景を理想としていた。それは、アウグストゥス帝の文化政策の表れとも見ることができる。一方で、帝政期の知識人スタティウス、小プリニウス、マルティアリスの著作の中には、装飾性の高い庭園に関する記述も見られるようになり、庭園を住宅の中で主人の趣味を反映する場所、眺める場所といった設計意図があったことが明らかにできた。
 また、これらの文献史料にのっている庭園に関する記述のほとんどが別荘の庭園であったので、別荘の庭園はどこから受容されどのように展開されていったのかについて考察したところ、古代ローマの別荘庭園の転換期はヘレニズム文化の受容であった。また共和政後期以降、ローマ人は、ヘレニズム文化の中でも中庭の概念を重要視して取り入れ、それをローマ独自にアレンジしていった。その中でも、別荘の建設にあたって重要視したのが「眺め」であったことが、小プリニウスの書簡集と考古史料双方の研究から明らかにすることができた。さらに、このような別荘建築を都市住宅の中で模倣するようになり、特に庭園周りにおいて別荘建築の要素を模倣していた。その中でも別荘と同様都市住宅でも庭園の「眺め」を意識した設計がみられることを2017年のポンペイの現地調査の結果からみることができ、これは従来の研究では言及されていなかったことである。
開催日時 2018年9月29日 14時~16時
開催場所 徳照館2階第一共同利用室
テーマ 前4世紀アテナイにおける性規範と「市民」の社会的承認
―法廷弁論における性的非難に注目して―
発表者 小山田真帆
研究会内容  民主政期アテナイで、市民の男女はそれぞれアテナイ居住者の中でも特権的な地位を占めていた。しかし市民と非市民という区分は実際の社会でも曖昧な場合があり、研究者の間では市民身分をめぐる問題を非制度的アプローチからも検討する必要性があることが広く認識されている。
 本報告ではこうした動向を踏まえ、市民身分が制度外で社会的に承認されることがあったことを想定し、市民の男女が遵守すべきものとして共有されていた性規範を明らかにすることを目的とする。ペロポネソス戦争後のアテナイでは、一般的にポリスの純血性を重視する風潮が強まっていたとされている。しかしアテナイには婚姻関係を公的に証明する制度がなく、また市民権の根拠となるデーモスへの登録が男子に限られていたことから、市民の血統を制度的に証明することが困難な状況にあった。こうした社会状況を踏まえると、血縁で規定される市民共同体の輪郭を画定するために、血縁の正当性を担保するもの、すなわち性規範の遵守が重要な役割を果たしたと考えられる。
 本報告では、アテナイ市民の一般的な価値観を反映した史料として法廷弁論を取り上げ、その中で婚姻関係外での性的関係に向けられる非難に着目し、いかなる性規範が市民の社会的承認に関連付けられていたのかを分析した。まずアポロドロスの弁論『ネアイラ弾劾』で、係争相手である女性たちの市民身分を否定するために彼女らの性的経験が執拗に描写されていたことから、女性を「娼婦」として提示することが彼女の市民性を失わせることに繋がったことがわかった。また、アイスキネスの弁論『ティマルコス弾劾』の分析からは、市民男性が売春に手を染めることは彼の市民としての権利を制限するだけでなく、「市民に相応しくない人物」という印象と結び付けられていたことが明らかになった。以上から、男女を問わず売春をした者は市民として社会的に承認されなかったと結論付けた。
開催日時 2018年7月28日 15時~17時
開催場所 徳照館2階第一共同利用室
テーマ 民主政復活後のアテナイの記憶形成
発表者 中井義明
研究会内容  ペロポネソス戦争の結果、アテナイはその帝国を失っただけでなく、民主政を廃止してスパルタが望む寡頭政を導入し三十人による独裁を認めさせられた。三十人は貧しい市民をアテナイ市内から追放し、帝国時代にアテナイが締結した条約を破棄し碑文を破壊したのである。
 トラシュブロス等亡命者は三十人を倒し、スパルタの斡旋によって民主政を復興するのに成功した。そして民主政復興直後からアテナイは帝国時代の記憶を遺産として利用しつつ、海洋支配に立脚するアテナイの本来の姿を模索し始めたのである。本報告はそのような動きをクセノポンの『ギリシア史』、リュシアスの第21番弁論と第25番弁論、アリストテレスの『アテナイ人の国制』、サモス人亡命者への顕彰決議碑文(IG. I-3, 127; Rhodes & Osborne, 2)、アンドキデスの第三番弁論、イソクラテスの『パネギュリコス』をベースにして辿って見た。
 前403年の和解にも関わらず民主政復活後のアテナイでは旧市内派に人々に対して頻繁に訴訟が起こされ、被告が戦争中の国家への貢献に言及する事で正当化したのである。つまり帝国時代の記憶を辿ることによって復活した民主政時代のアテナイにおける自己の立場を正当化するという文化が広まっていったのである。そのような風潮は更にコリントス戦争期に拡大していく。アンドキデスはスパルタとの平和交渉を帝国期アテナイのそれと比較することで正当化している。
 碑文史料からも非常に早くから帝国時代の記憶の発掘が行われていた事を確認できる。前403年、アテナイは三十人が破壊したサモス人顕彰碑文を再建したばかりではなく、亡命中のサモス人の帰国を叶える為にスパルタとの仲介の役を買って出ている。それはエーゲ海に広がる民主派のネットワークを再利用するものであった。そしてそのような民主派ネットワークの再建を通してアテナイの海上支配権を再構築し、その正当性を主張するイデオロギーを構築するアテナイの意志をイソクラテスの弁論に認めることができるのである。
 前世紀の帝国の記憶は前4世紀アテナイの行動指針の構築に決定的な影響を及ぼしていたと評価できる。前4世紀のアテナイはペリクレス時代のアテナイと同じくスパルタとの双極体制構築をギリシアの平和維持の条件だと認識していた。
開催日時 2018年7月22日 14時~16時
開催場所 徳照館2階第一共同利用室
テーマ 古代メソポタミアにおける神格化−ウル第三王朝期の神格化王の目的と特性の再考−
発表者 辻坂真也
研究会内容  古代メソポタミアにおいて、シュメール人はその発展に強い影響力を持っていた。特にシュメール人最後の王朝であるウル第三王朝は、紀元前3千年紀以前の都市国家体制を終わらせ、以降の領域国家体制を樹立させた。ウル第三王朝はシュメール文明の終焉でありながら、同時に新たな国家体制を形成した重要な過渡期である。
 しかしウル第三王朝では、それ以前のシュメール人にも、そしてそれ以降のバビロニア人の文明においても決して見られない、特異な現象が存在する。それが王の神格化である。従来の研究者によって、神格化の目的はウル第三王朝の領域支配と中央集権を支えるためであると主張される。しかし神格化は、後世の領域国家の君主たちには受け継がれなかった。ゆえに神格化については取り組むべき問題が2つあり、1つが神格化の目的、そしてもう1つが神格化王の特徴である。
 前者の問題は、ウル第三王朝初代王であるウルナンムが戦死、もしくは早死にしたことが手掛かりとなる。文学作品では、神は自身のお気に入りには良き運命を、不敬な存在には悪い運命を定めるものとされた。こうした思想のなかで、ウルナンムが戦争で敗北、もしくは尚早の死を遂げたことは、彼が神にとって不敬な存在であることを意味する。こうした王権への不信は、その後を継いだ2代目王シュルギにも強かっただろう。ゆえにシュルギは神に選ばれた正当な王であることを主張する必要があり、その証左が神格化だった。
 2つ目の問題である神格化王の特徴は、王権の象徴である、王冠を神から渡されることで、王位につくというイデオロギーである。こうしたイデオロギーは、王権そのものへの神聖視へと繋がった。神格化王は、神から与えられた王権の象徴を身に纏うことで初めて、神格化できた。この特徴は、先述の目的とも調和している。
政治的な権力の拡大と、神格化を結びつけるのは尚早な議論である。神格化は、現代の研究者によって想像されるような「神となった王」の性質よりも、「王としての正統性」を主張することが目的である。彼ら神格化王の宗教的な態度は、従来の君主から乖離したものではなく、むしろメソポタミアの宗教観に則ったものであった。

2017年度

開催日時 2017年11月28日(火)17時~19時
開催場所 同志社大学徳照館2階第1共同利用室
テーマ 研究懇話会
シモン・ド・モンフォールの議会再考
発表者 朝治啓三(関西大学教授)
研究会内容  関西大学から朝治啓三教授をお迎えし、イギリス議会制度史上の重要事件とされてきた所謂「シモン・ド・モンフォール議会」について教科書にも利用されている従来の学説に問題があることが報告された。従来説は19世紀に成立した学説であり、同時代のイギリスの政党政治を理想化した歴史観の影響を強く受けていた。その為に1265年のシモン・ド・モンフォール議会をイギリス議会が国王主権を抑制し、議会主権を確立していく一里程と過大に評価してきたのである。しかし、報告者自身がイギリスの資料館で調査した結果は国王に対する地方の抵抗がシモン・ド・モンフォール議会を動かしたという従来説を疑わせるようなものであった。地方には中央政府を抑制しようとする積極的な意思は見られず、むしろ中央政府に嘆願するという行為が目立つという事実が指摘された。さらに地方の関心は行政に関与させられていく負担を回避しようとする動きが明白であるということも指摘された。シモン・ド・モンフォール議会の背景にはイギリス・フランス・シシリー・ドイツをつなぐアンジュー帝国を構築しようとするヘンリー三世とイギリスという国家を建設しようとするシモン・ド・モンフォールの政治抗争の対立があったとまとめられた。
 報告を通して歴史学の構想と近代化モデルの問題、史料の扱いと評価の問題が我々歴史研究者や考古学研究者に深く関係してきていることが改めて痛感させられた。ないこの懇話会にはローマ大学からパオロ・カラーファ教授とマリア・テレサ・ダレシオ准教授も参加され、歴史学と考古学の関係について発言をされた。
開催日時 2017年11月27日(月)13時~17時
開催場所 同志社大学志高館112番教室
テーマ 第90回公開講演会
「ギリシア・ローマ史における歴史学と考古学 ―歴史像の構築とその方法―」
発表者 中井義明(本学文学部教授)
パオロ・カラーファ(ローマ大学教授)
マリア・テレサ・ダレシオ(ローマ大学准教授)
研究会内容 報告者1:中井義明(本学文学部教授)
論題1:「或る戦後の記憶:ラケダイモン人の墓」
 前403年のアテナイの内戦に関与したスパルタ人戦死者の塚について論じた。問題とした塚はアテナイの国立墓地にあり、アカデメイアに通じる幅60メートルと推定される道路に面し、市門に極めて近いという一等地を占拠している。しかも長さ13メートル近くある大きな石造の塚であり、道路に向けてラコニア文字で逆さ文字で銘文が塚の頭部に施されている。問題は敵国の戦死者の巨大な塚が国立墓地に構築され、破壊されることなく残されたのかという点にある。結論としては前5世紀末のアテナイの従属性、前4世紀前半のスパルタとの外交関係重視といった事情が働いていたのではないかという結論に達した。

報告者2:パオロ・カラーファ(ローマ大学教授)
論題2:「前世紀のイタリアにおけるギリシア・ローマ(古典)考古学―古代の遺跡と景観の統合および叙述―」
 報告者は報告者自身が現在ローマ考古学で行っている革新的な考古学の方法論とそのコンセプトについて報告した。それは今なおイタリア考古学界で支配的な古典考古学、即ち美術考古学への批判である。同時にイタリアにおける考古学の成果にあまり関心を示さないイギリスにおけるニュー・アーケオロジー(新考古学)への批判でもある。発掘によって出土した遺物の美術的価値によって評価が左右され、その背景に横たわっている歴史的環境への関心が欠如していることに対する報告者の批判である。大事なことは個別に拘泥するのではなく、個別の間にある関係性に目を向け、それ通して全体を再構築していこうとする努力である。報告者は考古地理情報システム(GIS)を利用して遺跡を三次元的に復元し、時間の中での変化を再現して遺跡や遺物と歴史との関係を明らかにしようとしてきた。同時に報告者はパラティヌスの丘の発掘調査を長年にわたって続けて来ており、きわめて古い層に都市遺構を発見するなどの大きな業績を挙げている。考古学と歴史学の共通言語を構築し、考古学の成果を歴史学と共有しようとする報告者の活動は我々古代史研究者に大きなインパクトを与えるものであった。

報告者3:マリア・テレサ・ダレシオ(ローマ大学准教授)
論題3:「考古学と文献-古代ローマの場合」
 報告者は先ず文献史料の問題を論じる。文献史料の多くは断片的であり、相互に矛盾していることが多い。その例としてユピテル・スタテル神殿を取り上げる。神殿はローマ最初期に遡るものである。伝承によれば初代の王ロムルスがユピテルに祈願してサビニ人の侵入を止めたという。このことに因んで撃退した地点に神殿が建てられた。しかしその所在地は不明であり、文献上の一致もなく、遺構も地表に現れていないことから数々の論争が繰り広げられてきた。ローマ大学は過去30年に渡ってパラティヌス丘の北麓部で発掘調査を遂行し、最近の調査(2013-2017年)でこの神殿の所在地解明につながる遺構を検出した。それは前8世紀に遡る遺構である。またその付近から文献史料が言及する第5代および7代の王タルクィニウス(プリスクスとスペルブス)一族の家と思われる遺構も検出したのである。最初期は壁で囲まれ祭壇があるだけの聖域であった。神殿という建物が建築されたのは前3世紀初頭のことであった。神殿は後64年のネロの大火により破壊されたことがタキトゥスによって記述されている。ネロは神殿をフォルム・ロマヌムの反対側,即ちウィリア丘の麓付近に移築したと考えられる。そのことが神殿の所在地に関する文献史料上の混乱を生じる原因になった。
 これらの報告は人文科学研究所から『人文研ブックレット』で刊行される予定である。
開催日時 2017年10月21日(土) 14時~17時
開催場所 同志社大学徳照館2階第1共同利用室
テーマ 前1世紀ローマの東方での支配圏維持をめぐって ーコンマゲネ王国を対象にー
発表者 木下皓司(京都大学大学院修士課程)
研究会内容  ユーフラテスの上流、シリアとアルメニアに接する辺境地域にコンマゲネ王国という緩衝国家があった。共和政時代末期のローマはヘレニズム世界にその支配権を拡張していくが、それと同時に東方の大国パルティアとの対立を高めていくことになる。ミトリダテスとの戦争を通じてスラやルクルス、クラッススがコンマゲネ王国と外交的な接触を始める。ポンペイウスやカエサルがヘレニズム世界の大国セレコス朝やプトレマイオス朝の弱体化を受けてシリアへの進出を本格化するが、その際地中海世界と西アジア奥地との交通路を扼するコンマゲネ王国を取り込んでおく必要性が高まった。ここにコンマゲネ王国の重要性が高まったのである。
 報告はコンマゲネ王国を対象に、ローマの帝国支配を「クリエンテラ王国」という視点から分析している。クリエンテラ王国は従来、対外クリエンテラとの関連で論じられてきたが、近年では両者は切り離され、従属的な意味合いではなく友好的な王国を指し示すようになっている。ローマとパルティアの境界周辺に位置していた諸勢力は、両大国の軍事行動に応じて立場を変えており、大国の決定がただちに在地勢力の動向を決めていたとはいえない。そのような地域に位置したコンマゲネ王国は、先行研究の主張とは異なり、当初からクリエンテラ王国としての役割を求められてはいなかった。カエサルやポンペイウスの時代においては、ローマ全体として、コンマゲネ王国を重要視していたとは言い難く、あくまで個人を介して両者は結びついていただけであった。その後、アントニウスとオクタウィアヌスの時代になると、ローマの政策は変化する。軍事面や政治面からコンマゲネ王国への関与を強めるようになったのである。報告者はこの時期をローマのコンマゲネ王国に対する政策の転換点であり、帝政期に入ると全面的にクリエンテラ王国としての役割をコンマゲネ王国に求めるようになったと論じている。
 地中海中心の従来の西洋古代史研究ではあまり注目されることのなかったコンマゲネ王国に焦点を当て、共和政末期のローマの東方外交で重要な位置を占めたコンマゲネ王国を正面から取り扱ったという点が評価される。
開催日時 2017年7月1日(土) 14時~17時
開催場所 同志社大学徳照館2階第1共同利用室
テーマ ローマ帝国期北アフリカにおけるローカル・エリートと神殿建設
発表者 井福 剛(同志社大学嘱託講師)
研究会内容  現在のチュニジア内陸部に位置する古代ローマ都市トゥッガを取り上げ、トゥッガの都市支配者たち(報告者はローカル・エリートという用語を使用する)がどのような文化政策を取ったのかが論じられた。トゥッガにはリビア人原住民、カルタゴ系住民と並んでローマ人入植者という複合的な住民構成を持つ都市である。そのトゥッガが帝国の首都ローマの文化を受容する際にどの様な姿勢でこれを行ったのかが問題となる。従来の研究では属州都市民がローマ文化に溶け込んでいくことで帝国への帰属意識を作り上げたと論じていたのである(ローマ化)。それに対して報告者はローマ文化の受容には受け手側の主体的かつ選択的な側面が見落とされていることを指摘し、ローマ風の神殿が立てられた事を以て「ローマ化」と評価してしまうことの危険性を論じる。本報告で取り上げられたサトゥルヌス神殿も、純粋にローマ神殿とは言い難く、主神であるサトゥルヌスも実体としてはカルタゴ時代の神と変わっていないことが明らかにされた。実際、トゥッガでは帝政末期に至るまで新フェニキア語とラテン語併記の碑文が作成されており、コロニアに昇格した後もカルタゴ時代の文化が色濃く残されていたのである。
 本報告の重要な点は19世紀型の単純な「ローマ化」概念が退けられ、また20世紀後半に強まってきた「ポスト・モダン」の流行の中で強まってきた属州側での「抵抗」概念に与せず、「主体的・選択的受容」という枠組みを構築することで帝政期北アフリカの都市文化の実相に接近できたことにある。
開催日時 2017年5月27日(土) 14時~17時
開催場所 同志社大学徳照館2階第1共同利用室
テーマ ウル第三王朝の自己神格化 ――神々との関係と宗教儀礼を通じて
発表者 辻坂 真也(同志社大学大学院M1)
研究会内容  シュメールの王権は都市国家時代から、領域国家に渡る過程で、大きく変化している。とりわけそれは王の神格化に現れると報告者は考えている。従来の研究では神格化の証左として限定詞dingirが重要視されてきた。報告者はdingirという限定詞の使用事例をリストアップし、それに基づいて神格化のか過程と神格化した王が果たした役割について報告した。dingirという限定詞はウル第三王朝期においては王としての即位後に初めて使用されているということが確認され、明らかに王自身の神格化を意図していたと論じられた。ついで女性の神官と王との関係について分析され、一族の女性を女神官とすることで神々との疑似的血縁関係の構築を目指したことが指摘された。さらに後世の古バビロニア時代の史料から王が神話上・宗教儀礼上の神々の役割をウル王が農耕儀礼を通して代行していることの重要性を指摘する。
 ウル第三王朝以降このような王の神格化が継承されているのかどうか、更には初期王朝期に関してはどうだったのかを比較研究する必要性があると思われる。
開催日時 2017年4月22日(土) 13時~15時
開催場所 同志社大学徳照館2階第1共同利用室
テーマ ポンペイの庭園ー古代ローマにおける庭園の発展とその社会的背景についてー
発表者 平井遥佳(同志社大学大学院M1)
研究会内容  ポンペイ及びその周辺地域における発掘調査は数多くのローマ時代の庭園を明らかにしてきた。しかし従来の研究はあくまでも建物本体に関心が向けられ、庭園への関心は補足的なものに過ぎなかった。報告者はポンペイに見られる庭園の変化から逆に建物の変化を明らかにしようとするものである。ポンペイとその周辺地域における発掘調査は庭園部分をも含んでおり、建物の中における庭園の位置や形状、植物の根などの残存物の発掘、壁画に描かれる庭園の有様などを明らかにしてきている。前1世紀に生じたローマ人退役兵の入植、オリーブ油や葡萄酒の製造輸出の活発化による農場経営者や商人層の台頭、カンパニア地方に現れたローマ貴族たちの別荘、これらがペンペイにおける建物と庭園に大きな影響を与えたのである。アトリウム(入口にある大広間)からペリステュリウム(家屋の奥に設けられた回廊式庭園に面した私的空間)への生活の場の移行などが論じられた。
 京都の古い商家に見られる表座敷と奥座敷、更には奥座敷に面した庭といったものを想起させるが、アトリウムとペリステュリウムとの関係もそのように見て良いのかどうか。その事がポンペイ市民の社会生活の変化を反映しているのかどうか。さらには後1世紀に生じた地震がポンペイの庭園にどのような影響を及ぼしたのか(建物に関しては道路に面した部分が商人の店舗に貸し出されるというようなことが生じているが)、などの様々な課題が浮かび上がって来る。

2016年度

開催日時 2016年12月17日 14時~17時
開催場所 神学館会議室
テーマ 追悼演説のポリティクス: 共和政ローマの葬送儀礼における記憶の継承と構築
発表者 米本雅一氏(本学特任助手)
研究会内容  9名出席
 発表者はヘイドン・ホワイトの「実用的過去」という概念を用いて共和政期ローマの政治文化を分析する。共和政期においては追悼演説において過去が語られるが、それは政治的エリートによる過去の記憶の独占、民衆支配の装置とみなされてきた。しかし発表者は追悼演説に対する民衆の反応に着目し、グラックス兄弟の記憶、マリウスの記憶、カエサルの追悼演説などの事例を通じて民衆の側における過去の記憶と記憶の形成に対する影響を指摘し、それを「オルタナティブな記憶」と呼ぶ。そのオルタナティブな記憶がカエサルの神格化を結果したとし、ゲルツァー以来の元老院貴族支配というローマの政治文化論を批判する。元老院貴族による一方的支配ではなく、民衆が自立した存在であり、政治的エリートに影響を及ぼしていたと論じる。
 本報告は共和政ローマにおける民衆に着目してきた報告者のこれまでの研究の延長線上にあることは言うまでもない。

 追悼演説が帝政期にどのように変化していくのか、準備期間が短い追悼演説は予め聴衆の反応を計算していないのではないか、護民官職の復活という事情がカエサルの演説を容易にしたのではないか、ファビウス・マクシムスの例から追悼演説は複数あるのではないか、などの質問があった。
開催日時 2016年11月19日 15時~17時
開催場所 徳照館第1共同利用室
テーマ ローマ都市の起源 ―神話と考古学からの検証―
発表者 ヴィンチェンツァ・イオリオ氏(ラツィオ考古監督局)
研究会内容  23名出席
 報告者は21世紀に入ってからのイタリア考古学の新しい動向と成果を紹介した。これまで断片的に紹介されてきたイタリア考古学の方向性を、本報告を通して知ることが出来た。 
 地中海世界を統合し三大陸にまたがる大帝国を築いたローマの建国についてはリヴィウスなど古代の著作家たちによってトロヤ落人の子孫ロムルスに帰せられている。前753年のこととされる。近代歴史学の立場から古代ローマ史研究を確立したニーブールは神話と歴史学/考古学を峻別し、歴史から神話を排除したのである。その影響は現代の研究者にまで及んでいる。しかしイタリアでは21世紀交以降歴史学/考古学と神話を接合する動きが強まり、2010年代に入ってフォロを発掘しているローマ大学のカラーファは前8世紀に遡る古い遺構を見つけている。ローマ市内にある「牛の広場」からは中期青銅器時代の住居と墓が発見されており、テーヴェレ川を利用する中継交易地としてローマが古くから発展していたことが窺える。またアウグストゥスの凱旋門付近やパラティヌス丘からは前10世紀の住居や墓地、前8世紀のギリシア製土器が見つかっている。フォロにおけるカランディーニによる2006年の発掘では前730年頃に属する城壁や王宮などの存在が明らかになっている。これらのことから神話で語られてきたことが考古学によって裏付けられるようになってきている。
 このような近年におけるイタリア考古学の情報は我が国における我が国におけるローマ史研究に裨益する点が多いと確信している。
開催日時 2016年10月22日 15時~17時
開催場所 徳照館第1共同利用室
テーマ テクラ崇敬とローマ女性史 ―Susan Hylenの研究を手がかりとして―
発表者 足立広明氏(奈良大学教授)
研究会内容  14名出席
 報告者は長年にわたり古代末期の社会の変化と女性の問題を研究してきている。今回の報告は今一度その研究の原点に戻って内外の研究史の整理と動向を探り、外典に属する「パウロとテクラの行伝」を新たな目で見直し古代末期の女性を取り巻く社会と文化を論じるものであった。
 報告者は古代末期におけるテクラ崇敬の概要を説明したあと、2015年のSusan HylenのA Modest Apostle: Thecla and the History of Women in the Early Churchに至るまでの研究史の動向を紹介する。1990年代に入ってE. ClarkやK. Cooperらの研究が出るまでは研究者たちはテクラやその他の女性聖人にまつわる史料は彼女たちが活躍した時代の社会を反映しているものとして捉えて来たのである。しかし1990年代に入り歴史研究に言語論的転回が取り入れられるようになると、史料が古代末期の社会状況を反映しているわけではなく「行伝」の著者の意図やレトリックが女性聖人の物語やエピソード(奇跡を含む)を構築していったと論じられるようになったのである。もっともそのような言語論的転回に立つ批判に対して、口頭伝承に基づいている部分のあることや女性から女性へと語られる歴史と男性が記述する歴史との間には相違が存在していること、読み手や聞き手としての女性の主体性を指摘する批判も現れたのである。
 これらの研究の流れを受けてHylenは従来の研究が二項対立的に研究を組み立てていると批判する。Hylenによれば古代ローマ時代の女性が従属的地位にあったことは確かであったが、それでも機会は少ないが公的な舞台に姿を現し、公衆から称賛を浴びることもあったと指摘する。史料が伝える言説はそのまま社会の実態を表わすものではなく、女性はしばしば指導的な役割を社会の中で果たしてきたのである。テクラは男性に対する反抗者でなければ異端でもなく、社会に参加していく女性の姿を反映したものであると評価する。
 このHylenの見解を報告者はテモテやリヴィア、エジプトのパピルス文書の登場する女性、小アジア出土の碑文に見られる女神官などと比較検証し、その報告をまとめる。
開催日時 2016年7月31日 15時~17時
開催場所 徳照館2階第1共同利用室
テーマ 帝国の記憶と遺産
発表者 中井義明(本学教授)
研究会内容  前4世紀の90年代前半のアテナイを論じた。前404年のアテナイの降伏は帝国(アテナイ帝国)の解体のみならず民主制の崩壊をも結果した。民主制は内戦の結果回復されるが、帝国は回復されることはなかった。対外的にはスパルタの覇権に従い、積極的に外交政策を展開することはなかったのである。ところがコリントス戦争前夜になると突然アテナイによる海上支配が資料の上に現れてくる。この間の約10年アテナイの歴史は国内の党派と階層間の対立の歴史として語られてきた。問題は何故アテナイの海上支配が正当な権利として主張されるようになったのかが明らかにされていないということである。報告者はサモス民主派との決議碑文(IG. II2 1)とタソス民主派との一連の決議碑文( IG. II² 6, IG II2 24, IG II² 33, cf. IG XII 8. 263)をベースに海外の民主派や亡命者とアテナイとの関係性に着目し、これら民主派との関係が敗戦によっては消滅しなかったことを指摘し、帝国の遺産として残され、強く意識されていたことを報告したのである。またアテナイを中心とする帝国時代の民主派ネットワークが残存していて、そのネットワークを通じてアテナイがその外交的影響力を行使していたことも論じた。その際クセニア(賓客関係)やプロクセニア(名誉領事制度)の付与、アネル・アガトス(善行者)顕彰を通じて帝国時代の記憶が求められ、アテナイとの密接な関係の記憶が当事者間で共有され、決議文の中で強調され、碑文に刻み公表されるというかたちで記憶の共有が試みられたのである。そしてこれらがアテナイの海上支配要求の背景にあったことを論じた。第一次世界大戦が記憶から語られ始め歴史に記述されるに至るのに対して、古代アテナイの事例では歴史に記述されることから始まり記憶に至るという逆のプロセスを歩んだとも言える。
 歴史と記憶について多くの質問があり、SEGなども参照して、最近の碑文研究にも配慮する必要性が指摘された。  (18名参加)
開催日時 2016年6月25日 14時~16時
開催場所 寧静館会議室
テーマ マウレタニア・ティンギタナ属州におけるローマ支配の実態
発表者 大清水 裕(滋賀大学教育学部准教授)
研究会内容  本報告は現モロッコ西部に属するマウレタニア・ティンギタナにおけるローマ時代の遺跡と属州部族指導者へのローマ市民権付与を記した「バナサ碑文」に関して行なわれた。
 マウレタニアは40年にマウレタニア王プトレマイオス2世がカリグラによって殺害された後、クラウディウス帝によって属州としてローマ帝国に編入された。属州の東半分にはアトラス山脈が走り、西半分に平野が広がる。属州の中心はウォルビリスと推定され、属州西半分は平たんな地が広がり、河川に沿ってローマ風の都市が建設された。しかしコロニアとして建設されたサラには円形闘技場や劇場がなく、また属州全体に建設された都市の数も少なく、ローマ化の浸透の低い帝国辺境の属州の特徴を窺わせる。注目されるのはバナサというローマ都市の広場に公示されていた青銅板の皇帝勅令である。「碑文」は在地部族の指導者に対するローマ市民権の付与を明示する。ローマ市民権が属州総督コイエディウス・マクシムスの尽力によって皇帝マルクス・アウレリウスと共同統治帝ルキウス・ウェルスから付与されている点に報告者は注目する。帝国の中心から遠く離れたマウレタニア・ティンギタナは属州を防衛する軍団を持たず、属州内外の土着民、マウリ人諸部族の反抗と侵入に苦しめられていたのである。そこでゼグレンセス族の指導者ユリアヌスとその家族にローマ市民権を付与することで属州の治安の維持を図ったのである。シャービン・ホワイトらの研究者がルーティーン化された市民権付与を示すものに過ぎないと政治的意味合いを低く評価するのに対して、報告者は十分な軍隊を持たない辺境の属州総督の外交的努力の表れであると高く評価する。
 本報告に対してサラ以南の地に対する帝国の関心はなかったのかとか、ウォルビリスの遺跡図から判断してデクマヌスに沿った街区はローマ的な特徴を有しているが南東の街区はそのような特徴は見られないとか、「バナサ碑文」の文字などについて質問があった。
 参加者9名
開催日時 2016年5月29日 14時 ~ 16時
開催場所 徳照館会議室
テーマ 後期ローマ帝国における過去と現在の表象:変化、衰退、権力をめぐって
発表者 西村昌洋氏(龍谷大学非常勤講師)
研究会内容  12名出席
 帝政期のローマに流行った文学のジャンルにPanegyricusと呼ばれる頌詩がある。皇帝を称えるための演説であるが、それは文字に起こされてパンフレットの形で広く知識人たちの間に広められたのである。その内容、称賛される徳目、文章などは様式化され定形化されていた。報告ではクラウディアヌスのスティリコに対する頌詩などが紹介された。古代末期になるとキリスト教の聖職者たちによって亡くなった皇帝を称える賛辞が著されるようになる。本報告は頌詩と賛辞を比較考証することを目的としている。
 皇帝への頌詩が実際には大衆を前にして読み上げられたというよりは、宮廷の限られた空間で少数の人々を前にして朗読された可能性があり、その内容は一般に流布される可能性は低かったと思われる。しかしこの頌詩は作者が所属するエリート知識人層を強く意識するものであり、朗読と同時にパピルスなどに筆写されこの知識人層の間に流布されていったのである。頌詩の作者や頌詩で称賛される皇帝たちはこの知識人層の間での評判を意識する必要性があったのである。
 頌詩が生きている皇帝を称えるのに対してキリスト教聖職者たちは物故した皇帝を称える賛辞を著している。その例としてアンブロシウスによる故テオドシウス帝への追悼頌が取り上げられる。その中でキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝は評価されず、母后のヘレナが称えられる。そのヘレナが聖地で発見したと言われる十字架の釘を使った冠を被ることがその後の皇帝の正当性を証明するものとして評価されるのである。
 この報告に関して頌詩が共和政時代からの伝統なのか、また何故亡くなった皇帝への頌詩が存在しないのか、スティリコは皇帝ではないのに何故頌詩を献上されたのか、頌詩は現実を語っているのかそれともそのように想定された理想像を語っているのかなどの質問があった。
開催日時 2016年4月24日 14時~16時30分
開催場所 寧静館5階会議室
テーマ ゼウス・ヘルメケイオスとエレウシスの儀礼:
パイアニア決議IG I3 250の再校訂から
発表者 竹内一博(アテネ大学・明治大学兼任講師)
研究会内容  報告者はペアニアのリオベシから出土したパイアニア区の儀礼決議碑文の再校訂を試みる。碑文は摩耗と欠損が多く、パイアニア区が決めた儀礼に関して碑文学者による校訂に依るところが多い。本碑文はW. Peekによって1941年に校訂された。決議AとBは同じ内容のものを含んでいる。報告者が特に問題としたのは決議B22~23行目のPeekの復元である。この箇所は削り取られた跡があり、残された文字は明瞭ではないが、PeekがΔllll-…をΔ├├ hιερεόσυνα ├├├├(女神に2ドラクマ、神官に4ドラクマ)と復元したのを批判し、M. H. JamesonがΔΙΙΗΡ…ΟΙΙΣ…c7…と復元しているのを評価する。また24行目をPeekが[ές] Άνθε[ια](アンテイア祭へ)と復元するのを退け、Jamesonの[έ]ν Θεοιν[ίοισι(双柱の女神の神殿において)という復元を採用する。つまり問題の削除箇所にはゼウス・ヘルメケイオスとエレウシスの神殿への儀礼が記されていたと主張するのである。

質問等:
この報告に対してB22~23行目の削除がどの様な意味を有しているのか、何故A決議・B決議と再決議したのか、碑文を前450~430年代に比定した理由は何か、デーモスの決議碑文という公的なものにも拘らずストイケドンがない原因は何か、極めて私的な祭儀に関係するゼウス・ヘルメケイオスへの祭儀をデーモスという公的な祭儀として決議する理由は何か、ディオニュソスへの言及が本碑文に見られないのでアテネ大学に提出する博論から本碑文を除外するという結論で良いのか、などの質問があった。