このページの本文へ移動
ページの先頭です
以下、ナビゲーションになります
以下、本文になります

第5研究 生きるための環境をめぐるマニュアルの社会史 研究代表者:服部 伸(文学部)

本研究は、西洋と日本において、伝統社会から、近代社会を経て、現代社会に至るまでのさまざまな時代に編まれた、生きるための環境に関する「マニュアル」の内容を文化的・社会的側面から分析することを通して、人びとが身体及び環境についてどのような意識をもっていたのかを、その時代・地域の歴史的文脈と関連づけつつ、比較史的に考察する。そのさい、とくにマニュアルに含まれる「イデオロギー性」と「操作性」に注意を払う。同時に、この研究を通して、いかに生きるべきかという指針を求めて人びとがさまよう現代社会の特質がどのようにして生成されてきたのかを解明し、その中で生きることの意味を再確認するための素材を提供する。

2018年度

開催日時 2019年2月17日 13時~18時
開催場所 徳照館1階会議室
テーマ 「都市と醸造(業):19世紀前半ミュンヒェンを事例に」
「公衆衛生の制度化にむけて:20世紀初頭ノースカロライナ州における医師資格整備、薬品の安全確保、予防接種義務化」
発表者 東風谷太一(東京外国語大学特別研究員)
平体由美(東洋英和女学院大学)
研究会内容  本報告は19世紀前半ミュンヒェンを事例に、都市社会のコミュニケーションのありかたの変容を、ビールと醸造業(者)をめぐる言説という視点から分析した。主に使用した史料は、ビール価格高騰時になると現れる醸造業(者)批判パンフレットと、それに対する醸造業者の反論パンフレットである。今回特に止目したのは、それぞれのパンフレットにおける①醸造業者の収益、②醸造技術、③ビールの味に関する言説である。 
 まず、①については、醸造業者の収益の膨張とそれが不正に支えられているのではないかという疑惑が目立つようになっていくことを指摘した。そしてこのことが②の変化と結び付けて語られるようになることを明らかにした。19世紀前半は都市人口の急増や醸造業の寡占化を背景に、醸造業者が積極的に科学知識・技術を取り入れて品質改善や生産性向上に努めたが、消費者の側にはこれがむしろビールの質の劣化を招いているとの認識が見られた。つまり③に関しては、ビールが「薄く」なっているという主張が徐々に顕著となっていくのであるが、こうした主張を一概に主観的と断ずることはできず、実際に公権力によるビール関連法制の改変過程で、税収増のためビールを従来よりも「薄く」造るよう規定されていたことを指摘した。ただし、これは消費者に周知されておらず、図らずもパンフレットが「暴露」する形となり、これに対する醸造業者の反論もそれほど説得力を持たなかったものと考えられる。以上のような過程を通じて、旧来の醸造業者の表象にまつわりついていた二面性――経済的有力者であると同時に都市共同体の福利への貢献者、のうち後者が脱落していったことを示した。
 当該時期のミュンヒェンでは、今回取り上げたパンフレットに限らず、実に様々な水準のメディアでビールをめぐる議論が交わされていた。パンフレットの分析から浮かび上がったのは、こうしたコミュニケーションが破断していく過程であり、この破れ目に現れたものこそ、1840年代のビールをめぐる騒擾とビールの「ボイコット」ではなかった、という仮説を提示した。(東風谷)

 先進国において20世紀前半は、健康と病とが、個人のプライベートな問題から公共の関心事に変化した時代である。研究者の多くはこのテーマについて、都市の公衆衛生政策を中心にその変化を検討してきた。本報告では、広大な農村地域を抱えるアメリカ合衆国ノースカロライナ州の種痘政策に焦点を当て、非都市空間において種痘を推進するための制度と政策がどのように積み上げられてきたのか、それらの政策がなぜそのような順番で行われたのかを検討し、北部大都市における政策と比較することで、公衆衛生の制度化に働いた力学を考察することを試みた。
 人口分散、貧困、人種秩序の強化というノースカロライナ州の条件では、大都市の種痘強制政策をそのまま適用するには障害が多かった。さらに、種痘を推進するはずの公衆衛生専門家集団の専門的知見が更新されていないという問題があった。そのため、ノースカロライナ州の種痘政策は、医師資格の厳格化と郡単位での意思決定という、当時の政治状況に鑑みて可能な方法を選択する迂遠な道筋を辿ることとなった。加えて、種痘推進派と種痘拒否派の双方が、北部大都市で見られたような雑誌を通じたコミュニケーション・ネットワークを欠いていたため、どちらも自身の主張を政治的な圧力に返還することができなかった。
 公衆衛生の制度化を前進させたのは、1930年代における貧困の改善、統計や教育のシステムの整備と共に、コミュニケーション・ネットワークの活性化だった。ただしこのネットワークは、専門家を繋いで近代的公衆衛生の構築に寄与した一方で、予防接種拒否派をも結びつけ、現代のワクチン論争へとつながってくるのである。(平体)
開催日時 2018年11月11日 14時~17時
開催場所 至誠館3階会議室
テーマ 「1900-1918年のドイツにおける医学教育、アルコール依存症および酒造業界に関する考察」
発表者 ミヒャエル・ハウ (モナシュ大学)
研究会内容  報告者は、これまでの研究の中で、第一次世界大戦敗戦後の国民の健康、身体能力、労働意欲を回復させることを目的として、ドイツ国民の勤労意欲と作業能率を向上させようとするエリート層と政府による生政治的な試みについて明らかにしてきた。当時、社会衛生学者たちはアルコール依存症が引き起こす弊害について警告していた。戦間期に開催された衛生博覧会では、飲酒が人間の作業効率を低下させることへの警告が重大な関心事でたった。飲酒に対する懸念は、すでに第一次世界大戦前の1911年に開催されたドレスデン国際衛生博覧会でも取り上げられている。こうした動きに、酒造業界は危機感を募らせていた。
 本報告は、飲酒が健康に悪影響を及ぼすという言説が広がりつつあった帝政期のドイツにおいて、当代一流の科学者たちと醸造業界が繰り広げた論争に焦点を合わせる。そこで注目されるのは、飲酒反対派の評判を落とそうとする広報活動である。
 酒造業界は、禁酒という妖怪に脅かされ、禁酒運動に反対する広報活動を展開した。酒造業界の広報活動のなかでは、意図的に科学者の主張が曲解され、また攻撃された。たとえば、バイエルン王ルードヴィヒに宛てた公開書簡で、世界的な精神医学者エミール・クレペリンの研究が偏見に満ちているとし、「優秀な医者たちからも、人を惑わすものであり、不十分であると評価されている」などといった事実無根な内容で、彼の論文は許しがたい方法で酒類と精神病を関連付けたと批判した。
 クレペリンはこうした動きを、自分の学問的な評判を落とし、清廉潔白である自分への信用を失墜させようとする企てと見た。さらに、業界団体の活動を、都合のいいように研究に干渉し、気にくわない結果に圧力を加え、学問を望む方向に駆り立てようとする「経済的利益を求める一派の不当な企て」の例であるとした。それでも、業界団体はそれに動じることなく、クレペリンや他の研究者たちの主張を正反対にねじ曲げた。
 今日の目から見れば、業界団体の主張は荒唐無稽であるが、彼らは同時代のメディアに大衆受けする記事を流したのに対して、専門家たちは一般メディアには記事を載せず、その影響力は小さかったのである。
開催日時 2018年10月20日 13時~18時
開催場所 徳照館2階第一共同利用室
テーマ 「台湾総督府官僚・市島直治のみたハプスブルクの植民地統治 ―ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける森林政策を中心に―」
「ヴァイマル期全国数学者協会の議論と活動」
発表者 村上亮(福山大学)/寺山のり子(京都大学)
研究会内容  日本による台湾統治、ハプスブルクによるボスニア・ヘルツェゴヴィナ(以下、ボスニア)統治は、いずれも初めての「植民地」統治であった。そのため両国は、当初手探りの状態で支配体制の構築を進めた。とくに台湾統治は、現地の治安安定に苦慮するとともに、本国財政への負担軽減のため、経済振興による租税収入の増加も求められる難局に直面していた。そのなかで、第4代総督児玉源太郎のもとで民政長官に就任した後藤新平、殖産局長をつとめた新渡戸稲造らがボスニアを訪れ、ハプスブルクの施政を評価したことはほとんど注目されてこなかった事実である。少なくとも同時代にはボスニアが「植民地」と捉えられていたことに留意しておきたい。
 以上をふまえ本報告では、日本とハプスブルクの「植民地」を介した関係史の構築を視野に入れつつ、日本の台湾総督府官僚市島直治によるボスニア統治に関する報告書(『復命書』)を取りあげた。具体的には、ボスニア、台湾の施政の共通点を整理したうえで、市島『復命書』の骨子の整理、ならびにその特徴を検討した。考察の結果、市島がハプスブルク政権による森林行政機関や関連法の体系的な構築、森林開発における企業の誘致やインフラの整備などを高く評価するとともに、統治全体に関しても称賛したことを確認した。もっとも『復命書』の内容が「文明化の使命」に代表される支配者側の言説の枠組みに即したものである点には注意が必要である。(村上)

 今回の発表で取り上げた全国数学者協会という団体は、1921年にドイツ数学者連盟から派生する形で設立され、1938年に再度連盟に吸収合併された数学者および数学教員たちで構成された団体である。協会は、教育現場での数学を扱っていたことから行政とのやり取りが活動の中心であり、1933年にナチ党が政権を握ると、早々と政権に同質化した。ナチ期における協会の存在感の大きさのため、これまでの先行研究では、そのナチ期における活動だけに焦点が絞られてきた。そのため、今回はヴァイマル期における協会の議論と活動を取り上げ、技術ペシミズムという思想潮流と、科学技術の比重の増加の狭間にあった時代における数学の立ち位置を考察することにした。
 ヴァイマル期の数学者協会における議論は、時間軸に沿って大きく3つにまとめることができる。1つ目は、中等教育における授業時間数削減に関する問題、2つ目は、中等教育における応用数学の問題、3つ目は中等教員試補試験をめぐる問題である。これらの問題に関する数学者協会内の議論を考察して得られた結論は次の通りである。
 数学者協会は20年代、教育科目としての数学の確保と維持を一貫して追求した。数学者協会がとってきた中等教育改革への対応は、個別具体的なものであったが、どの問題についても議論が十分に熟さない前に、次の問題が生じ、結局はその対応案も中途半端なものにならざるをえなかった。この事実が示すとおり、ヴァイマル期における数学教育のあり方については、数学に携わる者が関与する余地がほとんどなく、数学という科目にとって不利な状況に陥っても、それを甘受していくほかなかった。第一次世界大戦敗戦の影響による技術ペシミズムは、教育政策の場に大きな影響を及ぼした。そして、社会や産業に対する有用性に説得力を持ちきれなかった数学は、教育の場において技術ペシミズムの標的となっていったといえる。(寺山)
開催日時 2018年8月5日 13時~18時
開催場所 徳照館2階第一共同利用室
テーマ 「近代的衛生行政体制と「自治」のはざま―世紀転換期イギリス領香港の潔浄局をめぐる議論」
「冷戦下の南北ベトナムにおける伝統医学の再編制」
発表者 小堀慎悟(京都大学大学院)/小田なら(京都大学)
研究会内容  本報告では、世紀転換期の香港における近代的衛生行政体制の導入と、それをめぐる議論について検討してきた。1894年のペスト流行を機に、香港政庁は集権的衛生行政体制の導入を推進したが、ここで問題となったのが、衛生問題について議論する政庁内の合議制機関であり、香港市民にとっては限定的な代議制機関となっていた潔浄局(Sanitary Board)に如何なる機能を持たせるかであった。
 政庁は、それまで潔浄局に属していた役人を植民地官僚が直接管理する体制をとり、潔浄局自体も植民地官僚の影響下に置くことを試みた。当初は医師の資格をもつ専門官僚が潔浄局主席と潔浄署の長を担ったが、最終的にはカデット制度官僚と呼ばれた事務官僚がその役を担うこととなった。ただし、潔浄局では成立以来一貫して専門官僚に議決権が与えられており、これは専門官僚があくまで地方議会の決定に基づいて活動しなければならなかったイギリス本国とは大きく異なる、香港の衛生行政体制の重要な特徴である。つまり香港の衛生行政体制では、専門官僚と中国人社会との間にある利害の調整よりも、「全ての時間を職務に捧げられる」ような、行政の長の導入に重点が置かれた。
 こうした潔浄局の組織改編と集権的な衛生行政体制の導入をめぐっては大きな議論が起こったが、特に注目されるのは市民間の議論である。家屋所有者たちは住民による「自治」という観点からこれに強く反対したが、ここには政策面での経済的負担や不動産取引への介入によって蒙った被害を回復するために潔浄局を自らの影響下に置きたいという意図があった。一方で衛生状況の改善を最優先課題とする専門職の人々は、自身の利益を優先する家屋所有者の姿勢に対して疑問を抱いており、政庁が主導する近代的衛生行政体制の方が衛生状況の改善につながると判断してこれを支持した。そして最終的には、専門職の人々の認識が家屋所有者にも共有されることになった。(小堀)

 本報告は、冷戦下の南北分断期(1954~75年)に、南北ベトナムの国家権力が医療制度内に「伝統医学」を位置づけようとしてきた過程を通時的に跡付ける。その作業を通じ、政治的言説に規定された伝統なるものが持つ意味を相対化する。
 ベトナムの伝統医療には、在来の民間医療や中国の伝統医療などの要素があるが、特に南北分断期以降には、国家が率先してベトナム独自の伝統医療として公的に標準化・制度化してきた側面がある。
 北ベトナムでは政府主導で在来知や経験知を「科学化」の名の下で制度化し、西洋医学医師らによって末端の行政村までトップダウン式に広めていこうとした。しかし、これは単に政府の政治的言説の発露ということにとどまらず、インドシナ戦争の戦場のように、西洋医学医師や薬剤師が必要に迫られてベトナム由来の薬である「南薬」を発見し、保健省がめざす西洋医学と伝統医療である「東医」の知識の統合がなされていくような事例もあるなど、医療現場の実態や需要にある程度見合うものでもあった。
 翻って、これまで先行研究では分断期の南ベトナムについては充分に分析されていない。しかし、実際には南ベトナムでも「科学」に裏打ちされた「東医」を目指すことが提唱されていた。ただ、南部の「東医」分野においては華僑の比率や影響力が大きく、それが南ベトナム独自の「伝統医学」創出、あるいは「東医」の「ベトナム化」の阻害要因となっていた。
 このように、ベトナムの「伝統医学」は、時代や地域によって呼称や内実が異なる。それでもなお、国家は伝統として多様な実践を制度化しようとしてきた。それは第一に、ナショナルな伝統を創出して国家建設に役立てるとともに、「科学」に基づいた標準を明示することで医療への人々の信頼を得ようとしていたためであり、第二に、戦争などを背景に、それまでおこなわれてきた鍼灸や「南薬」による治療を現実的に推進せざるを得なかったからである。(小田)
開催日時 2018年6月23日 13時~18時
開催場所 寧静館5階会議室
テーマ 健康を守るための環境づくり―シュトゥットガルト・ヴァンゲン地区ホメオパシー協会の活動1887年~1927年―
社会福祉と生殖の権利―ノースカロライナ州における断種政策―
発表者 服部伸(同志社大学)/小野直子(富山大学)
研究会内容  19世紀後半からの科学的医学発展と、医療に関わる諸制度整備によって、医師の地位は強化され、患者の立場は弱くなったとされている。本報告の目的は、正統医学に異議申し立てをしていた代替医療信奉者の患者団体を取り上げて、このような時代の中で、患者たちが自分たちの主体性をどのように守ろうとしたのか、またそのためにどのような共同性を保持したのかを、地域に根ざした一協会の活動から読み取ることにある。
 具体的には、シュトゥットガルト・ヴァンゲン地区のホメオパシー協会の活動を協会活動記録から見てゆく。ヴァンゲンはシュトゥットガルトに隣接する町で(1905年シュトゥットガルトに合併)、手工業者など比較的貧しい住民が多い地域であった。ホメオパシー協会は、1887年にヴュルテンベルク邦国ホメオパシー協会の支援を受けて、その傘下団体として地域住民によって結成された。
 帝政期の同協会には、会員がホメオパシー治療を受ける上での重要な柱が二つあった。一つは、協会の会計を務めた人物による無償の医療行為で、ホメオパシー医が居住していないこの地域で、会員とその家族の疾病を治療した。また、会員の求めに応じて、例会の中で治療や健康維持のための講話を行った。もう一つの柱は、協会薬局である。会員から選ばれた薬局管理者が、会員やその家族の症状から必要な治療薬を判断し、廉価で治療薬を譲渡した。このような行為が帝国刑法に抵触するとヴュルテンベルク上級裁判所が判断したため、邦国ホメオパシー協会は傘下団体に対して協会薬局の運用を停止するように求めていた。しかし、ヴァンゲンでは戦間期までその運用を続けていた。さらに、図書や治療器具を協会として会員に貸し出した。このように、時には上部団体の方針に反してでも、自分たちが構築したシステムを守り、互いに助け合い、自分たちが信ずる治療を維持しようとする患者の姿が明らかになってくる。(服部)

 福祉政策は、公費で救済に対する者と値しない者に境界線を引く作業であるが、生殖に関しても、生殖に値する市民と値しない市民の間に境界線を引いてきた。本研究は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州における断種政策の歴史を事例として、民主主義国家における福祉と人権のあり方について検討することを目的としている。ノースカロライナ州断種法はアメリカで唯一、ソーシャルワーカーが施設に収容されていない一般の人々の断種を申請することを認めた法律であり、多くの州で強制断種が実施されなくなっていた1950年代から60年代に断種プログラムが拡大された。しかしながら、そうした独自性にもかかわらず、生殖をめぐる交渉における人種、階級、ジェンダーの相互作用は、他の州や国のそれと重なるところもある。
 断種申請の権限をソーシャルワーカーに付与したノースカロライナ州は、明白に断種における州の経済的利害関係を表していた。断種法が制定された1920年代から30年代には精神薄弱者(知的障害者の古称)、精神疾患者、てんかん患者が生殖に値しないと規定されていたが、20世紀半ば以降は福祉受給資格を新たに得た黒人、特に婚外子を出産する女性がそう判断されるようになった。アメリカでは20世紀半ば以降生殖は基本的人権のひとつとされる一方で、政策決定者、医療や福祉の専門家、そしておそらく多くの中産階級の納税者の考えでは、生殖の決定という「特権」は、福祉制度に資金を提供している政府と納税者に属しており、貧しい女性に、自分が扶養することができない子供を産む権利はなかった。そしてそのような見解は、なお支持を失っていないように思われる。(小野)
開催日時 2018年5月13日 13時~18時
開催場所 徳照館第一共同利用室
テーマ 戦間期ドイツにおける看護師の自己意識―第一次世界大戦と革命の影響を中心に―
20世紀イギリスにおける有機農業―代替医療運動に着目して―
近代社会におけるマイノリティ―世紀転換期ドイツのシンティ・ロマ政策―
発表者 山岸智弘(同志社大学)/御手洗悠紀(京都大学大学院)/大谷実(同志社大学)
研究会内容  帝政期からヴァイマル期にかけての時期に、ドイツでは看護職が近代的な職業になっていった。この長い過程のうち、看護師の国家試験制度が導入された帝政期は、ディアコニーに代表されるキリスト教慈善団体と妥協しつつ、ブルジョア女性運動の関係者が主導権を握る看護師団体が重要な役割を果たしたことからも明らかなように、市民層女性とキリスト教慈善団体が看護職を規定する重要なアクターであった。ところが、ヴァイマル期には、社会民主党系の労働組合である衛生関係労働者団体の規模が拡大し、その活動を大きく展開することとなる。
 このような看護職を巡るアクターの変化が起こってゆくプロセスを確認しながら、看護師の自己意識がどのように変わってゆくかを考察することが何故起こったのかを考えるのが本報告の目的である。そのために十一月革命以降に、看護史職業団体の雑誌記事における看護をめぐる言説の変化をたどってゆく。
 先行研究においては、看護師の制度、労働の状況や看護師の「職業化」のプロセス、あるいは看護師の職業イメージなどについて論じられてきた。 その中に、第一次世界大戦を看護という職業が発展する上での重大な切れ目・停滞期として捉える研究がない訳ではないが 、第一次世界大戦および革命の戦後への影響については十分には論じられてこなかった。上記のアクターの変化を考えるためには、戦争と革命がドイツの看護領域に如何なる影響 を与えたかを考える必要がある。
 そのために、本報告では、帝政期からヴァイマル期まで活動を継続した労働組合・職業団体、とりわけヴァイマル期に拡大していく衛生関係労働者団体の議事録や機関誌『ザニテーツヴァルテDie Sanitätswarte』誌の第一次世界大戦前・戦中・戦後の記事内容などを検討する。(山岸)

 これまでに報告者は19世紀末にドイツで生じた市民運動である「生改革運動」のなかで営まれていた初期有機農業の系譜の一つである「自然農法」の理論と実践を明らかにしてきた。それはドイツ語圏の都市近郊で自給を目的として小規模に営まれて、菜食主義の影響を受けて家畜を放棄し、労働集約的な園芸という形で営農していたことにその特徴がある。一方、20世紀初頭のイギリスでも「生改革運動」に似た「代替医療運動」が起こり、そのなかで「近代農法」は批判され、健康によい食事を生産するために人造肥料や農薬を用いない農法が注目を集めていた。そこで、本報告ではこの農法をイギリスにおける初期有機農業の系譜の一つとして捉え、その農法の理論と実践、歴史的意義を明らかにする。
 独英両運動とも、機関誌の投稿者は知識人層であったという共通点があるが、ドイツの従事者は都市近郊に入植し、専業的に園芸に従事していたのに対し、イギリスでは都市部または都市近郊でアマチュア的に庭仕事に従事していたという違いがある。
 さらに、ドイツでは帝政期「食改革運動」に、近代化に伴う健康不安がみられたものの、入植して農業に従事するまとまった運動はようやくヴァイマル期である。この活動は第一次世界大戦による食糧難によって後押しされた。イギリスでは健康不安に伴う食に関する論争は戦間期の植民地における研究成果と結び知己、人造肥料や農薬を批判する言説が生まれた。
 また、前者では「自然への帰依」をスローガンとした自然への同化が強く主張されたのに対して、後者ではそのような思想はみられず、あくまでも庭は生産の手段、あるいは近代化の中で失われてしまった「古き良き思い出の場所」どあり、庭は「対象」として存在していたのである。(御手洗)

 本研究は、1880年から1930年のバイエルン邦におけるシンティ・ロマ(「ジプシー」)に対する政策の変遷について、当地の警察行政に関する一次史料を用いて検討することを課題とする。ドイツ帝国成立期に救貧法などの各種法制度の整備・統一が行われ、国民に移動の自由が認められた。しかし、バイエルン邦では帰属権に基づく救貧需給件が維持され、貧困に基づく他邦出身者を邦外へ追放することを可能とする規定が残っていた。このため、貧困などを理由としてシンティ・ロマを処罰し、追放することが可能であった。バイエルンの首都でミュンヘンは19世紀末に急激に都市化したため、都市の生活環境を整備することが必要になった。
 この過程なのかで、郡部警察を国家官吏化し、最新科学技術を活用して治安を維持しようとする動きが強まった。こうして、「犯罪集団」取締りによる犯罪予防がはかられた。シンティ・ロマはこの取り締まり対象となったのである。しかし、司法の非協力などで状況は改善されず、第一次世界大戦末期には警察権限によりシンティ・ロマを収容し、労働を科す措置が実施されるようになった。この措置はヴァイマル期にも引き継がれたが、新たにシンティ・ロマは「人種」として、「労働忌避者」とともに取り締まられるようになった。「怠け者」である両者を「反社会的」として、警察権限により収容し、労働を科すという点でヴァイマル期はナチス期と思想的に通底している。(大谷)
開催日時 2018年4月28日 13時~18時
開催場所 弘風館地下会議室
テーマ 「ドイツ帝政期におけるユダヤ人の男性性の変容:市民的男性性・シオニスト・体操家」
「20世紀初頭ポーランドの衛生改革論:地方医師からみる」
発表者 河合竜太(同志社大学大学院)/福元健之(関西学院大学)
研究会内容  19世紀末ドイツ語圏のシオニストは、「筋骨たくましいユダヤ人」という新しいユダヤ人像を提唱した。これは、ヨーロッパに広がっていたステレオタイプ的なユダヤ人像とも、伝統的なユダヤ人社会における自己意識としてのユダヤ人像とも異なり、肉体的な強さを誇示する新しい男性像であった。ポーゼン州のラビの家系に生まれ、ベルリンでギムナジウム・大学教育を受け、ユダヤ人体操協会の指導者となり、後にはシオニストとして第一次世界大戦前にパレスチナへ移住したエリアス・アウエルバッハの自伝を素材に、伝統的なユダヤ人家庭に生まれた人物のなかで、目指すべき男性像がどのように変容したのかを明らかにしてゆく。
 アウエルバッハは、ユダヤ教の儀礼が日常を完全に律するような家庭に育ち、ラビである父親は正しい生活のモデルであった。この時期には、ドイツ社会にあるようなたくましさに肯定的な意識はない。しかし、ベルリンに出たアウエルバッハは、兄やその他の若きシオニストたちの影響を受けて、シオニストが組織するユダヤ人体操協会で活動するようになり、シオニストとなってゆく。彼は、勇気や意志の強さは後天的に獲得可能なものであると考え、体操はそのための手段として位置づけた。このようにして、アウエルバッハの中で男性像モデルはラビである父親からシオニストである兄たちに移行していった。その後彼はパレスチナへ移住したが、第一次世界大戦ではドイツじんとして参戦しており、彼の中にドイツ人意識が残っていたことも分かる。また、大戦中の自分に行動を、子どもの時に身近にいた律法学者と一体化させており、伝統的なユダヤ人意識を払拭してたわけでもないこともわかる。(河合)

 20世紀初頭のロシア帝政下ポーランドの工業都市ウッチはでは、工業化によって生じた貧困問題に起因する公衆衛生問題にとりくむ地方医師群が活動した。彼らは地域に根ざした、現場からの衛生改革論を展開してゆくことになる。
 ウッチは19世紀初頭以来ポーランド王国政府による殖産興業政策により工業の中心となってきたが、2度の蜂起敗北を経て自治を喪失し、帝国への統合が強化されていた。このことは関税撤廃によって広範なロシア市場と結びつけられることも意味しており、その後の経済発展につながった。他方、福祉に関する行政は帝国の首都であるペテルブルク内務省が統括することにもなり、工業化によるさまざまな問題への対応が不十分な状態であった。
 このような中で、地域の医師たちが公衆衛生問題に関するさまざまな提言を行い、行政の外側から社会改革に取り組んでいった。その一端は『労働者衛生叢書』に現れている。この叢書では次のような問題が論じられた。まず、飲酒問題では子孫にまで遺伝し、知的障害や精神疾患を引き起こす可能性が懸念され、とくに子どもに飲酒をさせず、飲酒をしない道徳的節制の文化を構築することで、未来の世代がより健康で活発になるようにすることを提案している。結核対策に関しては、衛生状態を向上させるために労働者が清潔を保つための規律化を求めている。とくに実績のある西欧諸国の事例を紹介しつつ、ロシア帝国下という条件の中で、国家のイニシアティブのもと、自治体や民間団体も医療活動に関わる活動に関心を寄せていた。乳幼児保護に関しては、母乳哺育の重要性を説き、「ミルクのしずく」運動によって、低温殺菌された牛乳を提供し、同時に母親への指導を行うことを目指した。ここでは乳児死亡の責任が母親にあるとされ、母親の飲酒癖、売春・性病、不衛生の結果としての結核などが問題視された。また、これとの関連で性病を防止するための売春管理が行われたが、生活苦から許可された売春婦以外にも、生存戦略としての隠れ売春が後を絶たたない実態を、女性の道徳性の問題に還元していた。
 その結果、援助を必要としていた女性の多くが、医師を警戒するようになり、偽医者が流行し、「貧困の女性化」が起こっていたのである。医師たちは高い理想を持ちつつも、民衆の中に入いり、その生活を改善させるという目的を十分に果たすことはできていなかったのである。(福元)

2017年度

開催日時 2017年11月5日 13時~18時
開催場所 徳照館2階第1共同利用室
テーマ 「近世都市の水産物消費と日本の水辺環境―京・大坂の淡水魚食の盛行と淀川流域の環境変化をめぐって―」
「暴力教育の世紀から『子供の世紀』へ?―19世紀末ドイツ(プロイセン)の学校教育における体罰―」
発表者 佐野静代(同志社大学)/西山暁義(共立女子大学)
研究会内容  本報告は、近世都市京都における淡水魚の魚食文化興隆を可能とした淡水魚の調達・商品化が、河川・湖沼など水辺の環境と生活にいかなる関連を持っていたのかを探ることを目的としている。
 すでに高瀬川開削後の慶長年間に二条木屋町には「生洲」が設置され、料理屋が生まれていたが、18世紀以降、このような「生洲」を備えた料理屋は先斗町や四条通から南にまで広がるようになった。同様の「生洲」をもつ川魚料理店は大坂でも見られ、川魚料理屋で供する川魚の需要が高まっていたと考えられる。
 このうちウナギは当初は勢多や宇治川など京都の近隣地産のものであったが、18世紀には若狭産が加わり、19世紀には勢州、尾州、濃州、遠州などと広がっている。ウナギは空気中での呼吸が可能で、遠隔地からの輸送に耐えるという特性を持っていたからである。
 ここで注目するべきは、勢州、尾州、濃州の供給地で、いずれも木曽三川の輪中や干潟干拓新田の囲繞堤に位置していたことである。これらの地域では、背後山地の荒廃によって土砂流出が起きた結果、河口部土砂堆積が進み、囲繞堤内部の排水不良が起こっていた。そこで、既存田に土を積んで「堀上田」へと転換したが、土の供給のために生じた掘り下げ部分(「掘潰れ」)が魚の養殖地として機能するようになったのである。
 鯉と鮒は主として琵琶湖より供給されていたが、従来からの魞漁法の革新が起こり、漁獲高を増加させることになった。さらに、畿内各地の農村で溜池漁が盛んになり、19世紀前半には入札制を導入して、池魚商品化が進んだ。この背景にも、淀川流域での山地荒廃があった。丘陵部谷口の溜池では埋積傾向にあり、溜池の堤改修工事が必要になったのであるが、そのための経費捻出の手段が溜池での養殖だった。
 このように、川魚料理店への供給を支えたのは、山地荒廃による堆積物の増加による、農業環境の悪化があったことが明らかになった。なお、淀川水域での鮒養殖には琵琶湖の固有種であったゲンゴロウブナを起源にもつヘラブナが利用されたが、このことは淀川水系の最上流の谷口溜池に外来種が放たれたことを意味しており、灌漑網によってこの種の生息域が拡大し、生態系に大きな影響を与えていたことになるのである。(佐野)

 プロイセンでは19世紀末に体罰事件が発生し、全国的にも報道される事態となった。これを受けて、1899年5月にプロイセン文部大臣は、地方教育行政当局に対して、行きすぎた体罰予防のために、体罰実施の際には、事前に主任教員と視学官の同意を得るように政令で指示した。
 これに対して議会やメディアからは、学校の規律を守るための体罰擁護論が吹き出し、教員からも政令に対する批判が起こった。このため同年7月の政令では、体罰の運用を緩め、学校規律にとって深刻な危険が存在する場合には、主任や視学官の同意は不要とし、さらに、翌年には、各学級の体罰記録の作成を義務化することで、体罰に制限を加える政令を撤回した。
 この時期に体罰をめぐる議論が白熱したのは、児童労働の制限による就学義務の進展によって、体罰をめぐる学校・教師と親・保護者間の紛争が増大していたからである。教師側が有罪判決を受けるケースが現れてきた中で、ドイツ教員協会は、法的保護委員会を設置して、懲戒権越権をめぐる裁判において会員を支援するようになった。
 そもそも、プロイセン一般国法典では、家父長の子どもに対する懲罰県が認められており、教師は、一時的にこの権限を委嘱されていると考えられてきた。教員側は「家庭教育における父親不在化における代執行」として、教師による体罰を正当化した。ここには、教職への女性進出を抑制しようとする男性教員側の意図も読み取ることができる。
 このように、初等教育レベルでの体罰は容認され続けた一方で、エリート向けの中等教育では体罰は厳禁であった。その根拠は「教養」をもつ若者に対して、名誉感情を押し殺す体罰がふさわしくないとの考えがあり、初等学校での体罰が、教養人たる教師から下層民である児童への、階級的抑圧としての性質をもっていたことを示している。また、ポーランド地域においては民族的抑圧の手段として体罰が機能していたことも読み取ることができる。
 以上のように、ドイツでは体罰が法的に容認されつつ、その執行には厳しい制限を加えていた。これに対して、同時代の日本では体罰は法的に禁止されていたものの、実質的には方の拘束力が掘り崩され、教育現場における体罰の実情という点で、両国は近接していたのである。(西山)
開催日時 2017年7月29日 13時~17時30分
開催場所 徳照館2階第1共同利用室
テーマ 「ディズレイリの死とホメオパシー―ヴィクトリア朝イギリスの科学的医学に関する一考察―」
「精神医学的理性とその不満―診断マニュアルDSMを中心に―」
発表者 黒崎周一(明治大学)/美馬達哉(立命館大学)
研究会内容  イギリスでは1840年代以降、正規の医師免許を取得したホメオパシー医を中心に、ホメオパシー普及活動が展開されたが、医師人口の1%程度を占める少数派に過ぎなかった。しかし、イギリスホメオパシー協会が1844年に設立されたことを皮切りに全国各地で組織化が進み、ホメオパシー専門雑誌が刊行されるようになり、病院や診療所も開設された。これに対して、正統医学の側からは、考案者ハーネマンを崇拝する排他的で非科学的な「セクト」として、医師会や医学会からホメオパシーを排斥する動きが現れた。その背景には、ホメオパシーが医学の科学性を脅かすことへの懸念があった。しかしながら、自由放任主義の影響下で、患者・消費者の選択の自由を尊重する声や、自由競争による科学の進歩を支持する声が根強く、ホメオパシーが法的に禁止されることはなかった。
 1881年に保守派の大物政治家であるディズレイリの体調悪化が新聞で伝えられた。彼は掛かり付け医で、ホメオパシー治療も行う内科医キッドの治療を受けていたが、症状が悪化し、ヴィクトリア女王の侍従医であった内科医のクエインがキッドと治療について協議を行った。さらに病状が悪化する中で著名な内科医ジェンナーが、クエインの要請で診療にやってきたが、彼はクエインに対する個人的な好意で訪問しただけであって、正式な治療協議を行ってはいない。最終的にはディズレイリの死去によって治療は終了するが、この間のいきさつについては、当時の新聞が報道している。そこから浮かびあがってくるのは、正統医学の医師たちが、ホメオパシー治療も行う医師とは距離をとり、治療協議を拒否していたことである。医師団体や医学専門誌では、ホメオパシー医と距離を置こうとした医師の姿勢を擁護する声が強かったが、一般紙のなかでは、キッドと距離をとり、治療に協力しなかった正統派医師たちの姿勢に疑問を投げかけた。さらに、ホメオパシーを排除する正統派医学の姿勢こそがセクト主義であるという批判している。ただし、正統派医師全体が、ホメオパシーの排除に与していたわけではない。当時は、ホメオパシーを支持しない医師の中でも、視野の広さや寛容さこそが科学的な人間の条件であるといった主張も根強く、正統医学(科学)と異端医学(非科学)のあいだに境界線を引くことには強い抵抗感があったのである。(黒崎)

 「精神疾患の分類と診断の手引きDSM」はアメリカ合衆国で1952年に第1版が発行され、その後も版を重ねている。DSMが、精神科医だけでなくアメリカ合衆国で関心を持たれるようになるのは、1980年に発行された第3版(DSM-III)以降のことである。
 DSM-IIIは、それまでの手引きとは根本的に異なるものになった。その背景には、まず、1960年代中頃以降、各国で精神医学診断の客観性に対する疑義が出されたことある。すでにトーマス・サズは1961年に「精神疾患は1つの神話にしか過ぎない」と述べて、精神科医は医学的な診断や治療を行っているのではなく、「実際には、生活上の、個人的、社会的、道徳的諸問題を取り扱っている」と述べている。70年代には、精神科医の診断や治療の問題性がマスメディアによって大々的に取り上げられ、精神医学への信頼が揺らいでいた。
 さらに、アメリカ合衆国の精神医学界の特性がある。アメリカでは第二次世界大戦後、フロイトの精神分析の影響が大きく、診断名の正確さよりも、精神症状の原因として想定された心的葛藤やコンプレックスについての理論的解釈が中心であり、その結果、精神症状の正確な客観的記述よりも、その意味の精神分析的解釈が重視されていた。このような問題を克服して、特定の理論的立場に基づかない客観的な症状記述に基づく分類を行うことが提唱されたのである。とくに、1970年代に薬物治療が行われるようになると症状の客観的な症状の把握が必要になったのである。
 DSM-IIIでは、精神疾患で生じる症状を正確に記述して、その自然経過を正確に観察することを通じて、疾患の実態に迫ることをめざし、診断基準として症状の項目を列挙し、その中から一定数以上が該当する場合に、症候群として疾患を定義するようになった。したがって、DSMでは近代医学の基本である生物モデルが当てはまらないことになる。
 DSMの内容は数年ごとに学界・委員会内での多数決で改定される。①生物-精神疾患では、身体的病院の明確でない精神疾患とされることがスティグマとなる可能性があること、②セクシュアリティやジェンダーに関わる「逸脱」が、社会規範をめぐる社会運動の象徴的ターゲットになりやすいこと、③医療保険適用など金銭的利害とも関係をもつこと、⑤操作主義的な疾病概念であるために、正常と病気の区分が連続的である、子どもへの適用可能性が問題となる、近代医学の生物モデルの立場から批判されやすいことなどの理由から、その時代ごとの社会の影響を受けやすいのである。(美馬)
開催日時 2017年6月25日 13時~18時
開催場所 徳照館2階第1共同利用室
テーマ 「サライェヴォ事件をめぐる「記憶」の変遷―第一次世界大戦の開戦責任論との交差―」
「エイジ・フレンドリー・コミュニティの模索―CCRC(継続ケア付退職者コミュニティ)を中心に」
発表者 村上亮(日本学術振興会)/鈴木七美(国立民族学博物館)
研究会内容  ボスニア・ヘルツェゴヴィナの州都サライェヴォ訪問中のハプスブルク帝国皇太子夫妻が「青年ボスニア」の一員であるセルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプによって射殺されたサライェヴォ事件の歴史的評価の変遷を見てゆく。
 まず、両大戦間には、プリンツィプは好意的には評価されなかった。第一次世界大戦後に成立したユーゴスラヴィアには、戦勝国のセルビアと、「敗戦国」クロアティア、スロヴェニア、ボスニアも加わっており、国内統一のために、政府がサライェヴォ事件を積極的に評価することはなかった。さらに、第二次世界大戦中には、ユーゴからの独立を唱えるクロアティアのファシスト集団がドイツのユーゴ侵攻後に傀儡国家をたてたが、プリンツィプに対する敵意を示した。
 第二次世界大戦後には、対独抵抗を主導したティトーによってユーゴは再統一されると、皇太子夫妻暗殺は、ハプスブルクによる植民地支配圧政に対する民族の抵抗を示すものと解釈されるようになった。一方、ドイツ国内では1960年代にフリッツ・フィッシャーによって、ドイツがかねてから「世界強国」となるための戦争準備を行っていたことを実証し、セルビア人研究者もこれに依拠して、自分たちがドイツ・オーストリアの被害者であったと主張した。
 しかし、冷戦終結後にユーゴ国家は解体へと向かい、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ独立承認後には、三つ巴の内戦が激化したが、セルビア人による民族浄化だけが欧米諸国で問題視されるようになり、セルビアが国際的に孤立したが、プリンツィプを英雄視するセルビアと、テロリストと見なすボシュニャク人・クロアティア人との間で、歴史解釈が分裂した。その後、コソヴォ紛争によってセルビアの孤立は深まったが、セルビアでのプリンツィプ評価はさらに高まった。歴史家クリストファー・クラークが2012年に公刊した『夢遊病者たち』では、セルビアに開戦責任があるようにも読み取ることができる。従来有力だった、ドイツの戦争責任を相対化することになりかねないこのような見解が広く支持された背景には、旧ユーゴ内戦での、セルビア・イメージの悪化が影を落としているとも考えられる。(村上)

 高齢化が進む中で、人々の暮らしの場、コミュニティの崩壊が懸念されるようになり、地域に居住しつつ、心地よく、安心して年を重ねることができる社会の形成(エイジング・イン・プレイス)への関心が高まっている。その中で、高齢者のウェルビーイングに資する環境を模索し、全ての人のウェルビーイングをめざし、高齢者だけではなく、多様な人々が平等に包括的な環境を享受することを志向するエイジ・フレンドリー・コミュニティの整備にも注意が払われるようになってきている。
 エイジ・フレンドリー・コミュニティの展開例として、まずカナダの事例を見てみよう。カナダには日系人専用のCCRCはなく、日系人向け生活支援付高齢者住宅で、日本の文化活動を軸とした相互交流を行ったり、日本食弁当配達する活動などが実践されている。介護が必要になった場合には、一般の介護付き施設へ移動しなければならないが、その場合にも、ボランティアを通して、日本文化を維持する活動が行われている。また、中国系カナダ人向けに設立されたCCRCの中に日系人用棟を設置して、ボランティアらが入居者の希望を聴いたり、彼らから日本文化を学ぶ活動が行われている。これらの試みに共通するのは、カナダの多文化社会の中で、日本への関心を共有する、多様なバックグランドをもつ人々と、日系人居住者とのネットワーク形成・交流が重要な意味をもっていることである。
 合衆国においてもさまざまなCCRCが運営されているが、ここでは再洗礼派の宗教的バックグランドをもつ施設について見てゆく。再洗礼派はヨーロッパでの宗教的迫害を逃れて、信仰の自由を求めてアメリカに移住してきた歴史をもっている。彼らは非暴力・平和主義の立場から良心的兵役拒否を貫き、代替活動としてケアなどを行ってきた経験がある。このような経験を生かしながら、宗派を問わず受け入れるCCRCを運営している。ここでも、住人のウェルビーイングを構築するために、多様な企画が行われている。そのなかで、住人自らが積極的に地域のためにボランティア活動を行ったり、生涯教育を実践している。
 これらの事例から明らかになることは、豊かな生活の舞台としてエイジ・フレンドリー・コミュニティを形成するにあたって、生涯教育実践の場を作り、そこで異文化や新しい体験を重ねていくことを通じて、高齢者のウェルビーイング向上につなげることである。(鈴木)
開催日時 2017年4月15日 13時~18時
開催場所 徳照館2階第1共同利用室
テーマ 「20世紀スイスにおける子どもの強制保護―マイノリティの排除と福祉事業のあいだで―」(穐山)
「江戸の『乳』という視点から見えてきたものと今後の課題―『江戸の乳と子ども-いのちをつなぐ』とともに―」(沢山)
発表者 穐山洋子(同志社大学)/沢山美果子(岡山大学)
研究会内容  スイスにはナショナル・マイノリティとしてのイェーニシェという「移動型民族」がスイス国籍を取得して居住している。彼らは19世紀のスイス国民国家化の過程で市民権と国籍を付与されたが、定住義務を課せられ、行商などの移動を伴う仕事については許可制となったうえ、就学児童を連れての移動生活を禁止された。この政策は20世紀になってより徹底されるようになり、1926年から活動を開始した「街道の子どもたち」は、市民的価値観からの子どもの保護という名目で、「移動型民族」の子ども約600人を、強制的に親から引き離し、彼らに定住生活を強要した。民間団体であるこの組織は市民からの寄付を募り、多くのボランティアがその活動を支えた。しかし、連邦からの補助金を得ており、公的な性格をもっていた。その活動の狙いは、定職をもたず、子どもの養育ができない「移動型民族」の子どもを強制的に引き離し、施設に収容して、市民社会の規範に従って生きてゆくことができるように教育することであった。この活動は、特に変更もないまま第二次世界大戦後も継続されたが、1972~73年の施設批判運動の中で、批判にさらされ、1973年に活動を停止した。「移動型民族」は、社会の周縁にいた人びとが、国民国家形成過程でスイス市民に包摂されたことによって排除の対象となり、そのことを通して自分たちのアイデンティティを形成した。そして、「街道の子どもたち」の活動は、マジョリティ社会の規範によって、マイノリティに押しつけられた福祉事業と位置づけることができる。(穐山)

 近著『江戸の乳と子ども』は、主体の側からのいのちの環境が問題になった近世社会におけるいのちをつなぐ営みを、赤子の命綱であった乳に焦点を当てて、当時の人びとの具体的な経験として明らかにするものである。報告では、同書の到達点を明らかにした。すなわち、近世社会では、授乳は公共空間でも行われており、現在のように母子だけの閉鎖的空間での行為ではなかった。当時は授乳できるかどうかが乳児の生死を決定することにもなり、母親が乳を提供できない場合には、乳母を確保するためには、さまざまな社会的ネットワークが活用されていた。父親もまた積極的に乳母を求めて行動しており、授乳は母子だけで完結する関係性の中にあったわけではなく、乳母と乳児をつなぐ経路には父親など男性も含めた、さまざまな人びとが含まれていたのである。授乳との関わりで母子関係が強調されるようになったのは近代のことであり、とくに大正期には母性イデオロギーが強調される中で、「母乳」「実母哺乳」が重視され、母親の育児責任が重視される一方、乳房をもたない父親が排除されることになった。このような内容をもつ本書に対して、書評では、江戸末期にはすでに、実母以外の女への警戒感が生まれていたこと、他方で第二次世界大戦後の高度成長期以前にも地方では屋外での授乳が行われていたことが指摘されており、本書で示した構図が常に当てはまるわけではないことも明らかになった。今後、エゴドキュメントやマニュアル本を読み込んでゆくことによって、民衆生活の現実を読み取り、近世から近代への移行期の変容についても、地域に即して実態を解明することが可能になるであろう。(沢山)

2016年度

開催日時 2016年12月17日 13時~18時
開催場所 徳照館2階第1共同利用室
テーマ ホメオパシー・水治療法・公衆衛生
―19世紀末の日本におけるプロテスタント医療宣教の変容(藤本)
とびらを開けて―20世紀イギリスにおける知的障害児の親の会(大谷)
発表者 藤本大士(東京大学大学院)
大谷誠(同志社大学嘱託講師)
研究会内容  これまでの日本近代医学史研究は、ドイツ医学の受容史を中心に展開していたが、本研究はアメリカ人医療宣教師が近代日本の医学に果たした役割を再評価すものである。開国直後に来日したアメリカからの医療宣教は、貧者への施療と日本人医師への医学教育を行った。この時期の医療宣教師は居留地を中心に医療業務を行うとともに、教育活動にも携わった。明治維新と南北戦争による混乱で宣教活動は一時中断していたが、1870年代には宣教活動が再開された。とくに近代的な医師養成制度が未整備な状況であったこの時期には、医療宣教師が地方に設立された公立医学校・病院で教育と治療に重要な役割を果たしていた。しかし、ドイツ医学を積極的に受容した日本は、東京大学を頂点とするドイツ式医師養成システムが確立し、ここで養成された医師の力量が、アメリカ人医療宣教師の力量に優るようになった。このため1885年頃には従来からの医療宣教は衰退し、教育に専念する宣教師が多くなった。ただし、この時期からホメオパシーや水治療を基盤とする新しいタイプの医療宣教が行われるようになった。とくに女性の医療宣教師が含まれることが大きな特徴である。さらに、20世紀になると公衆衛生を重視する医療宣教が行われるようになる。その成果の一つが聖路加病院の設立であり、ここはロックフェラー財団などの支援を受けてアメリカの公衆衛生学を日本で普及させる拠点となってゆく。(藤本)

 これまでの知的障害者ケアに関する歴史は、制度そのものや制度を整備してきた医師・教育者・官僚などの活動を分析してきたが、当事者に関する研究は行われてこなかった。本研究は、当事者の姿を追うことを目的として、知的障害者の「親の会」の活動を分析の対象としている。イギリスにおいて、第一次世界大戦直前以降は知的障害者を長期入所型施設に収容する政策が進められたが、戦間期に家庭におけるケアを重視するようになった。しかしながら、この政策転換は障害者の家族に大きな負担をかけることになった。1925年に創刊された母親向けの週刊誌Nursery Worldは子育て一般を扱う雑誌であったが、同誌には読者投稿欄があり、とくに第二次世界大戦中には、知的障害をもつ子どもに関する相談が寄せられるようになった。1946年に匿名で投稿したジュディ・フレッドの呼びかけがきっかけとなり、精神薄弱時の親の会が結成された。この組織はNewsletterを発行して子育て情報を提供するとともに、行政によるトップダウン式の障害児政策の変更を求め、当事者の事情に合致したケア形態を選択できるようにすることを求めた。彼らの活動は第二次世界大戦後のイギリスにおける知的障害者ケアを転換させることになる。(大谷)
開催日時 2016年10月14日 19時~22時
開催場所 徳照館第一共同利用室
テーマ トラクターの歴史に見る「疎外」-農業にとって労働とは何か-
発表者 藤原辰史(京都大学人文科学研究所准教授)
研究会内容  現代のバイオケミカル巨大企業は、自社の農薬と相性がよい品種の種子を開発して、農家はこのような企業に依存することによって、巨大資本権力に取り込まれている。近代の農業は化学肥料、農薬、農業機械など、大企業が生産する商品を購入することによって生産性を「向上」させてきたが、同時に、農業の技術は農民の手を離れて、彼らの手の届かないところで作り上げられてきた。農民は目の前の便利さを享受するも、彼らは「疎外」され、操作されていることになる。
 トラクターをめぐる歴史からも、このようなことを読み取ることができるであろう。トラクターは家畜に代わる農業用動力として開発された。当初は蒸気機関を活用することが考案されたが、蒸気機関は出力当たりの重量が重いため耕地での作業に不向きであったし、燃料と水の補給にも困難が伴った。実用的なトラクターは内燃機関の開発によって可能になった。アメリカでガソリンエンジントラクターが開発され、経営規模の大きいアメリカではトラクターが急激に普及した。
 ちなみに、第一次世界大戦中にイギリス軍はトラクターを改造した戦車を戦場に投入した。でこぼこの多い耕地で作業をすることが可能なキャタピラ付トラクターは、塹壕や窪地などでも走行する必要がある戦車開発の基礎となったのである。
 経営規模が小さいドイツでは、アメリカのような大型トラクターは利用価値が低かったが、安価で小回りがきく小型トラクターが開発された。トラクターによって確かに農作業の軽減化・効率化が図られたが、他方で、購入、修理、燃料費など、農民には大きな経済的負担となった。また、家畜を利用しなくなったことで、化学肥料に依存することになった。こうして、第一次世界大戦後のドイツでは農民が企業に依存するようになる。また、各戸でトラクターを導入することは伝統的な農民の共同作業を奪い、農民の横の連帯を断ち切った。
開催日時 2016年7月10日 13時 ~ 17時30分
開催場所 同志社大学今出川キャンパス徳照館1階会議室
テーマ 「帝政期ドイツにおけるユダヤ人の体育祭典と民族の身体の表象」(河合)
「歴史家の世代とドイツ連邦共和国の歴史像の変容―1950年代から現在まで―」
(白川)
発表者 河合竜太(同志社大学大学院)/白川耕一(國學院大学兼任講師)
研究会内容  トゥルネンはヤーンによって提唱されたドイツ式体操であるが、1898年に開催された第2回シオニスト会議においてマックス・ノルダウによって「筋骨たくましいユダヤ人」が提唱されたことに呼応するように、ユダヤ人独自のトゥルネン協会が活動を開始した。ユダヤトゥルネン協会の上部団体であるユダヤトゥルナー連盟が開催する体育祭典から、ユダヤ人トゥルネン運動の意義を読み解く。この運動を推進したユダヤ人たちは、これまでの伝統的な同化ユダヤ人のステレオタイプ的なイメージから脱却し、たくましい心身をもつ「新しいユダヤ人」を創造することを説いて、同化ユダヤ人を批判した。
 ドイツのトゥルネンでは指導者への服従・一体性が強調されていたが、この特質はユダヤ人トゥルネン運動でも強調され、集団運動はユダヤ人の一体性を涵養するものとしてイメージされた。しかし、彼らが説く「新しいユダヤ人」は、「ドイツ国民」と類縁関係にあり、単に思想レベルだけでなく、身体レベルでもドイツ文化に同化しようとしていたことが浮かびあがる。つまり、ユダヤ人の独自性を強調するこの運動は、他方では、ドイツ的な特質を帯びていたのである。(河合)

 東西分裂後のドイツ連邦共和国は、基本法上は「暫定国家」とされながらも、全ドイツを代表すると位置づけられていた。このような意識の中で東西分裂後、連邦共和国独自の歴史・アイデンティティをもたず、西ドイツを歴史叙述の対象としなかった。
 これに対して、幼年時代にナチス統治を経験した世代の歴史家たちは、戦後の西欧・アメリカに新しい価値基準を見出し、民主的福祉国家としての西ドイツを全面的に肯定した。その代表格ヴィンクラーは次のような歴史像を描く。本来西欧の一部であったはずのドイツは、市民革命の価値が受け容れられずに「特有の道」をたどり、第一次世界大戦からナチズム支配へと至った。ナチズムの破局はドイツの東西分裂をもたらしたが、その間、西ドイツでは西欧的価値を受け容れつつ、もはや再統一を非現実なものとして排除し、国民国家に立脚しない「ポストナショナリズム」を思考するようになった。他方、東ドイツでは、非民主的な「特有な道」が続いたと考えられた。1990年の東西統一によって、民主的国民国家となり、西欧の通常の国家になった。
 このような歴史観に対して、1960年前後に生まれた世代からの異議申し立てがなされるようになった。彼らは統一後のドイツにおける財政問題、旧東西ドイツ人のあいだの心の壁、格差の拡大など、ヴィンクラーら提示する成功モデルでは説明がつかないとして、1970年代以降のドイツが民主的福祉国家として行き詰まっていることを明らかにしている。ただし、今後めざすべきモデルを見出しておらず、ヴィンクラー世代のような大きな歴史を語るには至っていない。(白川)
開催日時 2016年5月29日 13時 ~ 18時30分
開催場所 同志社大学今出川キャンパス弘風館地下会議室
テーマ 「ヴァイマル期ドイツにおける看護師への保障」(山岸)
「このように母と生きてきました:介護と看取りの現場から 2011年-2016年」(服部)
発表者 山岸智弘(同志社大学大学院)/服部 伸(同志社大学)
研究会内容  ドイツにおける看護師は第一次世界大戦後まで労働者とは見なされず、労働災害保険法の適用外に置かれていた。しかし、ヴァイマル期になると衛生関係労働者団体から、看護師が危険な業務遂行によって労働災害を被るリスクが高いことが指摘されるようになってきた。衛生関係労働者団体の調査から、とくに修道院などの宗教団体に所属する看護従事者の中で結核などの罹病率が高いこと、その結果として死亡したり、職務遂行が不可能になるケースが多数あることがわかってきた。こうしたリスクは看護師の間では周知の事実であったが、ヴァイマル期の調査によって一般に知られることとなり、それまでは労働災害保険法の適用外に置かれていた看護師は、そのシステムの中に取り込まれ、社会国家のセイフティ・ネットに収まったのである。そのプロセスで、看護師のあるべき立場、労働の範囲などが明確になっていった。(山岸)

 現在の介護システムは多様なサービスを提供しているものの、その選択は自己責任・自己決定の原則に貫かれている。しかし、介護の必要が生じるのは、本人・家族にとって突然であり、その時点で彼らは介護システムについて無知であり、責任能力をもたない。結局、ケアマネージャーの説明・判断に依存しながら介護サービスを受けることになる。しかも、通常は老化の進行によって必要とする介護サービスは絶えず変わってくる。この変化に本人も家族も対応しきれない。他方、サービスを提供する施設側も個々の利用者のニーズに応じるだけの準備がない。結局、介護サービスを有効に機能させるためには、利用者とその家族の非公式ネットワークによる影のサービスが必要であるが、現在の一般的な日本の家族・地域は、公式の介護サービスを補うだけの精神的・物理的余力をもたない。(服部)