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第10研究 歴史学の成り立ちをめぐる基礎的研究―現場と公共性― 研究代表者:小林 丈広(文学部)

本研究は、人文科学の社会貢献のあり方を考える手がかりとして、歴史学と地域社会との関係に焦点を当て、その歴史的展開をさまざまな角度から検討することを目的とする。本研究においては、京都をフィールドに2006年から行われてきた京都歴史研究会の成果を受け継ぎ、新たに同志社における歴史研究の蓄積などを組み込むなど、対象を広げながら議論を深めていく。定例の研究会では、各研究員がそれぞれの現場における実践報告を行うほか、関連史料の調査や整理の成果を報告する史料調査報告などを随時行う。また、必要に応じて史料整理作業や関係者からの聞き取りなどを研究会の中で行い、その成果を報告書に反映することを目指す。

2018年度

開催日時 2019年2月17日 13時30分~18時30分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 「戦後京都府下山城地域の自治体史編さんの事業の環境―その担い手と事業内容の分析を中心に―」
発表者 佐野方郁
研究会内容  本年度7回目の定例研究会にあたる今回は、嘱託研究員の佐野方郁氏により、南山城地域において、戦後、自治体史編纂がいかに行われてきたかについて、当事者への聞き取り調査の結果も交えて報告が行われた。
 今回の報告では、①戦後、南山城地域の自治体史が、部門別の構成を中心とする「郷土史」的自治体史から、学術的な自治体史へと移行する過程、②戦後、南山城地域の自治体史が研究者グループによる編纂体制に概ね集約されていく過程、③その過程における学校教員や郷土史家、地域住民などの関わり方の変化などについて検討した。
 その中で、①については、1970年の『宇治市史』編纂事業の開始が、資料の悉皆調査を前提とする編纂の画期となったとする。また、②については、1978年に『大山崎町史』編纂事業が開始されたあたりから研究者グループによる編纂体制が中心となったとする。また、今日においては南山城地域において自治体史編纂に向けた新たな動きが起きていることから、1990年代以降の地方財政悪化に伴う自治体史の「冬の時代」から変化が出てきているのではないかとされた。
 発表後の質疑応答では、高校教員と発掘や自治体史編纂と関係、古文書講座など自治体史編纂の成果の継承の方法についてなど活発な議論が行われた。また、南山城各地で実務を担った方々に引き続き聞き取りや研究会での報告をお願いしたいなどの意見が出された。
開催日時 2019年1月20日 14時00分~18時30分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 〈現場と公共性〉をどう論じるか―本研究会の回顧と展望
発表者 小田竜哉
研究会内容  本年度6回目の定例研究会にあたる今回は、本研究会メンバーの小田竜哉氏によって、本研究会が過去3年間に歩んで来た軌跡の振り返りと、今後の課題についての報告が行われた。
 報告ではまず、研究会の概要に関して改めて確認した後に、「公共性」と「現場」という言葉に関する検討が行われた。「公共性」に関する議論では、特に「市民的公共性」という言葉が意味する物に関する議論と「共約可能性」あるいは「共約不能性」と「公共性」にまつわる議論の2つが主な焦点となった。その上で、日本歴史学における「公共性」関連の議論について、古代から近代までの論者数名の議論が紹介された上で、京都歴史研究会において「公共性」とはいかなる物であるのか、という議論に入った。また、「現場」という言葉に関しても検討が試みられた。特に報告者は、①史料調査や教育・展示の場と②「行政」の現場という物がしばしば混同されがちであり、「行政」・「運動」・「フィールド調査」等という様に細分化して考える事が必要ではないのかと問題提起を行なった。その上で、改めて「公共性」と「現場」はいかなる関係性にあるのかという問いについて、両者は対比的かつ相関的な関係性にあり、「公共性」と「現場」の往還、あるいは往還からの逸脱が新たな「公共性」や「現場」を形成するのではないか、という議論を展開した。その上で、これまでの3年間における研究会の各報告について、それぞれ検討を試み、キーワードとして「史学史」・「京都(地域史)」・「考古学」・「アーカイヴ・文化財」・「民衆史・部落史」を抽出し、更にその他にも本研究会として「学校・教育」や「宗教」・「民俗学」といったテーマも扱えるのではないか、という展望を示した。
 報告後の質疑応答では、報告者が「民俗学」をどの様な物として捉えているのかという質問や、学校現場の教員が歴史学研究の場にどの様に参画していたのか、その歴史的変遷を見るのも良いのではないのかという議論、あるいは京都市における私立学校と公立学校の関係性に関する解説がなされた。また、前半の「公共性」の議論に関しては、「公共性」という物を持ち出した瞬間にそこには「排除」の論理が働くのではないか、あるいはその「排除」というのは単なる「選択」なのではないか、という点も議論された。どの議題に関しても参加者の活発な議論が行われ、今後の研究会の進展を考える上で非常に重要な例会となった。
開催日時 2018年12月16日 14時00分~18時30分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 京都の景観行政の発展過程について
発表者 苅谷勇雅
研究会内容  本年度5回目の定例研究会にあたる今回は、苅谷勇雅氏が、京都市の景観行政の歩みについて報告した。
 報告では、明治初期のまちづくりから説き起こし、近代における文化財保護行政の形成から現在までの展開について、自身の体験を踏まえて詳細に解説した。とくに1960年代以降の景観保護行政については、開発と保存をめぐる激しい論争を多くの事例を交えて紹介した。
 その後、報告者の苅谷氏が京都市職員として携わった1970年代から1990年代にかけての京都市内の景観行政について自身の体験も踏まえられながら説明がなされた。とくに、景観係長として携わった京都ホテル(1994年竣工)の高さを巡る住宅局と都市計画局のやりとりや、JR京都駅改築の経緯などについても解説がなされた。また、文化庁へ移った1990年代後半以降の京都市の景観行政に関しても、市街地景観整備条例など新しい景観関連の条例、屋外広告物条例を全面改定した屋外広告等に関する条例、京町家の保全と継承に関する条例などの制定過程が解説された。また、2018年10月に施行された宿泊税、世界遺産である下鴨神社のバッファーゾーンへのマンション建設、文化財保護法改正問題など、今後の展望も含めた問題提起がなされた。
 報告後の質疑応答では、文化財保護法改正問題や景観の調和に関する考え方、伝統的建造物群保存地区など、多くの課題について活発な議論がなされた。
開催日時 2018年11月18日 13時30分~18時00分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ
  1. 「日本の近代視聴覚障害児教育創始についての一考」
  2. 「西田直二郎に関する一次史料を読む」
発表者
  1. 竹村佳子
  2. 入山洋子
研究会内容  本年度4回目の定例研究会にあたる今回は、2名の報告が行われた。
 まず、竹村佳子氏の報告においては、①京都盲啞院設立時における日本の障害児教育の状況や考え方の検証、②京都盲啞院と同時期に開校された東京の楽善会訓盲院との比較検討などを通じて、京都における教育の特質が論じられた。とくに、盲啞院の創立経緯や財政状況、立地条件などについて詳しい紹介が行われ、楽善会訓盲院が欧米の文化に触発された啓蒙家たちによる文明開化政策の一環であったのに対し、古河太四郎を中心とした京都盲啞院においては地域教育の伝統を踏まえた住民による自発的な取り組みであったことが強調された。その中で、京都府学務課長吉田秀穀や心学を家訓としていた豪商たちの影響の大きさも指摘された。また、京都市学校歴史博物館の企画展「『京都盲啞院』発!障害のある子どもたちの教育の源流」(2008年1月~4月)での経験が紹介され、質疑応答も活発に行われた。
 入山洋子氏の報告は、西田直二郎が残した一次史料に関するもので、まずその現状と意義について説明があった。その上で、発表者がプロジェクターに映し出した史料の画像をもとに、判読困難箇所の点検が行われた。史料に基づく共同研究を目指す本研究会の趣旨からすれば、時には今回のような共同作業による史料解読も重要であろう。今後も必要に応じて、実施することにしたい。
 その後、発表者両名を囲んで、懇談会が行われた。
開催日時 2018年7月15日 14時00分~18時00分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 私・CDI・歴史のお仕事
発表者 疋田正博
研究会内容  本年度3回目の開催となる今回の研究会では、株式会社CDI(Communication Design Institute)代表取締役の疋田正博氏にご報告をお願いした。
 前半部では、まず疋田氏の生い立ちからCDI入社までの半生を報告された。中学校の時に炭鉱閉山に反対する三井・三池炭鉱労働組合を支援するための「黒い羽根運動」が行われるなど、大学に入る以前から政治運動に近い活動が行われており、その延長として大学での自治会活動や政治運動に関わったという。また、大学のゼミでは本山幸彦氏が指導教官となり、卒業論文のテーマは「自由民権運動と教育」であった。卒業論文を書き終えて大学院の修士となった時に、母校である京都一中・洛北高校の百年史の調査・執筆のアルバイトを行った。この作業を通して「歴史家になろう」と強く考えた。しかし、博士課程に進学した時に、大学のあり方を根底から見直そうとする全共闘運動が起こり、疋田氏は穏健・対話路線であったが、対話に応じなくなった教授会の姿勢に納得できず、博士課程を中退した。その後、同じく京都大学を辞めた加藤秀俊氏が京都信用金庫の後援を受けて設立したCDIで『京都庶民生活史』を作るという話に誘われたが、実際には京都信用金庫の50年史の調査・執筆に回された。この仕事を終え、更に簡略版を作成した後に、正式にCDIに入社し、主任研究員となった。
 後半部では、CDI設立の事情や、それに関わった学者や知識人間の関係性、CDIがこれまでどのように歴史関係のプロジェクトに関わってきたのかといった点を中心にして報告がなされた。
 報告の後の質疑応答では、疋田氏が「歴史家になろうと」考えたきっかけである京都一中・洛北高校の百年史の仕事や、CDIと未来学会などの学者との関係、CDIと京都信用金庫との関係など多くの質疑がなされた。研究会後には今後の研究会の進め方について懇談会が催された。
開催日時 2018年6月17日 14時00分~18時00分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 世界文化遺産と百舌鳥・古市古墳群/考古学者は天皇陵古墳をどのように考えたか
発表者 水ノ江和同/若林邦彦
研究会内容  本年度2回目の開催となる今回の研究会では、同志社大学文学部の水ノ江和同氏と同志社大学歴史資料館の若林邦彦氏が発表を行った。
 前半に発表を行った水ノ江氏は、まず日本の世界遺産登録の歴史や、登録に必要な道筋、及び現時点での日本における世界遺産登録の状況と課題について論じられた。また同時に、世界遺産と関連して設立された日本遺産についてもその問題点の指摘が行われた。その後、話題は百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録に関する動きへと転じた。その中では、陵墓の世界文化遺産への登録や陵墓の発掘調査結果の情報公開に対する現時点での宮内庁の見解、更には文化庁と宮内庁の関係性についても議論が展開された。
 後半に発表を行った若林邦彦氏は、水ノ江氏と同様、世界文化遺産登録との関わりで、天皇陵古墳及び大王墓の位置付けと名称に関する議論を展開された。特に両論併記という名称の問題に関して、現在の古墳研究者からの発言があまり見られないのは何故か、という点を問題として挙げられていた。その上で、主要な古墳研究者の多くが世界遺産登録の委員会に関係しており、中立的な立場からの発言が難しい点、また近年の古墳に関する研究動向として、被葬者の特定に関心が向けられず、初期国家論や王権論といった国家形成論との関わりを問題として設定する場合が多い点等をその原因として指摘された。その上で、治定と古墳名をめぐる問題が考古学の中でどうでも良くなって来ているというのではなく、改めて両名併記の原理の継続が大切であるという点を指摘された。
 両者の発表の後、フロアからの質疑応答が行われた。世界文化遺産登録の現場におけるロビー活動の問題や、考古学者が戦前の皇国史観に関して戦後どの様に向き合って来たのか、天皇陵及び大王墓の名称と文化庁の立場等に関する質疑応答がなされた。本研究会において考古学を専門とする研究者の発表は極めて貴重であり、そのため、白熱した議論が展開された。
開催日時 2018年5月20日 14時00分~18時00分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 明治仏教史―その史学史的試論
発表者 前田一郎
研究会内容  本研究会は第10研究の第1回であり、本研究会のメンバーである前田一郎氏が報告を行った。
 前田氏の報告は、近代における仏教学者や歴史研究者が仏教史をどのように対象化したかを検証するために、手始めとして「明治仏教」を俎上に挙げて、研究史を整理した。具体的には、明治から昭和戦前期における各時代の代表的な著作物を取り上げ、その内容を検討した。
 報告では、田島象二や加藤拙堂など、これまで史学史の中ではあまり注目されていなかった仏教学者の歴史的な著述についても検討を加え、その特徴を明らかにした。さらに、村上専精登場以降の仏教史学の歩みをたどりながら、そこにおける「明治仏教」把握の変遷を跡付けた。村上と『仏教史林』、鷲尾順敬と『仏教史学』、仏骨奉迎などにも言及した島地大等、文化史学の影響を受けた橋川正、村上・鷲尾とともに『明治維新神仏分離史料』を編纂した辻善之助などの著作について検討した。それにより、「近世仏教堕落論」として知られる仏教観が、多くの論者によって共有されたものではなく、辻善之助独自のものであるとの指摘もなされた。
 昭和戦前期については、西光義遵、徳重浅吉、友松円諦と明治仏教史編纂所などを検討した上で、支那仏教史学会や日本仏教史学会の活動が紹介された。とくに支那仏教史学会の活動は、帝国日本の大陸進出や戦争協力と歩調を合わせたものであったことが指摘された。
 今回の報告では、近代の仏教史学について、これまで知られていなかった多くの知見が紹介されたため、報告後に行われた質疑応答では参加者の様々な視点から意見交換が行われた。また、西田直二郎や辻善之助などの関係史料についても情報共有がなされた。

2017年度

開催日時 2018年2月18日14時00分~18時00分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 西田直二郎の研究生活を振り返る
発表者 入山洋子
研究会内容  本年度10回目の開催となる今回の研究会は、本研究会のメンバーである入山洋子氏が表題の報告をおこなった。
 氏はすでに、本研究会の前身となる「京都歴史研究会」のメンバーが中心となって執筆した『京都における歴史学の誕生─日本史研究の創造者たち』(2014年)のなかでも、「『京都市史』編纂と歴史学─西田直二郎の挑戦」と題し、西田について論じている。同論では、西田と自治体誌編纂事業とのかかわりを検討することをつうじて、これまでもっぱら「西田文化史学」や皇国史観のイメージで語られてきた西田を、意外にも実証的な歴史学者であったという面に光をあてて論じた。
 今回の報告では、同論での知見をもとに、さらに理論/実証といった単純な図式に落とし込むのではなく、より総合的な西田の把握をめざして、本人に関わる膨大な一次史料から彼の研究生活を振り返る作業をおこなった。その際、西田文化史学と皇国史観の問題を、たんに西田個人の資質に帰すだけでは不十分で、歴史学と時代性との問題として考察する必要があることを入山氏は指摘した。
 報告からまず窺えたのは、西田の関心領域がきわめて多岐にわたるということであった。古代から近世まで非常に幅広い範囲の歴史を講じ、自治体史編纂などをつうじて地方の史料にも強い興味を示している。また、師の内田銀蔵や多方面の知識人たちとの交流、三浦周行や中村直勝への複雑な思いの一端も明らかにされた。さらに、青年時代にはいわゆる「煩悶青年」的な側面が垣間見られたり、教授時代にも多忙さを吐露する記述があったりするなど、人間味のある部分も窺い知ることができた。戦後西田が公職追放となったことはよく知られているが、決して追放と同時に京大との行き来が途絶えたというわけではなく、しばらくは関係を保っていた実態も判明した。
 報告のあとは、フロアとの活発な質疑応答がおこなわれた。充実した史料分析をもとに、報告者による西田像がどのように描かれ、問題提起がなされるのか、大きな期待が寄せられた。
開催日時 2018年1月21日14時00分~18時00分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 平安京跡発掘史(1)再論
発表者 永田信一
研究会内容  本年度9回目の開催となる今回の研究会は、財団法人京都市埋蔵文化財研究所で長く調査・研究に携わってこられた永田信一氏をゲスト講師に迎え、京都における考古学の歴史について話を伺った。今回は特に、氏がその先鞭として位置づける裏松固禅『大内裏図考証』がまとめられた1790(寛政2)年から、戦前・戦中期をはさみ戦後の高度成長期をへて、京都市文化財保護条例が公布される1981年までの期間について、ご報告いただいた。
 裏松『大内裏図考証』につづいて1796(寛政8)年に出された藤貞幹『好古目録』では、碑文とならび、文字瓦の重要性が謳われる。両書の存在にすでに象徴的に示されているように、「平安京」と「瓦」は、その後の京都の考古学の大きな特徴となった。また、平安京跡については、文献史料(指図)が残されているため、他の遺跡と比較してその全体像が描きやすいことや、建築史とのつながりが深いといった特色があるという。
 大正期には史蹟名勝天然記念物保存法が制定(1919年)・施行(1921年)され、西寺跡が史跡として指定されるなど、戦前の考古学は史跡・聖蹟行政とともに歩んだ。戦中期のブランクをへて戦後になると、1950年に文化財保護法が制定され、考古学資料は、「埋蔵文化財」という言葉で扱われることとなった。そしてまもなく高度経済成長期を迎え、発掘調査も活発化する。
 京都における戦後最大の発掘調査は、地下鉄烏丸線内遺跡の調査であった(1974〜1980年)。本事例を中心に、報告者自身が直接関わった豊富な経験から、戦後京都考古学界の歩みが詳細に紹介された。なかでも氏が注意を向けたのは、1975年に文化財保護法が一部改正され、民間での原因者負担による発掘がおこなわれるようになったことだ。このことは発掘調査の期間やコストを大きく制限し、結果、調査方法にも多大な影響を与えたという。そこにはさまざまな問題があったと永田氏は指摘する。
 報告のあとは、フロアとの活発な質疑応答がおこなわれた。今回の報告に含まれなかったバブル期以降の考古学界の変遷についても期待が寄せられた。
開催日時 2017年12月17日14時00分~18時30分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ わたくしの問題意識の来歴
発表者 桂島宣弘
研究会内容  本年度8回目の開催となる今回の研究会は、立命館大学教授の桂島宣弘氏をゲスト講師に迎え、近世思想史研究者としての自身の研究生活の歩みをふりかえっていただいた。また、本研究会のメンバーが中心となり編纂した『京都における歴史学の誕生』(2014年)についてもコメントを頂いた。
 氏が宗教思想や日本宗教史に関心を持つようになったのには、北部バプティスト派の牧師であった父親からの深い影響があるという。青年時代、おりしも盛んであった「解放の神学」や「人間イエス論」などといった宗教観をめぐって、親子は激しい議論をたたかわせた。
 やがて、資本主義とはなにか、搾取や差別のない世界は実現可能か、といった問題意識から歴史学、とりわけ思想史に関心を持つようになり、東北大学工学部から立命館大学日本史学専攻へと3年次編入、立命館史学の門を叩く(1977年)。立命館大学では、衣笠安喜氏に師事し、岩井忠熊氏や山尾幸久氏からも薫陶を受けた。師の衣笠氏は、立命館史学の特徴として「在野史学」であることを何度も強調したという。衣笠氏や掛谷宰平氏をはじめ、立命館史学を支え、発展させた多彩な面々の学風やエピソードの数々も披瀝された。
 また、氏自身の思想史学についても、安丸良夫や子安宣邦から影響を受け、民衆思想や新宗教研究を発展させた時期から、東アジア史というトランスナショナルな歴史研究へと目を向けるようになった時期への変遷も語られた。その背景には、出征した父親の戦争体験の語りがあった。そして、1980年代中頃に韓国からの留学生を受け入れたことが直接のきっかけだったという。
 『京都における歴史学の誕生』については、特に林屋辰三郎を扱った佐野方郁論文を中心に論評を伺った。林屋に関して、「場」に着目して論じた佐野の視点を高く評価しつつも、いくつかの課題を提示された。
開催日時 2017年11月19日 14時00分~18時00分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 1930年代の京都府における郷土教育の展開
──小学校教員の描いた地域誌・史
発表者 井岡康時
研究会内容  本年度7回目の開催となる今回の研究会は、本研究会のメンバーである井岡康時氏が表題の報告をおこなった。
 氏は本報告で、「郷土教育」の一環として1930年代を中心に展開した、小学校による郷土誌・郷土史の編纂活動を京都府の事例にもとづいてあきらかにし、その位置づけについて考察した。また、そうした専門研究者ではない在野の人びとによる歴史叙述をどのように評価するのか、という問題も提起した。
 「郷土教育」とは、伊藤純郎『増補 郷土教育運動の研究』(2008年)によれば、①当時の田中義一内閣が国民教化策として提唱した「地方研究」、②それに呼応しておこなわれた自治体誌の編纂事業、教育会・小学校による郷土誌の編纂、③柳田國男による『郷土研究』の創刊(1913年)、④柳田の民俗学に影響を受けた「郷土教育連盟」の結成(1930年)、という4つの動きが融合したものだという。
 井岡氏は、当時刊行された小学校編著の郷土誌・史には、(A)データの収集・整理、社寺・史跡などを網羅的に記述した郷土誌・郷土資料・郷土調査の性格を持つものと、(B)児童が読むことを前提にした郷土読本の2タイプがあると分析する。また京都の事例を検討すると、黎明期には「よき郷土人の育成」を「国民的観念」の向上へ導くことが企図されており、国家が前面に押し出されるのは日中戦争期以降だという。ただし、記述内容はかならずしもそのようには変化せず、国家の意思に沿った側面と、自治意識を陶冶しようとする地元教員らの意志との両面が読みとれる。アカデミズムとの関連はそれほど強くみられず、地元の人間が実際に地域を歩いて記述したことがわかる、歴史資料の余白をつなぐようなきわめて興味深い歴史叙述となっているという。こうした1930年代の動きは、大正大典期の町村誌編纂事業とも、大戦後の国民歴史学運動とも連動しておらず、独自のものだと評価ができそうである。
 フロアとの討論では、他の研究会メンバーの先行研究とも比較検討しつつ、活発な議論がおこなわれた。
開催日時 2017年10月1日 14時00分~18時00分
開催場所 向日市文化資料館
テーマ 『未刊「乙訓郡誌」稿』をめぐって
発表者 玉城玲子・安国陽子
研究会内容  本年度6回目の開催となる今回の研究会は、向日市文化資料館にての所外開催となった。同館が2016年に刊行した『未刊「乙訓郡誌」稿』について、本研究会のメンバーでもある同館長の玉城玲子氏と、同書の編集・印刷にかかわった河北印刷・安国陽子氏の2氏を講師に迎え、話を伺った。
 『乙訓郡誌』は2つある。刊行されたものと、未刊行のものである。前者は1940年、地方新聞『昭和新聞』主筆・発行者で地元の薬局経営者でもあった吉川民二が、皇紀二千六百年を記念として単独で著述・編纂・刊行したものだ。だがそれ以前、大正末年の郡制廃止にともなって各地で郡誌編纂事業が実施されるなかで企画され、昭和戦前・戦中期をつうじた編纂作業で多くの原稿も揃っていたにもかかわらず、ついに未完に終わったもうひとつの『乙訓郡誌』があった。今回、再発見された原稿をもとに同館がとりまとめ、刊行したのが、この後者の『乙訓郡誌』である。
 研究会ではまず玉城氏が、「未刊「乙訓郡誌」編纂の体制と経過」と題して報告をおこなった。2013年、長岡京の発掘者である故・中山修一の生家の土蔵から同書の原稿が再発見されたことが、今回の刊行のきっかけとなった。中山は同原稿の長岡京前後が欠けていたことから長岡京の調査をはじめ、その発掘にいたったのだという。西田直二郎を監修に迎え、地域の教員らの協力を得つつ編纂された同書の特徴・時代性・意義については、今回書籍として刊行されたことで、考察が飛躍的に進むことが期待される。刊行を機に同館が開始した輪読会も大盛況だという。乙訓全体を視野に入れた同書の歴史叙述の今日的意義や、吉川版『乙訓郡誌』との比較も興味を呼ぶ要素である。
 つづいて、安国氏が「未刊「乙訓郡誌」の内容と構成について─原稿を編集する過程の諸問題と疑問点」と題して報告をおこなった。不完全な原稿をもとに『乙訓郡誌』の全体像を推理し、編み上げていく作業の困難さを伺った。会場には再発見原稿が展示され、実物を手にとって見ながら、参加者との意見交換がおこなわれた。原稿用紙の種類や筆跡によって執筆者を特定できる可能性などが指摘され、今後のさらなる研究の進展を予感させた。
開催日時 2017年8月29日 11時00分~18時00分
開催場所 奈良町からくりおもちゃ館、元興寺文化財研究所・総合文化財センターなど
テーマ 近世のからくりおもちゃの復元について
発表者 安田真紀子
研究会内容  本年度5回目の開催となる今回の研究会は、奈良県奈良市の中心部に位置する、奈良町エリアにての所外開催となった。参加者は近鉄奈良駅に集合した後、まず奈良市史料保存館に立ち寄った。同館では常設展示のほか、奈良町にあった芝居小屋「尾花座」に関する企画展示を見学した。
 つづいて、奈良町からくりおもちゃ館を訪問した。2012年、奈良市に寄贈された旧松矢家住宅を活用して開館した同館では、所蔵するからくりおもちゃ(複製品)を来場者が実際に手にとって遊ぶことができる。奈良大学で25年間にわたって教鞭を執り、「実験歴史学」を提唱した鎌田道隆氏からそれらの所蔵品を寄贈されたことが、開館のきっかけであった。館内には工房もあり、体験イベント日には、自然素材を使ってのからくりおもちゃ作りを体験することができる。ゲスト講師の安田真紀子氏は、同館館長をつとめておられ、それらの経緯と現状についてのご報告を伺った。
 安田氏は奈良大学で鎌田氏に師事。同館の所蔵品も、その大部分が安田氏らの手によって復元されたものである。復元作業には、かぎられた当時の文献資料から遊びかたや内部の構造を読み解く苦労や楽しみがあるのだという。また、復元作業をとおして同氏が強く感銘を受けたのは、当時の人々が自然素材の特性を熟知し、その特性を活かした構造や遊びかたを工夫していることだった。
 「実験歴史学」の一環として伊勢参りを復元した「宝来講」ついても話を伺った。実験は、自分たちが履くわらじの稲を栽培するところからはじまるという、徹底したものであった。「宝来講」は25年間つづけられ、「宝来講が来ると春が来る」と沿道の人びとに言われるほどの名物行事となった。こうした取り組みは、文献研究がけっして机上のものだけにとどまらないことを予感させる、きわめてユニークな歴史研究の可能性を示すものだといえよう。
 安田氏の報告の後、参加者は同館から元興寺文化財研究所・総合文化財センターに移動し、同館を見学した。1961年に元興寺が立ち上げた仏教民俗資料調査室が母体となり、昨年11月に同センターが開所した。同センターでは、古文書修復の中心を担っておられる金山正子氏に作業現場をご案内いただきながら、お話しを伺うことができた。
開催日時 2017年7月16日 14時00分~18時00分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 近代の〈承久の乱〉像
発表者 長村祥知
研究会内容  本年度4回目の開催となる今回の研究会は、京都府京都文化博物館の学芸員である長村祥知氏をゲスト講師に招き、ご自身の中世史研究を踏まえて、承久の乱(1221)について史学史上の位置づけを試みていただいた。
 承久の乱は、武家優位の政治体制が確立する、日本史上の一大画期とされる。後鳥羽院に対し、鎌倉幕府側が勝利して三名の上皇が配流されるという結末に終わったこの事件をどう描くか、後世の歴史叙述を丹念に検証され、そこにあらわれる位置づけの変容を検証した。
 報告ではさらに、明治期における京都の歴史書『平安通志』(1895)における承久の乱の記述に注目し、同書が依拠した史料は何か、また、どのように情報が取捨選択されているかなどについて、刊行されたテキストと草稿とを比較しながら、詳細な検討がおこなわれた。その結果、同書の承久の乱の記述は、その多くを『吾妻鏡』と『承久記』流布本とに負っていることが判明した。また、事実の取捨という面では、北条政子の演説が描かれていないことや、草稿から刊行に際して戦闘叙述が大幅に増補されていることが指摘された。軍勢の配置についても、鎌倉方の記述が粗略であるのに対し、京方のそれは数量なども詳細に描かれている。
 報告のあとは、フロアとの質疑応答がなされた。同氏のアプローチは本研究会にとって非常に示唆に富むものであり、活発な意見交換がおこなわれた。
開催日時 2017年6月18日 14時00分~18時00分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 安丸思想史の射程
発表者 福家崇洋
研究会内容  本年度3回目の開催となる今回の研究会は、福家崇洋氏(富山大学)に民衆思想史を代表する研究者であった安丸良夫について、その思想史を貫く「意識と全体性」を軸に、思想史的分析をおこなっていただいた。
 報告にあたって、福家氏は、安丸の生まれ育った富山県東砺波郡高瀬村森清(現在の南砺市)を実際に訪れ、歩いたという。研究会当日は当地の地図や写真も配付され、参加者は、具体的なイメージを思い浮かべながら報告を聞くことができた。たとえば、安丸は故郷を回顧して、浄土真宗の信仰が非常に盛んだったことを述べている。しかし、実際に森清周辺を歩いてみると、神明宮が多くみられるなど、安丸の回想とは別の発見があったことも紹介された。
 さて、安丸思想史といえば、「通俗道徳論」というイメージで語られることが多いが、福家氏は、そのように両者を直結させることに疑問を呈する。氏は、安丸思想史を年代別に計4期に分け、その変遷を緻密な調査をもとにたどっていく。安丸の通俗道徳論には大塚久雄の影響が大きく、その初期においては、通俗道徳は生産力とセットになって語られていた。
 安丸の思想にとってもうひとつ重要な概念として、「可能意識」が挙げられる。もともとはL・ゴルドマンの言葉であるその概念は、やがて民衆宗教研究をつうじて、安丸に「唯心論的な世界解釈」、ひいては「全体性(コスモロジー)」と「社会的意識形態」という問題関心を導くものとなった。そして、当初は歴史の変革主体として想定されていた「民衆」が、「共同的」主体へと再設定されていったのだと福家氏は指摘した。
 報告のあとは、フロアとの質疑応答がなされた。緻密かつ網羅的であった福家氏の報告を受け、議論の内容も多岐にわたったが、1990年代以降の安丸を歴史学の立場からどのように評価するかなど、忌憚のない意見交換がなされた。
開催日時 2017年6月6日 13時30分~18時00分
開催場所 京都市歴史資料館
テーマ 湯本文彦関係資料について
発表者 秋元せき
研究会内容  本年度2回目の開催となる今回の研究会は、本研究会のメンバーでもある京都市歴史資料館の秋元せき氏が、同館所蔵の湯本文彦関係資料について報告をおこなった。本年度最初の学外開催となり、当日の出席者は報告者を含め7名。全員が研究会メンバーであった。
 京都府の官吏であった湯本文彦(1843-1921)は、日本における自治体史の嚆矢となる『平安通志』(1895)の刊行を発議し、編纂主事をつとめた人物である。京都市歴史資料館には、同書の稿本など彼の遺した大量の資料が御子孫にあたる上野氏より寄贈され、保管されている(「上野(務)家文書」)。本研究会は、同資料の整理を目標のひとつに設定しており、今後、同館の協力を仰ぎながらどのように研究を進めていくのか、秋元氏による資料概要の報告を踏まえ、検討することとなった。
 京都市歴史資料館では、1997年から98年にかけて、同資料の第一次調査を実施した。結果、資料の一部がマイクロフィルム化され、現在、紙焼きの写真帳という形で閲覧が可能となっている。しかし、撮影されたのはまとまって保管されていた冊子など一部に限られ、書簡類など未撮影の文書が大量に残されている。今回はその中でも大きな木箱に収納された文書類の整理に取りかかり、おおまかな分類を行った。その結果、木箱には稿本類や日記など貴重な一次史料が含まれていることが判明した。
 今後については、研究会としてどのような形で整理や撮影などを進めるか、同館と協議しながら検討することになった。また、作業の合間を利用して、今年度後半の報告スケジュールについても話し合った。
開催日時 2017年4月9日 14時00分~18時00分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 労働問題としての発掘現場
発表者 本田次男
研究会内容  第11回目の開催となる今回の研究会では、新年度最初の開催ということで、まず、第19期研究会活動報告書をもとに昨年度の本研究会をふりかえり、今年度の計画について話し合った。昨年度は5月から3月までの間に計10回の研究会を開催し、各メンバーはそれぞれ自身のテーマに関わる史料調査を進めた。今年度は、それらの成果を活かしながら、これまで取り上げることができなかった分野や、研究会メンバーによる報告を積極的に行うという方針が示された。また、本研究会と関連して、科学研究費の申請内容について小田龍哉が補足説明をおこなった。今年度以降の計画としては、元興寺文化財研究所など関係施設の見学や、研究会メンバーによる報告、合評会、史料調査、シンポジウムなどが具体的に挙げられた。
 つづいて、かつて京都市埋蔵文化財研究所につとめておられた本田次男氏(現在「きょうと夜まわりの会」)をゲスト講師に招き、氏が携わった埋蔵文化財発掘現場について労働問題の視点から報告いただいた。
 本田氏は、1982年に京都市埋蔵文化財研究所の臨時職員に採用され、調査補助員として発掘現場での作業にあたることになる。同年、氏は組合を立ち上げ、賃金格差の是正や、交通費の支給、社会保険への加入などを実現させていく。組合を立ち上げた氏は均等待遇を求めていたが、組合の方針は正職員化となり、1989年には臨時職員のうち41名が正職員に採用された。氏が運動を始めた当初は、周囲の労働環境への関心は高いとはいえず、臨時職員は考古学を学んでいるボランティアのように考えていた管理職もいたという。氏は1992年に埋文研を退職された。
 報告は途中から、フロアとの応答方式で進められた。活発な議論がおこなわれたが、特に、考古学を専門とするメンバーが学生時代にアルバイトした現場での事例や、自治体での勤務経験を紹介し、本田氏の活動と比較することで、1980年代の労働運動をめぐる雰囲気や、以降の時代における変化が浮き彫りになった。

2016年度

開催日時 2017年3月12日 14時00分~18時00分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 舟木宗治と京都探勝会 ──京都の人々と史蹟名勝をつなぐ活動──
発表者 斎藤智志
研究会内容  第10回目の開催となる今回の研究会では、斎藤智志氏(秋山庄太郎写真芸術館主任学芸員)をゲスト講師に招き、舟木宗治と京都探勝会の活動について報告いただいた。
 近年、史跡名勝や文化財にかかわる歴史研究は活発に進められているが、歴史イメージや風致を発信する側だけではなく、享受・消費する側に目を転じることで、あたらしい視角がひらけるのではないかという問題意識が、斎藤氏が今回の報告テーマに注目したきっかけだったという。同氏は自著『近代日本の史蹟保存事業とアカデミズム』(2015年)で井手保勝会の活動との関連から舟木と京都探勝会をとりあげている。今回の報告では、さらに踏みこんだ形で京都探勝会の活動の実体とその特色、そこにみられる舟木の史跡名勝観や歴史意識について考察いただいた。
 舟木は1851年、地下官人の家に生まれた。毛植細工や養蚕業を営むかたわら、京都府会議員や京都府教育会などでのさまざまな公職に従事した。1881年、医師の勧告で廃業し、海浜旅行をはじめたことが、探勝趣味のきっかけとなった。1897年から『京都日出新聞』に探勝案内の投稿を始め、1899年に京都探勝会を設立し、1903年の閉会まで精力的に活動をおこなった。同会の活動は、京都の歴史と風致が観光資源として整備された時期に、地域の経済活動と連携しながら、その消費者となるべき都市生活者たちを組織化・啓蒙し、両者間の橋渡しをするものとして位置づけられるという。また、舟木の書く探勝案内は、近世以来の遊楽の楽しみ方に、文化財の鑑賞・海水浴・登山といった近代的な行楽の要素が組み合わさった、独特の魅力を持つものであった。そこでは、歴史・風致の真偽問題はかならずしも重要視されず、現地の体験でどれだけ楽しみが得られるかに主眼がおかれていた。
 報告のあとは、フロアとの活発な質疑応答がなされた。フロアからは、地下官人のネットワークや、学区など教育機関をつうじた繋がり、また、府会議員としての活動など、京都の史料を調査していくことで、さらに魅力的に舟木の活動が浮かびあがる可能性があるのではと期待が寄せられた。
開催日時 2017年2月26日 14時00分~18時00分
開催場所 ウィングス京都 調理コーナー
テーマ 茶香服実演を通じて文化史学や林屋辰三郎史学について考える
発表者 林屋和男氏
研究会内容  第9回目の開催となる今回の研究会では、日本茶インストラクターの林屋和男氏をゲスト講師に招き、茶香服(ちゃかぶき)の実演をとおして、京都の歴史文化における「寄合」のありかたの一例を追体験するとともに、戦後京都の代表的な歴史家・林屋辰三郎の歴史学について考察をめぐらせた。
 講師の林屋和男氏は、辰三郎の甥にあたる。京都宇治で製茶業を営む林屋家では、毎年、創業記念日に親族と社員一同が集まり、茶香服を催して親睦を深めたのだという。茶香服とは、あえて一言で説明するなら「聞茶」を競うゲームである。参加者に配付された「茶かぶき縁起」(辰三郎の書いたものだという)によれば、中世の民衆たちの「寄合」のいとなみのひとつ、「茶寄合」のなかで、茶の品種を飲み分け、産地を言い当てる遊びをおこなったのがそのおこりである。当初は抹茶を使っておこなわれたが、やがて近世になると、玉露や煎茶などを使って競われた。茶業者のあいだで鑑定力を養い親睦を深める遊びとして、盛んに催されたそうである。正当ではなく傾(かぶ)いた茶会だということで、こうした名前で呼ばれるようになった。「茶かぶきと言う呼び方は、何となく楽しく華やいだ感じがします」と辰三郎は書き添えている。
 同縁起を書くにあたって、辰三郎は年号や難解な表現をなるべく避けるように気を遣ったのだと和男氏はいう。なるほど、平易な文体のなかに、「寄合」という民衆による「場」が「日本の伝統文化」を生んだのだという林屋史学のエッセンスが凝縮されているようにも感じられる。それが「楽しく華やいだ」ものだったと体現してみせたことこそ、稀代のオーガナイザーでもあった林屋の面目躍如だったのではないか。
 さて、実際に茶香服を体験してみると、五種類の茶を一煎ごとに推理し、茶葉ごとに割り振られた木札(風・月・雲・艸・隺)を投じていくという手順など、単純な聞茶とも片付けられない独特なゲーム性がある。京都の歴史学が机上のものだけにはけっしてとどまらないということを、林屋家の茶香服の様子に思いを馳せながら、あらためて、楽しく体感することができた。
開催日時 2017年1月22日 14時00分~18時00分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ デジタル化のなかの自治体史と史料翻刻
──組版の現場からみた自治体史の20年──
発表者 安国陽子
研究会内容  第8回目の開催となる今回の研究会では、自治体史印刷の分野で豊富な実績とノウハウを有する河北印刷株式会社の安国陽子氏をゲスト講師に招き、自身の印刷業界での経験を踏まえ、この20年間の組版・印刷技術の劇的な変化について、また、自治体史刊行をめぐる状況がどう推移してきたか、さらに、デジタル化時代における史料翻刻の問題をどのように考えるかなどについて、報告いただいた。安国氏は『長岡京市史』資料編三の編纂に携わったのち、1998年に同社に入社した。以来約20年にわたっておもに自治体史の編集業務にたずさわり、これまでに製作担当した書籍は80冊あまりにのぼる。
 氏が同社に入社したタイミングは、まさに活字による組版から電算写植機での組版への移行期であった。以降、組版機の性能向上にともなって、ワードやエクセルからの直接のデータの読み込みが可能になるなど、社内技術者の作業も大幅に変化してきた。しかし、それにもかかわらず同社が納品物のクオリティを維持することができたのは、活版印刷の時代に蓄積された膨大なノウハウを受け継ぐ努力がなされてきたからだという。
 氏によると、自治体史刊行のピークは1990年代〜2000年代であった。しかし、現在はほぼひと段落し、新たな編纂事業が立ち上がるのは容易な状況ではない。IT市史といった取り組みもみられるが、データ量の多寡と豊かな歴史叙述とはかならずしも直結しない。「作りっぱなしでない市史」にするには、やはり人による地道な普及活動が必要ではないかと述べる。
 自治体史における史料翻刻の問題については、これという定まったセオリーはなく、多種多様なやりかたがある。どう読み手に伝えるかという意識が重要で、たんに古文書の見た目を忠実に再現することが最善というわけではない。むしろ、そのことで誤った情報が伝わるケースもあるのだという。著者や編者の原稿データを上手く組版する苦労の一端も伺った。
 報告のあとは、フロアから多数の質問が出された。本研究会はとくに自治体史にかかわりのある参加者も多く、具体的な経験談などもあげながら活発な議論がおこなわれた。
開催日時 2016年12月11日 14時00分~18時00分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 丹波国山国荘地域における現地調査の軌跡
発表者 坂田聡
研究会内容  第7回目の開催となる今回の研究会では、中央大学の坂田聡氏をゲスト講師に招き、自身が調査団を組織して手がけてきた丹波国山国荘地域の史料調査の経過と到達点を踏まえて、今後の現地調査のあり方を示すという内容で報告いただいた。
 現在の京都市右京区京北の山国地区・黒田地区を中心に存在した荘園(禁裏領)である丹波国山国荘は、報告者によれば、個々の家単位でまとまった量の中世文書を伝来する極めて稀有な事例であるとともに、中世文書のみならず、近世・近現代文書も連続して残存しており、中世から近現代にかけての地域社会の構造やその歴史的変遷を通時代的に考察することが可能な地域であるという。
 報告者は1991年にはじめて同地域に入り、1995年には山国荘調査団を組織して、現在にいたるまで調査を継続してきた。20年以上におよぶ調査の年月は、研究に主眼を置いた調査か、古文書の整理・保存に主眼を置いた調査かなどといった議論を重ねながらの試行錯誤の連続であった。報告では調査の前段階に加え、調査開始後の第1期〜第5期にわけてこれまでの歩みをふりかえり、現場での経験から導かれた調査の方法・成果・課題の数々が紹介された。氏は、本調査の意義として、①研究者の側の都合による恣意的、「つまみ食い」的な調査姿勢を排し、地域にしっかりと腰を据え、地元住民との信頼関係を築き上げることで調査をつづけている点(「広く・浅く」ではなく「狭く・深く」)、②山国荘地域の史料残存状況によって、同一フィールドで通時代的な地域社会像を描くことが可能になった点(代表的な成果としては坂田編『禁裏領山国荘』、坂田・吉岡『民衆と天皇』など)、③時代の壁と学問間の壁を越えた学際的な共同調査を進めている点、④長年にわたる調査により、地元の人びとと強い絆が生まれた点、を挙げられた。
 報告のあと、フロアから多数の質問が出され、山国荘と他のフィールドとの比較や、具体的な調査方法について、活発な意見交換がおこなわれた。
開催日時 2016年11月20日 14時00分~18時00分
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 現場から見た京都府文化財保護条例施行後の文化財行政
発表者 田良島哲
研究会内容  第6回目の開催となる今回の研究会では、東京国立博物館の田良島哲氏が、自身の京都府勤務時代にかかわった文化財行政について報告をおこなった。当日の出席者は報告者を含め9名で、うち8人が研究班メンバーであった。
 京都府が文化財保護条例を制定したのは、1981(昭和56)年10月24日であった(京都府条例第27号。京都市も同年の10月29日に文化財保護条例を制定)。これは、国の文化財保護法(1950年)第182条にもとづくものであったが、京都府の制定は全国の都道府県で最後であった。
 報告者が京都府の指導部文化財保護課に勤務したのは、1985年4月から1991年3月の6年間であり、同氏は、同条例制定後の早い段階で京都府の文化財行政にかかわった。しかし京都府では同条例制定以前の段階からすでに文化財保護課が存在し、その前身は、1939(昭和14)年の宗教団体法制定をうけて寺院重宝調査をおこなった、京都府内務部社寺課までさかのぼることができるという。調査を率いた赤松俊秀は、戦後、京都府文化財保護課の初代課長となる。
 京都府の文化財保護条例は、文化財保護法や他府県・他自治体の文化財保護条例とはことなる、2点のユニークな特徴がある。ひとつは、指定文化財以外の文化財の「登録」制度を設けたこと、もうひとつは、「文化財環境保全地区」というカテゴリを設けたことである。報告では、報告者のかかわった具体的な案件にもとづいて、事業者(文化財の所有者)や国との折衝など、文化財保護課の業務が紹介された。また、報告者は1991年3月に文化庁に転身することになるが、同庁での勤務にも、京都府での経験や課題が多く活かされたという。
 田良島氏の報告のあと、比較のため小林丈広が京都市における文化財行政の職員配置の変遷を紹介した。その他にも、フロアから多数の質問が出され、活発な意見交換がおこなわれた。研究会後も7人が残り、懇談会を開催した。
開催日時 2016年10月16日 14時00分~17時
開催場所 同志社大学徳照館1階会議室
テーマ これまでの学問の歩み(仮題)
発表者 山本四郎
研究会内容  今回の研究会では元京都女子大学教授で近代政治史、近世医療史等、幅広くご研究をされてきた山本四郎氏を招き、聞き取り調査を行った。山本氏を除く出席者は10名で、うち8名が研究班メンバー、2名はオブザーバーとして参加した。
 まず氏のこれまでの研究の歩みをお話しいただいた。陸軍将校から、戦後一転して京大国史学科に入学、その後、百貨店・高等学校に勤務しながら精力的に研究を行い、奈良大学・京都女子大学・神戸女子大学などに奉職され、学生の指導にあたるとともに、大学の制度整備にも尽力された。そこでの様々な経験について熱く述べられた。
 その後、出席者からの質問に山本氏が答えるという形式で研究会は進められた。終戦直後の京都大学における公職追放前後の学内の状況、その頃の学生達の動向等を中心に質問が行われ、まさに当時、学生であった山本氏のご本人の所感や当時の見聞に基づいて回答があった。
 さらに、京都大学を公職追放となった西田直二郎氏との交流について質問が集中した。追放後も「流林会」等の西田氏を囲む会のあったこと、晩年の身辺の様子など詳しくお話しいただいた。
 他にも、本学の文化史学科の創設者石田一良氏との交流、唯物史観全盛期の学界におけるご自身の学問のあり方、終戦後の急激な価値観の変化に対する所感等、質問は多岐にわたったが、そのひとつひとつに記憶をたどりながら率直に回答していただいた。
 研究会後、場所を移し、発表者を囲んで懇談会を行った。懇談会出席者は8人。
開催日時 2016年9月18日 14時00分~18時
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 触文化研究の課題と展望 ―「無視角流」の極意を求めて―
発表者 広瀬浩二郎
研究会内容  第4回目となる今回の研究会では、国立民族学博物館の広瀬浩二郎氏をお招きして、氏のこれまでの研究の歩みをふりかえってご紹介いただくとともに、表題のテーマで、出版や博物館展示に関する氏の現在の問題関心についてご講演いただいた。広瀬氏を除く出席者は10名で、うち9名が研究班メンバー、1名はオブザーバーとして参加した。またオブザーバーのサポートとしてボランティア3人が同席した。
 氏のこれまでの研究の歩みとして、京大国史学に入学後、視覚に障害を持つ氏にとっては古文書を読むことが非常に困難であったことが、具体的に立体コピーの見本を参加者に回覧しながら紹介された。そして、古文書を「読めない不自由」から「読まない自由」に転換する方法論として、聞き取り調査などを積極的に活用し、歴史学としてはユニークともいえるアプローチで宗教民俗の分野に取り組んだことを述べられた。
 また、現在の職場に就職後、博物館運営の業務を通じた新たな氏の問題関心として、「見識」ではなく「触識」という新しい「有識者」像の模索について論じられた。①学習まんが『ルイ・ブライユ』表紙の触図が意味するもの、②「ユニバーサル・ミュージアム」とは何か、③兵庫県立美術館企画展「つなぐ×つつむ×つかむ」の意義、という3つの事例に沿って、豊富な資料を回覧しつつ、現場からの目線で取り組みの意義を語っていただいた。
 さらに、①「無視覚」の受容、②「無資格」の自覚、③「無死角」の発信、をキーワードに、現状の制度や社会意識のさまざまな問題を紹介していただくとともに、琵琶法師や瞽女といった盲目の僧や芸能者たちが創造・伝播した「聴き語り」の宇宙の可能性について論じていただいた。
 質疑応答及び懇談会では、博物館業務の現場、教育、歴史といった多角度からの関心にもとづいた、活発な意見交換がおこなわれた。
開催日時 2016年8月21日 14時00分~18時
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 聞き取りと今後の研究会の計画について
発表者 小林丈広など
研究会内容  研究会発足後第3回目となる今回の研究会では、これまでの聞き取り調査の成果を中心に、本研究会の前身となる昨年度までの京都歴史研究会で実施したものも含め、これまでの成果の報告と、今後の調査や研究会開催の計画について検討をおこなった。出席者は6名で、いずれも研究班メンバーであった。
 代表(小林丈広)が中心となり議論が進められ、まず、これまでの聞き取りのテープ起こしの進捗状況が報告された。このうち、参加メンバーに部分配付した赤井達郎氏聞き取り分の内容を、テキストを読みながら検討した。雪舟をめぐっての赤井と松本新八郎との論争など、あまり知られていない事柄でも、聞き取りによって明らかになることが多いことも確認された。
 つぎに、今後の聞き取り調査の対象について、出席者の意見を聞き、今後の日程調整を行った。また、研究会後オブザーバー数名が加わり、下鴨神社の境内地の歴史について懇談を行った。
開催日時 2016年7月17日 14時00分~18時
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 京都市政調査会の歩みを振りかえって
発表者 山添敏文
研究会内容  研究会発足後第2回目となる今回の研究会では、京都市役所において長い間行政に携わるなかで自治体史編纂や文化財行政に携わった山添敏文氏をゲストにお迎えし、お話を伺った。山添氏を除く出席者は10名で、いずれも研究班メンバーであった(山添氏を含めると計11名)。
 研究会冒頭で、代表(小林丈広)より山添氏の紹介があり、研究班メンバーが自己紹介をおこなった。つづけて、京都市歴史資料館に長く関わった西山氏の訃報が、学術誌に掲載されていることが代表より紹介された。
 山添氏には、「京都市政調査会の歩みを振りかえって〜市議会オール与党体制から、その終えんの時期にあって〜」というテーマで、約2時間にわたってご報告いただいた。同氏は、京都市労連の調査機関として1974年に発足した「京都市政調査会」に、同機関が独立した調査機関として再発足した1976年以降、事務局長としてその活動を1990年の退任まで牽引することになる(退任時の機関名称は「京都市市政調査研究会」)。
 報告では、同氏の視点からふりかえった同機関の歩みを、当事者でなければ語ることのできない知見をふんだんに盛り込みながらご紹介いただいた。なかでも、同氏の主たる問題意識として語られた、理論と現場性の問題、そして「中立な立場性からの自治体のシンクタンクは実現可能か」という問いかけは、単なるアカデミズムの枠にとらわれない歴史学の可能性を探る本共同研究会の関心領域とも重複する範囲が大きく、非常に示唆に富むものであった。また、戦後京都市の文化行政に携わった吏員たちや、同市の文化行政と深くかかわった歴史学者たち、さらに、『京都市政史』編纂事業立ち上げの経緯についての数々の貴重な証言を聞くことができた。
 報告終了後は、同機関の活動と時代性とのかかわりや京都市文化行政についての詳細な事実確認など、参加者と報告者との間で活発な質疑応答がおこなわれた。最後に、次回以降の開催日については、メンバー間でのメールのやりとり等で決定することとし、閉会した。
開催日時 2016年5月29日 13時30分~18時
開催場所 同志社大学徳照館201号室
テーマ 研究班の概要説明と『京都における歴史学の誕生』の書評
発表者 小田龍哉
研究会内容  研究会発足後初めての研究会ということで、まず代表(小林丈広)が研究会の趣旨説明とメンバー紹介、これまで任意で行ってきた京都歴史研究会との関係と今年度すでに取りかかっている作業の内容などについての説明を行い、今後の計画について話し合った(出席者は10名でいずれも研究班メンバー)。
 次に、これまでの研究成果であり、本研究会の土台となる『京都における歴史学の誕生』の書評会を実施し、そこにおける問題意識を共有すると同時に、残された課題について検討した。書評会は、小田龍哉が話題提供のための報告を担当した。報告は、同書の内容を丁寧に紹介しながらも、報告者の理論的枠組みも提示した興味深いものだった。それに対して、同書の執筆者の中で今回の研究会に出席した者が応答するという形で進められたが、執筆者以外からも、報告者の理論的枠組みに対する質問やそれぞれの立場から得られた知見による発言が有り、今後の研究会の進め方についても示唆を得た。
 そこで最後に、今後の研究会の進め方について議論がなされ、次回は京都市役所において長い間行政に携わる中で自治体史編纂や文化財行政に携わった方をゲストにお迎えする方向で交渉を進めることになった。