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第2研究 第二次大戦後日本の教育再建と日系キリスト教 研究代表者:吉田 亮(社会学部)
アメリカ日本人移民(日系人)教育文化史が戦後日本教育文化史にどのような影響を及ぼしたかを究明する。
アメリカ日本人移民(日系人)教育史において転換点となった「強制収容体験」が戦後日本の教育再建に及ぼした影響に特化した越境史研究である。「強制収容体験」はアメリカ社会全体にとって「民主主義」「自由」「公平性」「人種」の意味を問う重大事件であった。この体験に直接・間接に大きく関与した日本人、日系人、アメリカ人の中で、占領期日本の教育再建に直接関与した事例が多く存在する。戦争のために米国滞在を余儀なくされた日本人キリスト者エリート、日系人宗教者達、アメリカ人元日本宣教師や牧師他であり、彼(女)等がGHQの教育政策、キリスト教系大学の再編、反核・平和教育活動他に深く参画し、牽引した事例を研究する。その際、仏教系との比較の視点を入れる。
2021年度
開催日時 | 第8回研究会・2022年3月26日 13時00分~16時30分 |
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開催場所 | オンライン |
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研究会内容 | 「ヒロシマの家」プロジェクトに身を投じたエメリー・アンドリュース(Andy)牧師と流川教会の谷本清牧師に接点はあったのか ―Andy 牧師の滞日日記をよむ― ⾼⽊眞理⼦ 高木は、はじめに、⾕本清とF.シュモーの活動を分析し、次に、E.アンドリュー(アンディー)の⽇記から「ヒロシマの家」建築プロジェクトの詳細を明らかとした上で、⾕本とアンディー、シュモーの活動に、どのような接点や共通点、相違点があったかについて考察を行った。 吉田は、これまでのシュモー研究に谷本を重ねることにより、どのような変化が生まれたかについて尋ね、高木は、広島の持つ平和運動の強みを示すことが出来るかもしれないと答えた。竹本がピースセンターの具体的内容の説明を求めたのに対し、高木は、平和の研究機関、広島を平和都市のシンボルとすることなど、谷本が目指していたものとは異なった結果となったのではないかと回答した。これに対し竹本は、宗教宗派を超えて平和活動を目指していたと捉えれば、ピースセンターはある意味成功と言えるのではないかと伝えた。これらを受け吉田から、救援活動の延長線上にヒロシマの家プロジェクトが位置づくのではなく、谷本の存在により大きな特殊性が生まれたと考えられることが提示された。次に、吉田は郷戸に、シュモーとアンディーの連携した動きを踏まえ、クエーカーにとって被爆者はどのように位置づけられていたかを尋ねた。郷戸は、シュモーはクエーカーではラディカルと思われていた為、あまり表立って活動して欲しくないという動きがあったことを伝え、ハバフォード大学の資料調査の可能性を示した。さらに吉田は、GHQの見解がどうであったかを高木と池端に尋ね、高木は、メソジストの活動だけが突出することを良しとしていなかったことを、池端は、宗教の自由を掲げることで自ら縛られていた側面があり、葛藤が見受けられることを答えた。吉田は、アイグルハート、アンディー、シュモーの共通点は原爆に対する罪の意識にあるが、実際の活動は異なっている点を指摘し、Christian love、fellowshipなどが、当時のリベラルプロテスタントの特徴であると示した。高橋は、「広島」視点を意識することによって、本研究の特異性が出てくるのではないかと述べた。最後に吉田から、今後の研究会の方針として、国家間だけでなく地域間の差異にも注視しながら研究していく必要性が提言された。 オーテス・ケーリ(1921-2006)の思想と活動 〜太平洋戦争時および連合軍占領期を中心に 物部ひろみ 物部は、太平洋戦争中、ハワイ日本人捕虜収容所の所長として活躍した、同志社大学教授オーテス・ケーリ(1921-2006)の活動や思想について、主に戦前、戦中の経験に焦点を当てることにより、それらが、太平洋戦争期を通じ、どのような連続性をもっていたかについて考察を行った。 神田は、日米双方に愛着を持っていたケーリが、どのような戦争責任の認識を持っていたのか、ABCFM準宣教師となった背景には、どの組織の意向が反映していたかについて尋ねた。物部は、戦争責任について明記した資料がないこと、戦前からのアーモスト大学の取り決め(同志社で指導を行う在籍者の派遣時には、ABCFM準宣教師とする)に則ったものと考えられることを回答した。これを受け吉田から、ABCFMとアーモスト大学の濃密な関係が示され、ABCFM資料の調査が勧められた。次に竹本は、イエール大学修士論文で社会主義者の片山潜を選択した理由や、ケーリの思想を詳らかに出来る可能性から、修士論文の調査を勧め、同時に、東京より京都の方が、思想的に受け入れられやすいとケーリが考えていた可能性を示した。田中は、遺族が保存する資料の調査を勧めるとともに、同志社内の交友関係を調査することにより、思想の傾向が見えるのではないかと提言した。これを受け吉田からも、社会主義との関わり、片山潜選択理由が判明する可能性が伝えられた。物部は、ケーリ独自の日系二世との関係性に着目し、CIE所属時についても調査したいと述べた。これに対し竹本は、CIE資料において医学関連の記述は秘匿事項であるため、ケーリも詳細を記せなかったのではないかと推察した。田中は、ドナルド・キーンとの関係性の深度について尋ね、物部は、両者の関係性の認識に温度差があることを答えた。最後に吉田から、占領期を中心とした、さらなる研究が求められた。 |
開催日時 | 第7回研究会・2022年3月5日 13時00分~16時30分 |
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開催場所 | オンライン |
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研究会内容 | ダーリー・ダウンズと戦後改革 竹本英代 竹本は、戦後日本において、東京日本語学校をはじめとして宣教師の日本語学校の設立に重要な働きをしたのは、FMCNAの六人委員会の委員、そして内外協力会(CoC)やIBCの現地委員会のセクレタリーを担ったダーリー・ダウンズ(Darley Downs,1894-1969)であったこと、戦前の日語文化学校の校長であり、戦後の日本にFMCNAの宣教活動の方針を日本の状況と調整しながら日本語学校を再興していったことなどから、日米双方の資料からダウンズの活動内容を明らかにし、今後の研究への仮説を提示した。 吉田は、ユニオン神学校へ提出された修士論文の重要性を指摘し、アイグルハートが論文指導を行ったか否かについて尋ねた。これに対し竹本は、指導の有無は不明だが、アイグルハートの資料を用いていることを答えた。池端は、バンスが日本の宗教の自由について真摯に考えていたこと、教派へのこだわりが薄かったこと、バプテスト教徒であったという記述があったことなどを伝えた。これを受け吉田から、アイグルハートとの類似性が指摘された。竹本が、宗教法人法に関わったバンスについて追加説明を行い、吉田は、「松山」「ユニオン神学校」「ニューヨーク」などが、戦後の宣教政策を考察する際のキーワードとなる可能性を示唆した。さらに、ダウンズが同志社中学校時代に、パーマーのオーラルメソッド英語教育を導入していたことについての説明を求めたのに対し、竹本は、ダウンズ自身が日語学校において日本語をオーラルメソッドで学び、その有用性を実感していたこと、同志社中学校では当初オーラルメソッドは不人気だったが、学力優秀組を多数輩出したこと、能力別に分け、少人数教育を行っていたことなどを回答した。吉田から、フィリピンでもオーラルメソッドが用いられた可能性が指摘された。池端は、「GHQの人々」に収められているバンスのインタビュー記事を紹介した。最後に吉田から、修士論文の結論において「宣教師の復帰」について述べていることから、ダウンズが宣教師の引用や資質を重要視している点、それらを主体的に担おうとした理由、宣教への思い、自由とのつながりなどから、更なるダウンズ研究を進めることが求められた。 キリスト教史家・有賀鐵太郎とその界隈―敗戦直後を中心に 田中智子 田中は、京都大学大学文書館に預けられている有賀鐵太郎(1899~1977)の資料より、敗戦(1945.8.15)以後、約1年半の活動について、戦後同志社、アメリカ公人との関係、他校とのつながり、プロテスタント・キリスト教界、日常(文筆・講演・農村活動)、他宗教との親交などの視点から適宜紹介を行った。 はじめに吉田から、有賀がユニオン神学校に提出した博士論文題が問われ、田中は「キリスト教人格としてのオリゲネスの研究」であると答えた。これを受け吉田から、ハルナック研究へと展開していく必然性を覚えること、他と「つながる」という有賀の特徴が感じられることが伝えられた。次に池端から、有賀の信仰が、戦前からの連続性を保てた理由について問われ、当時の多くの日本人キリスト者と類似したものと受けとめていることを答えたのに対し、吉田から、内村鑑三の「ふたつのJ」のどこに力点を置くかが、特徴づけに繋がる可能性が示された。本多は、ハンフレーズの「佛教十二原理」に対する有賀の反応について質問し、記述も少ない為はっきりしないが、全肯定的ではないように感じられると回答した。続けて本多から、有賀と仏教界とのつながりは、宗派、教育、個人的つながり、どれによるものかが問われ、田中は、大学や農村活動を通じてのつながりが特徴的であると答えた。吉田は、哲学的研究が主流と思われる有賀が農村活動に関わるようになった理由について問い、戦時下の物資疎開体験の影響が考えられること、農村活動の主導は安東長義であったことを答えた。最後に吉田から、有賀の他宗教との関係を見るとき、自由、自主性、主体性などの視点において、従来のキリスト教観と異なる可能性が感じられることから、有賀の思想的背景やGHQとの関係などの調査も含め、更なる研究の継続が求められた。 |
開催日時 | 第6回研究会・2022年2月27日 13時00分~14時30分 |
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開催場所 | オンライン |
テーマ | アイグルハートの国境を超えたキリスト教理解と平和活動 ―教派、国家、西洋のキリスト教という枠組みからの自由 |
発表者 | 池端千賀子 |
研究会内容 | 池端は、チャールズ・ウィラー・アイグルハート(Charles Wheeler
Iglehart)の著作から、彼がキリスト教をどのように理解していたのか(母国アメリカのキリスト教に対してどれだけ距離を置いていたのか)を、特に「自由」の観点から考察し、それは占領期の他のGHQ関係者、他のアメリカ人キリスト者、日本人キリスト者とどのように類似・相違していたのかについて明らかにした。 吉田から調査予定資料の記事形態について問われ、池端は、リーフレット形態がほとんどであると回答した。郷戸は、アメリカFOR主要メンバーにクエーカーが多いことから、アイグルハートの宗教概念が他者と異なる点が表れているように感じた旨を伝えた。これを受け吉田から、①アイグルハートは、プロテスタントリベラルの中でもさらに左派的である為、戦時中のアイグルハートの所属組織を明らかにすること、②ニーバーとアイグルハートは戦時下において反戦を明確に提唱した重要人物であり、その思想がどのように変化していったかを確認すること、以上①②の様なアイグルハートのアプローチ方法を明らかにすることで、「自由」だけでなく「平和」視点による考察の可能性が示された。高木は、E・アンドリューズ(バプテスト)が1949年に来日した際、高良富子や鮎沢巌と交流があったことを伝え、自身の研究とつながったことを感謝した。池端から賀川豊彦を含めた今後の研究方針の可否について質問があり、吉田は、アイグルハートと、日本人が展開する「平和運動」との関わりからの調査を勧めた。さらに吉田から、アイグルハートの特徴として、アルミニウス主義のメソジスト教徒である点が興味深い。アングロ優越主義やナショナリズムにコミットしていく教派であるがゆえに、その中におけるアイグルハートの存在感について、また、いつから反メソジスト的言動を起こしていったのかについても明らかにして欲しいという提言がなされた。最後に、吉田から、アメリカFOR資料の中に、日本FOR資料が含まれている可能性が示され、郷戸から、ハバフォード大学所蔵資料へのURLが提示された。 |
開催日時 | 第5回研究会・2022年1月22日 13時00分~16時30分 |
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開催場所 | オンライン |
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研究会内容 | 越境的二世教育から国際的平和運動・仏教振興運動へ ―「自由仏教人」常光浩然の戦前と戦後― 高橋典史 高橋は、第二次世界大戦前の日系二世の越境教育(日本留学)や仏教青年会運動の展開において、中心的な役割を果たした常光浩然(つねみつ こうねん、1891-1973 年)の戦後の諸活動のうち、とくに国際的な平和運動および仏教振興運動への関与について考察を行った。 吉田は、常光を越境史に位置付ける必要性が示されたことを評価した。続いて「超宗派」が常光の越境性を示す重要な用語だと思うが、仏教に元々ある概念と同様か否かを尋ね、高橋は、特定宗派に依らないという仏教界既存の概念と同様であり、実際に活動した点が常光の特徴と考えていることを答えた。さらに吉田から、オーガナイザーとしての常光の資質が戦後に発揮されたが、戦前はどうであったかと問われ、戦前は用語や概念のみで、実際の活動はなかったと答えた。本多は、常光自身が「自由仏教人」と名乗っていたのか、実家の寺は最終的にどうなったかを尋ね、常光が自称した例は現時点で未確認だが、近しい人物たちは自称し、その中心は常光であると認識していたこと、実家の寺は、一度目の上京時に住職を譲ったが、現在も常光家により継がれており、常光の葬儀は東京と広島で二度行なわれたことを答えた。吉田から「自由仏教人」が組織されることはなかったことが確認され、高橋は神田寺の資料調査の可能性を示した。竹本は、常光は東洋大学でどのような倫理学・教育学を学んだのかを尋ね、高橋が、カリキュラムを確認すると回答したことを受け、竹本から、誰が教えていたかが重要であると助言がなされた。池端の、国の枠組みからの越境性を示す「自由」はあったかの質問に対し、高橋は、本発表で「自由」を一貫する意味で用いすぎた点を省み、戦前は開教師派遣地域をイメージしての越境、戦後は世界を意識しての越境(コスモポリタンではない)であったと答え、今後は「自由」の意味が拡張されていることを意識したいとした。これについて吉田から、「自由」の持つ意味が、膨張から国際協調へと変化した点を意識することの重要性が示された。根川から、仏教経典の「自由」概念の有無についてと、中山文化研究所に勤めた経緯について問われ、常光の周囲の記録を見る限り、仏教用語を意識したものではなく、当時の流行り言葉のインパクトを反映した概念と考えていること、中山文化研究所には富士川游とのつながりにより勤めたことを答えた。 第二回世界仏教徒会議:占領下における日本仏教の海外ネットワーク 本多彩 本多は、戦時中中断していた世界の仏教徒の連絡と提携、国際的仏教運動の高揚を目的とする世界仏教徒会議の第二回会議開催地に日本が決定した経緯、特に開催に向け積極的に働きかけた人物や組織の確認、実際の会議内容、開催後寄せられた評価から、第二次世界大戦が終結し、仏教徒としてのつながりを望む世界的な動きに日本仏教や日系仏教が参加の意思を示していたということを明らかにするとともに、垣根を超えて集まる仏教徒について考察を行った。 吉田は、越境史における第二回世界仏教徒会議の重要性や、当時の日本の仏教徒の力が示されたことを評価し、一回目と二回目の会議の違いや連続性について質問した。本多は、一回目がスリランカ開催の理由について調査を行うこと、会議の基本方針が変わっていない点に連続性を見ていることを答えた。高橋が、常光が設立した仏教伝道協会と現在の協会とのつながりについて尋ねたのに対し、今後調査すると回答。さらに高橋は、小谷兄弟を例に挙げ、会議とGHQとの関係について質問した。本多は、仏教界において、仏教を理解し、複数言語で表現できる人材の少なさを考慮すると、同一人物が会議記録とGHQ資料に重複登場することは考えられると答え、来賓者名簿から、会議の背景に政治的動きがあることも推察できるとした。吉田は、1947年以降、日本の宗教界で重要キーワードであった「平和」が会議でもクローズアップされていることを指摘し、会議後の仏教界で展開されたか否か、また、共産主義に対してはどうであったかを尋ねた。本多は、今後の課題とすることと、各宗派内では平和を試行する動きが起きていたことを答えた。吉田から外務省資料やジャパン・タイムスの調査が勧められ、高橋からは、自由仏教人系、革新系、仏教社会主義系を横断する勉強会などへの調査の必要性が挙げられた。郷戸は、会議内やIBA内のアジアに対する加害者意識や自己反省の有無について問い、本多は、会議が日本評価好転の一端を担えたこと、IBAは蚊帳の外に置かれた感があることを答えた。吉田から、仏教界の戦責に関する資料を発見した場合の情報共有が求められた。竹本が、会議開催時期が朝鮮戦争の最中であることから、常光は朝鮮戦争に関する決議に関わっていたかを尋ねたのに対し、本多は、主体的には関わっていないと推察していること、会議後の仏教界において決議案の具体的展開がなかったと回答した。吉田から、会議の影響などを客観的にはかり、どのように位置付けることが可能かについて、さらに研究を深めることが求められた。 |
開催日時 | 第4回研究会・2021年12月18日 13時00分~16時30分 |
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開催場所 | オンライン |
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研究会内容 | 戦後日本におけるフレンド派の役割―宣教師エスターB.ローズとその周縁の人々の活動について― 郷戸夏子 郷戸は、平和主義を掲げるフレンド派がどのように戦後⽇本の再建に関わったか、日米両政府にとってのフレンド派とはどのようなものであったかを明らかにすることを目的とし、本報告では、戦後⽇本で展開した平和運動、救援活動としての国際学⽣セミナー(International Students Seminar)の計画と実施について明らかにした。 吉田から基礎的事項に関する質問〔①開催回数→19回、②参加学生の詳細→調査中、③財源→大半はAFSC、④フレンド派でのセミナー形式の平和教育は戦後が初めてか?→初の試みかは不明だが、リトリートにセミナー形式の雛形があるかもしれない。〕がなされた。次に池端が宣教思想について情報補足を求めたのに対し、積極的に宣教活動を行わないという特徴を答えた。根川は史料のオンラインアクセス可否、澤田節蔵の登場有無、セミナー参加学生の詳細について質問し、郷戸は、参加者のうち5名は外務省から参加を促された者たちであり、外交官養成の機会としてセミナーが用いられていたのではないかと推察した。史料はannual reportのみオンラインアクセス可、澤田の名前は頻繁に登場することを答えた。松盛は、アジア留学生が多数参加していたという記録が特徴的だが、特に中国人の参加状況についてと、学生たちがディスカッションで用いるpeaceの意味について尋ねた。これを受け吉田から、クエーカーが共産主義や平和をどのように捉えていたかを明らかにするべきとの提言がなされた。田中は、フレンド派の活動は関東中心の人脈、エキュメニカルな営みであると強く感じられると述べ、郷戸もこれに同意し、広島の活動例は、東京ネットワークとは別枠の特異例であることを付け加えた。吉田からも、カトリックやノンクリスチャンの参加を歓迎希望している点が非常にエキュメニカルであると指摘がなされた。竹本から、セミナーでの使用言語が問われ、英語であると回答。大森から、セミナーの内容やテーマもアジアを想定していたのかと問われ、参加者の視点をorientへ向け、価値変換が試みられていたと回答。吉田は、フレンド派がアジア平和の重要性と、それを担う日本人リーダーの育成を目指していたことが窺われると指摘した。最後に竹本から、日本の女性平和活動の歴史とフレンド派の活動をクロスすることにより、特異性を明らかにできるのではないかと提言が行われた。 戦後海外移民再開と人口問題審議会―澤田節蔵の思想と行動をめぐって― 根川幸男 根川は、戦後移民事業への人口問題審議会の関与を詳らかにすることを目的とし、1920年代アメリカで駐米参事官、30年代ブラジルで駐伯大使として過ごし、両国での排日問題の解決と移民事業継続に努力した澤田節蔵(1884~1976)のライフヒストリー・思想・信仰・活動を史資料から明らかにし、澤田が戦後移民の再開と発展にどのように関与し、どのような意味を与えたのかについて考察を行った。 はじめに、吉田から『ニューヨークタイムズ』『新世界』『ジャパンタイムズ』等の調査が提言された。郷戸からはフレンド派会員名簿の画面共有が行われ、澤田がクエーカーであったエビデンスが示された。林が移民、産児制限、優生思想、神谷美恵子などに関し、澤田兄弟の間に確執があったか否かについて問うたのに対し、根川は今後の課題としたいと回答した。この質疑応答を受け吉田から、人工中絶に対するキリスト教の教義的・教派的特徴の違いが示された。松盛からは、マーガレット・サンガーの来日後、日本での産児制限が盛り上がりを見せ、国際家族計画連盟の動きが活発化するなかで、澤田が強く反発したのではないかと推察し、国際家族計画連盟と澤田の言動との関連を調査することの可能性を示唆した。松盛の提言を受け吉田から、排日移民法は優生学の影響を受けたものであり、それを目の当たりにしてきたことが、澤田の言動へ影響を与えた可能性についての調査が勧められた。さらに池端から、マーガレット・サンガーの主張では、避妊と人工妊娠中絶は分けて考えられていたが、澤田の場合はどうであったかを問われた。また、吉田から、澤田の内面において、教育事業と移民事業がどのようにリンクしているかに関する調査も提言された。最後に林から、家族計画に関する資料紹介が行われた。 |
開催日時 | 第3回研究会・2021年11月27日 13時00分~14時30分 |
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開催場所 | オンライン |
テーマ | 戦後京都におけるカトリックの教育活動 ―メリノール宣教師の活動に注目して― |
発表者 | 大森万理子 |
研究会内容 | 大森は、戦後(1945〜1962年)の京都知牧区(1951年に司教区)を中心に活動したメリノール宣教会・女子修道会に注目し、(1) 戦後におけるカトリックによる教育活動の概観、(2)
宣教師J・C・マレット(John C. Murrett)と京都大学・旧制第三高等学校の学生との関係性の中で、宣教師が宣教活動における「民主主義」をどのように捉えられていたかに関する検討、(3)
京都司教区のカトリック初等・中等教育機関の当事者が日本におけるカトリック教育のあり方についてどのように認識していたかについて明らかにした。 高橋は研究の今後の方向性についてと、カトリックと他宗教他教派との連携の有無について質問した。大森は、今後は初等中等教育機関に注目し、戦後の道徳教育との関連を視野に研究を進める可能性があること、宗教間連携に関する記事は少なく、メリノールはあまり連携を意識していなかったと思われると答えた。吉田からは、ボトムアップ視点による京都の事例研究と、日本人側宣教師側双方向からの連携事例の研究を進めてほしいと提言がなされた。田中は、京都大学の鳥飼文書の可能性を示唆し、マレット招聘の詳細についてと、カトリックの反共理念に関する所見を求めた。大森は、招聘の経緯は今後調査したいと応答し、反共については、神父から共産党員への働きかけの事例紹介を行った。吉田はこれを受け、メリノールの日本宣教政策の大きな枠組みの分析を求めると同時に、在米日本人伝道の位置付けについて尋ねた。大森は在米日本人と日本国内の伝道開始時期は重なっており、同時進行ではないかと回答した。石村は、プロテスタント子女への特別教育はあったかという吉田の質問に対し、神戸女学院ではなかったと答えた。これを受け吉田は、プロテスタントと比較して、カトリックは慈善性が高いように感じると指摘した。郷戸は、日本伝道開始時の他教派からの協力の有無と、メリノールが多くの戦後支援物資を集められた要因について尋ねた。大森は、協力については今後確認することと、在米日本人伝道の際の人脈により、多くの支援が可能だったのではないかと回答した。さらに郷戸から、寮建設資金も在米日本人によるものかと問われ、大森は、シアトルとニューヨークの違いから異なるだろうと推察した。高木から、チベサに関する問いがなされたことを受け、吉田はフェルセッカーを例に挙げ、強制収容所での伝道経験を持つ宣教師たちの、戦後日本の宣教・教育政策への影響を調査する可能性や、日本側資料を調査する必要性について提言を行った。 |
開催日時 | 第2回研究会・2021年10月23日 13時00分~16時30分 |
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開催場所 | オンライン |
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研究会内容 | 第二次世界大戦後の同志社の教育復興 ―牧野虎次と湯浅八郎とR.I.シーベリー― 神田朋美 神田は、第二次世界大戦終結後における同志社の教育復興の姿や特異性を明らかにすることを目的とし、占領期(1945-52年)の同志社総長であった第11代総長・牧野虎次(1941年7月-1947年3月)、第12代総長・湯浅八郎(1947年4月-1950年6月)の占領軍関連組織とのつながりや活動を概観した後、湯浅総長時代の同志社教育顧問R.I.シーベリーの同志社における具体的な働きについて明らかにした。 田中は、湯浅が掲げた4つの主義(民主主義、自由主義、平和主義、国際精神)の意味するところは、戦後日本に多く見られたものと同様か否かを尋ね、神田は、湯浅の独自性を含んでいると思われるが、それを裏付ける当時の資料を調査すると答えた。これに対し吉田から、民主主義については、特によく確認するよう指示がなされた。池端千賀子は、1920年代アメリカのフリーメソジストにおいても、同志社は話題に取り上げられていたとの情報提供をおこなった。竹本英代は、同志社の教育復興の特異性とはどのような結果を見越したものかと尋ね、神田は、アメリカン・ボードやCIEからの関与の実態を明らかにすることにより、他のキリスト教主義大学との違いが明確になることを望んでいると答えた。郷戸夏子から、ICU以外のキリスト教主義大学に対するアメリカからの寄附の実態について問われ、神田は組合教会での対応例を挙げた。松盛美紀子は、明治学院大学と同志社の違いは、神学部があるか否かが大きく関係しているのではないかと述べた。また、竹本から「宗教教育」「ユネスコ」などのキーワード提示を受け、神田は、現時点で考える研究の方向性について述べ、吉田からは、占領期における宗教教育ブームについて、ユネスコと湯浅について考察することの意義についてなどの助言がなされた。次に本多彩は、同志社の総長選出プロセスについてと、占領期の同志社では、キリスト教以外の宗教の講義は行われていたのか否かについて質問した。神田は、牧野から湯浅への総長交代はスムーズであり、この際は、理事会や校友の意向により決定したと答えた。また、キリスト教以外の講義の有無については確認すると回答した。最後に吉田から、本質疑応答で挙がった課題やコメントに応答するかたちで取り組みながら、さらなる調査分析を続けるよう提言がなされた。 キリスト教主義女子学校の戦後教育再建 ―神戸女学院とC.B.デフォレストを事例として、1945年~1948年― 石村真紀 石村は、太平洋戦争時の日系人強制収容に大きく関与したアメリカ人のうち、占領期日本の教育再建にも直接関与した事例として、神戸女学院第5代院長であり、ABCFM(American Board of Commissioners for Foreign Missions)派遣宣教師のC・B・デフォレストを取り上げる。本報告では、デフォレストの著書The History of Kobe Collegeなどを用い、1945年から1948年までの神戸女学院とABCFM、KCC (Kobe College Corporation)、進駐軍神戸ベースとの関係や実情について明らかにした。 田中は、神戸女学院は新制女子大学設立運動の中でどのような位置付けであったか、L・ホームズ以外の宣教師たちの働きの記録はあるか、新制大学設立時にCIEの関与はあったかについて尋ねた。石村は、新制女子大学設立運動の中心は在東京の女子大学であり、神戸女学院の登場は遅い。ホームズ以外の宣教師の記録やCIEからの関与については、The History of Kobe Collegeに記述はないと回答した。吉田は、新制女子大学設立運動全体における神戸女学院の位置付けをどう見るかは、重要な課題であると付け加えた。池端は、神戸女学院ではベアテ・S・ゴードンやGHQの女性らと関わりはあったかと質問し、デフォルトの著書には具体的な名前は出ていないと答えた。池端の質問を受け、吉田から、CIE資料等に登場する女性宣教師を広く注視するよう提言があった。林は、兵庫県下の高校では、軍政部から男女共学化を強く推し進められていた資料が存在するが、神戸女学院への圧力はなかったのかと尋ねた。石村は、強要されたような記述はなかったと応じ、林は更に、女子の学校を残すことの意義が認められるまでの議論の記録はあるかと質問を重ねた。石村は、現時点ではそのような記録は見つかっていないが、男女共学推進は日本側の見解である、ということをデフォレストが記していたと答えた。次に吉田から、女子教育にフォーカスすることを念頭に研究を進めるよう助言があった。竹本から、ホームズはABCFMの関係者かと問われ、石村は、関係者ではないこと、ホームズの友人、S・フィールドの紹介で神戸女学院とつながりが出来たことを伝えた。吉田からは、ABCFM資料の探索が勧められた。次に、根川の、デフォレスト著書の想定読者は誰だったのか、在米資産とは具体的に何かという二つの質問に対し、石村は、想定した読者はアメリカ国内の神戸女学院支援者と思われること、在米資産は主として金融資産と推定していることを伝えた。最後に吉田から、本質疑応答で挙がった課題の解消とともに、畠中博に関し、さらなる調査分析を試みるべきであると提言がなされた。 |
開催日時 | 第1回研究会・2021年9月25日 13時00分~16時00分 |
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開催場所 | オンライン |
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研究会内容 | 占領期日本の大学改革と松本亨 松盛美紀子 英語教育者として著名な松本亨は、戦後、アメリカ改革派教会の宣教師として日本に派遣され、日本の戦後復興、特に日本の教育再建に尽力した。松盛は、松本が日本に派遣される以前に執筆した学位論文や明治学院派遣後に執筆した論文の内容から以下の4つのキーワードを通して、松本が思い描く戦後日本の大学像について明らかにした。①民主主義教育(権威主義的教育の廃止、授業運営方法やカリキュラムの改革)、②個人(個人の自覚と責任の発達を促す個人教育は、社会教育につながる)、③宗教教育(キリスト教主義に基づく教育こそが、日本の社会改革、思想改良の一助となる。教育を担う人材はキリスト者でなければならない)、④財源(人件費、設備費などの安定した財源確保の重要性、公共基金により学校の自由が侵されることはあってはならない)。 池端千賀子は、松本のキリスト教理解とはどのようなものかと尋ね、松盛は、民主主義とキリスト教をセットで捉えている印象があり、共産主義的思想を抑制するためにキリスト教が必要と考えていたように思うと答えた。これに対し吉田は、どのようなキリスト教理解を持っているかは宗教教育の核心部分であり、松本は人間イエスという見方が強いように思う。読者が異なることで、論文内の言葉にも違いが表れるが、松本がプロテスタントリベラルであったことは、戦後のアメリカ改革派教会と共通していると補足した。次に竹本英代は、松本はアメリカのコミュニティカレッジをどう捉えていたのかについて補足説明を求めた。松本は地域社会への還元例として考えていたようだという松盛の応答を受け、竹本から、コミュニティカレッジは地域に根ざしているからこそ公共資金で成り立つところが多い為、宗教性は排除されている。にもかかわらず松本がキリスト教教育を掲げている点にアンバランスさを覚えると指摘し、吉田からは、より深い調査が促された。田中智子は、松本の教育改革構想の射程が中等教育を含むのではないかについてと、寄附金の具体的説明を求めた。松盛は、松本の教育改革の射程は徐々に中等教育以上に変化していること、寄附金は個人の寄附を念頭に置いていると答えた。これに吉田から、当時の高等教育機関に対する社会認識の説明の必要性が指摘され、続いて、明治学院大学内のミッションからの寄付金の割合と、それを松本はどう受け止めていたのかについて問われた。松盛は、ミッションからの寄付金は財源の2割以下であったこと、松本はミッションからの寄附を良く思っていなかったと応答した。根川幸男は、松本の用いた「自由」はfreedomかlibertyかと尋ね、松本はfreedomを用いたと回答した。吉田から、アメリカでは南北戦争以降freedomの使用が主流となり、アメリカ文化が移植された日本においても同様の傾向であることが示され、今後libertyを用いた例が出てくるかについても注視するべきと提言がなされた。 北米外国伝道会議による戦後日本の再建、1945~1947 ―日本基督教団の自主性を中心にー 吉田亮 アメリカプロテスタントによる戦時下日系アメリカ人再定住・統合活動と戦後期日本プロテスタント再建活動との影響関係について、吉田は「自主性」をキーワードとして、アメリカプロテスタントは戦後の反人種主義・反帝国主義実践として、脱パターナリズム、被伝道者の人権・自主性の最重要視、公平・公正性の保障、民主主義の徹底、協力推進という日系人の統合事業が提起した課題を日本伝道再開という具体的な実践の中でどのように克服したのかについて、FMCNA報告書や「キリスト新聞」など日米双方の資料から、1945年~1947年の実態について明らかにした。 林葉子は、日本基督教団が持っていた警戒感とは、具体的な言動(日本国内における差別や暴動など)に対してであったのか、教義的なものに対してであったのかを尋ねた。これに対し吉田は、具体的な記述はなく、精神的側面(自由・自治教会の建設、自主運営の継続)において、警戒感と不安感を強めていたと回答した。池端千賀子は、富田満がアメリカプロテスタントに対して用いた「宣撫的」という言葉は、日本のキリスト教界がアジアにおいて行ってきたことをこそ指すと思うが、日本側リーダーたちの、立場への執着の表出ではないのか?と尋ねたのに対し、吉田は戦時下の日本プロテスタントの行動を「宣撫的」であることに同意を示し、リーダーたちの既得権益保守、新旧交代への不安感もあったと回答した。根川幸男は、日本側の不安は、アメリカミッションを受け入れた結果どうなったのか?と尋ね、吉田は本報告段階では結論は表れていないと回答した。次に竹本英代が、レジュメ中「内外協力会は教団の自主性確保に貢献しなかった可能性がある(Interboard Committee for Christian Work in Japan, November 2, 1949 )」の意図について尋ね、吉田は、裏付ける資料が今後出てくる可能性を示していると回答した。また、日米双方の資料を突き合わせることにより、両者の緊張関係が良く分かった。1947年5月にGHQが宣教師の入国を緩和したこと、D.ダウンズが主事に選ばれたことからも、アメリカ側が非常に良く日本側を観察していたと感じると感想を述べた。これに吉田は、FMCNAが「日米間の調整屋」となれる人材を求めていたことが、ダウンズの起用からも分かる。日米共同の様々な組織を作ることで、日本側の意思を縛っていくやり方が非常に巧妙であり、異文化コミュニケーションのノウハウの蓄積を感じると応答した。最後に高橋典史から、本プロジェクトは相互参照性の高いプロジェクトとなる可能性を感じるということ、「宗教教育」という概念の整理や共有化も必要になってくるのではないかという提言があった。この提言を受け吉田は、我々は共同研究の醍醐味を味わおうとしている。本年度最後の日には1年間の総括をし、来年度以降、より具体的な研究成果へつなげていこうと述べた。 |
2020年度
開催日時 | 第8回研究会・2021年3月20日 13時00分~16時30分 |
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開催場所 | オンライン |
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研究会内容 | 戦後日本における日本語学校の創設 竹本英代(福岡教育大学) 本研究の目的は、戦後、日本国内で外国人に向けて最初に設立された東京日本語学校の設立経緯を、北米外国伝道協議会(FMCNA)、インターボード連合会(IBC)、GHQ/SCAP、宣教師などから明らかにする。本報告では、使用した資料の紹介、用語説明、戦後の日本における日本語学校の設立経緯として昭和20年から28年までの流れを追った。FMCNAの日本委員会(JM)は昭和25年までの3年間で500名の宣教師を日本に送り、六人委員会(CS)に日本語学校の場所を選定させ、宣教師の日本語学習はイエール大学かバークレー大学で一年目に学んだ後に京都で学ぶ方針を立てていた。しかし、CSは昭和23年に東京日本語学校を設立させ、当初の方針と異なった対応をした。朝鮮戦争が勃発したことにより、朝鮮や中国から宣教師が逃亡してくる状況になり、IBCは京都日本語学校を開校するだけではなく東京日本語学校にも支援を行なった。また、今回の研究により、アメリカンボードの宣教師ダーリー・ダウンズとA. E. グインの働きが大きいことが明らかになった。 質疑応答において、吉田亮は竹本が今回の報告に向けて資料を非常に丁寧に見てきたことを讃えた。そこで、今回の報告内容を基礎として、戦後の民主化や国際化に向けて再構築に携わったダウンズとグインを掘り下げて個人史として発展できるか打診した。それについて竹本は、アメリカの大学と同志社に史料があるならばしたいという意思を示した。林葉子は、廃娼運動の中心人物であった松宮弥平・一也の日本語教育への姿勢と廃娼運動がどのように思想的に関係しているのか、竹本に尋ねた。竹本もその点にについて関心を寄せており、弥平が辿り着いた群馬県では廃娼運動が盛んであり、弥平は廃娼運動も日本語教育もキリスト者として熱心に向き合っていたと回答した。田中智子は、中国語学校の華文学校とペータスがどのように関係したのかを尋ね、竹本は戦前の日本の宣教師団が華文学校の情報を得ていたと説明した。根川幸男は、CSがなぜ京都に日本語学校を設立するよう主張したのかという質問と、漢字の表記と漢字の常用漢字表作成など戦後の国語改革のなかでの意味づけについて尋ねた。竹本は、京都が選定された理由については、東京が戦争の被害が大きかったためと説明し、戦後の国語改革や日本語教育のなかでの位置づけについては今後の課題と述べた。 GHQの宗教政策とアイグルハート―GHQの組織とその宗教政策を中心に 池端千賀子 チャールズ・ウィラー・アイグルハート(Charles Wheeler Iglehart)は、アメリカ人メソジスト宣教師で日本におけるプロテストタント宣教のリーダーとして知られており、戦前から宣教及び進学教育活動に従事し、戦中はニューヨークで強制収容されていた日本人の救済に尽力した人物である。本研究は、占領下日本(1945-52)において、アイグルハートがどのように民主化を含む広い概念としての教育再建に関わる政策策定及び実施家庭に関与し、どのような役割を果たしたのか探る。本発表は、前回の発表で浮き彫りになった課題のいくつかについて答える形進捗状況を報告した。 池端は、以下の5点(1). 具体的に使用した資料の提示、(2). 民間情報教育局(CI&E)が属するGHQの組織構造の説明、(3). GHQにおけるキリスト教に係る政策決定と実務を行う部局の明示、(4). 他のGHQ関係者[マッカーサー、バンス、ウッダード等]の中でのアイグルハートの位置づけの明示、(5). アイグルハートとGHQ/FMCNAの関係に関する資料を提示し、それぞれの一部を明らかにした。 吉田亮は、今回の報告内容によって池端の研究がさらに明晰になったと称賛したうえで、アイグルハートがどのように日本の宗教を理解し、「信教の自由」にある「自由」の概念をどのように捉えていたのかを探り、実践に伴う彼の理念やGHQとの関わりを掘り下げるとさらに興味深い研究になるであろうと提案した。そのためには、池端が挙げたGHQ資料の公式のものに加えて、資料等公式のものに加えて、彼の個人的な史料があるか探ることを指示した。田中智子は、都田恒太郎が1940年代戦時期に東アジア伝統に関係していた事実を示した。郷戸夏子は、フレンド派の人々がなぜ小崎道雄が戦後教団のリーダーになったことを歓迎したのかを尋ね、吉田は小崎が戦前からのクリスチャンフェローシップ代表団の1人であったことを理由の一つに挙げた。竹本英代は、日本語関係やアメリカンスクールの再建に登場するダーギンについて、どのように池端の研究において登場するのか興味を示した。根川幸男は、アイグルハートが教育・宗教に関する連合国軍司令官顧問としてどれほど連合軍に影響力があったのか質問した。池端はジョージ・アチソンほど影響力があったとは思えないが、日本とアメリカの中立性を保ちながら日米の架け橋的存在になったと考えていることと答え、吉田は宣教のためには中立であることが必要だったのではないかと加えた。 以上で、2020年度の研究会において全ての報告を無事終了することができた。本年度より初めてのオンラインで研究会を開催することになったが、遠方の参加者もいるため今後もオンライン形式でする意向を吉田は示した。2021年度は、春学期の間に参加者に研究を進めていただいて、秋学期より開催する例会にて報告が始めることが告知された。 |
開催日時 | 第7回研究会・2021年3月6日 13時00分~16時00分 |
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開催場所 | オンライン |
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発表者 |
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研究会内容 | 二世教育から国際的仏教運動へ ―常光浩然の戦前と戦後 高橋典史(東洋大学) 本研究は、宗派を超えて二世の越境教育(日本留学)を推進し、仏教青年会運動の展開において中心的な役割を果たした常光浩然(つねみつこうねん、1891-1973)の戦後の諸活動のうち、特に国際的な平和活動への関与について考察を試みた。本研究の目的は、仏教者による日本の敗戦や仏教界の戦争責任の対応例として捉え、その背景にキリスト教の拡大への焦燥があったかどうかも視野に入れつつ、さらに複数の分野でしばしば言及されるもこれまで焦点を当てられることが少なかった常光の人物像を探った。 質疑応答では、様々な意見や質問が寄せられた。池端千賀子は、プリンストン大学神学校で博士号を取得し、タイで伝道を行ったキリスト教牧師の小山昇佑を例に挙げ、キリスト教でもアジア派がいたことを示した。本多彩は、仏教においての「超宗派」という意味について、思想的か、組織運営的か、思想的であれば原始的仏教に立ち返るということなのか、また超宗派の動きはいつ始まったのか質問した。それについて高橋典史は、諸宗派の「合同」組織運営を行っていたと考えているが、正確に調べることを課題とした。吉田亮は、この動きをキリスト教で言う「教派協力」ではないかと示唆した。次に、常光浩然とGHQと関わりについて尋ねた吉田亮の質問について、高橋典史は現時点では確認できていないと述べた。吉田亮は、常光浩然がキリスト教の動向を追っているのでGHQとの距離の保ち方や関係について調べてみることを提案した。池端千賀子は、当時GHQは政教分離のためキリスト教を支援するということはなかったが、仏教はどうだったのか尋ねた。本多彩は当時発行されていた雑誌『仏教思潮』からGHQと仏教者が定期的に懇談を行っていたことが確認とれるとし、高橋典史はこの点についても調査することが課題となった。田中智子は、常光は政財界や軍人とどれだけ関係を持っていたのか尋ね、高橋典史は、常光浩然は仏教界だけでなく財政界や皇族の要人たちとのネットワークを有しており、その平和運動は「草の根」ではなく、政財界からの支援も受けたものであったと回答した。吉田亮は常光浩然の後援者についても調査することを促しつつ、彼の活動を追う本研究は広島が平和運動の中心地になる過程を見せてくれると、高橋典史の今後の研究に期待を大きく寄せた。 仏教界の戦後 ―本願寺とBCAそして二世仏教徒 本多彩(兵庫大学) 戦時転住局によると、収容された日本人と日系人のうち55%が仏教徒であったとされ、そのなかでも浄土真宗本願寺派(通称、西本願寺派)が北米で最も勢力が大きいとされている。北米の西本願寺派は、1944年にBuddhist Mission of North America (BMNA)からBuddhist Churches of America (BCA)に組織名を改めた。本報告の目的は、以下の3点であった。第一に、BCAとシアトル仏教会の第二次世界大戦後の10年の動きを概観した。第二に、各仏教会が運営する日曜学校や仏教青年会の動きを追うことで、日米双方が若い日系仏教徒に期待していた状況を明らかにした。第三に、日本で発行された仏教雑誌で頻繁に論じられたアメリカの仏教の可能性についての論考を一部紹介しながら、これからのアメリカ仏教(American Buddhism)を考察した。 国際仏教協会International Buddhist Association (IBA)について、高橋典史はその義援金の送金先や運営資金元が誰なのかを尋ね、本多はIBAのネットワークの拡大過程を見るためにその資金集めの声がけを追うことを今後の課題とした。その資料に関して、吉田はThe Japan Timesを見ることを奨めた。BCAのアメリカ化が白人以外の人種への影響と、日系仏教が黒人に対する人種差別を議論していたのかという林葉子の質問に対し、白人への伝道はあったものの、他の有色人種への接近も人種差別についての議論も現在のところ見当たらないと本多は答えた。それについて、その人種のニュアンスが変わると意味が変わる点について吉田は念を押した。神田朋美は、小乗仏教と上座部仏教の用語の意味を確認し、また、アメリカで上座部仏教と大乗仏教の協力は成功できるのかを尋ねた。それについて高橋は、戒律が厳しい大乗仏教と上座部仏教が合同で事を共にすることは難しいのではないか尋ね、基本的な経典などの共通項の確認を促した。池端千賀子も、異なる宗派の仏教の協力関係はキリスト教以上に教理の共有が難しいのか尋ねた。それについて、本多は、日本仏教の特性である宗派について述べた。今回の報告について、吉田亮は高橋典史による報告内容と比較しながら次のように言及した。高橋の研究対象である常光浩然は、仏教会の国際化を戦後の生き残るための道筋としたのに対し、本多の対象は本願寺派を緩やかにアメリカに土着化させた。さらに、松盛美紀子の研究対象である松本亨の戦後復興への従事を合わせることで、日本人と日系人の事例として扱うことができると期待を寄せた。 |
開催日時 | 第6回研究会・2021年1月16日 13時00分~17時00分 |
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開催場所 | オンライン |
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研究会内容 | ユリシーズ・グラント・マーフィーと日本 ―名古屋とシアトルにおける活動を中心に― 林葉子(同志社大学) 「自由廃業の父」と呼ばれたユリシーズ・グラント・マーフィーは「日系人の父」とも呼ばれていたにも拘らず、彼と日系アメリカ人との関係についてはこれまであまり研究されてこなかった。そのため、本研究は、彼が亡くなる7ヶ月前に書き終えた自伝My Ninety-Seven Controversial Yearsを用いながら、シアトルを拠点に彼が日系人たちとどのような関係を築き、なぜ日本と深く関わりを持ったのかを明らかにした。この自伝からわかった彼の生涯を丁寧に辿りながら、日系人や日本との関係、マーフィーの主張や考えと、報告者の考察が述べられた。 質疑応答では以下のコメントなどが寄せられた。高木(北山)真理子は、シアトルの古屋商店は有名であったため、シアトルの日系人社会を知るために古屋政次郎についての書籍を林に薦めた。神田朋美は、マーフィーは庶民的な人物であることが窺え、賀川豊彦に影響を与えていたのか質問した。池端千賀子は、マーフィーの記述に自由メソジストの河辺貞吉について書かれていないか尋ねた。根川幸男は、1950年代マーフィーに資金援助を行ったリバティ船の元船長、加藤が日本人をニューギニアに移民として送り出そうと計画していたことについて、なぜニューギニアだったのか質問した。吉田亮は、教派の考えに合致していないような内部対立が窺えることを示し、それを実証できる資料があるか確認することを林に促した。最後に、マーフィーは多人種混合(multiracial)の教会を理想としていたのではないかという林の見解について、より深く調査するように吉田は助言した。 戦後日本の民主教育について ―松本亨の博士論文を中心に(2) 松盛美紀子(同志社大学) 本報告は、戦後に日本の教育再建に尽力した松本亨が、アメリカ改革派教会の宣教師として日本に派遣される以前に執筆した学位論文の前半から、戦後日本の社会と大学教育について明らかにし、松本がアメリカ改革派教会から派遣された真意を探ることを目的とした。まず、松本のコロンビア大学教育大学院に進学した目的、彼の在学中に奨学金を支給したエドワード・W・ハーゼン財団についての説明がなされた。その後、彼の博士論文から解釈できた日本社会の変化、共産主義拡大阻止としてのキリスト教の役割、当時の教育現場、当時の大学生と共産主義との関係、明治学院から明治学院大学への移行について報告された。 質疑応答では以下のコメントや質問が寄せられた。田中智子は、松本が博士論文で「大学」という言葉を使う際、それが明治学院を指しているのか、それとも国立大学を含めた日本の大学全体を指しているのか精査するよう松盛に提案した。松本がコロンビア大学の博士課程に進学したのは1947年9月で、博士論文の受理は1949年8月9日であることから、論文執筆の開始時期や論文執筆に必要な史料の入手方法、さらに日本の大学生の状況をどのように把握し得たのかについて明確にしたほうがよいことも告げた。吉田亮は、松本亨の博士論文の内容から、松本は占領期の日本において、アメリカ人宣教師ができなかった役割を代わりに果たしており、外国伝道協会の方針にしっかり則していたことが窺えた。郷戸夏子は、同志社の新島襄が掲げていた理念と松本の考えとの共通点を指摘した。根川幸男は、松本亨がアメリカのキリスト教教会から期待されて日本に派遣されたことは特異なことなのか確認をした。そのことについて池端千賀子は、自由メソジストの土山鉄次の事例もあるので、少なくとも松本の場合だけではないことを言及した。吉田は、エキュメニストで民主主義者であるハリソン・エリオットの本と明治学院の資料を読み、次回までに掘り下げるように松盛に促した。 |
開催日時 | 第5回研究会・2020年12月19日 13時00分~15時00分 |
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開催場所 | オンライン |
テーマ | JBC (日本人バプティスト教会)のエメリー・アンドリュース牧師の戦後と日本 |
発表者 | 高木(北山)眞理子(愛知学院大) |
研究会内容 |
本研究において、前回の同志社移民研究会で取り扱ったシアトルのバプティスト教会牧師エメリー・アンドリュース牧師(以後、アンディ牧師)の戦後の活動と日本での活動のつながりに焦点を当てたいとした。そこで今回は、前回で明らかになった彼のJapanese
Baptist
Church(以後、JBC)での活動と日本や日系人に対する考え方を紹介し、フロイド・シュモーとのつながりに言及しながら、アンディ牧師が戦後どのように日本に支援を考えるようになったのかを探る手がかかりにしようとした。 質疑応答では以下のコメントが挙げられた。吉田亮は、日系人の帰還中に日系人が白人教会に統合されたのはシアトルだけではなく、サンフランシスコでもみられたので、事例研究として本研究を取り上げることには意義があるとした。また、戦後、アメリカ人の間では広島の状況の酷さはあまり知られていないなかで、アンディ牧師は広島を救済しようとしていた。彼のように広島に着目したアメリカ人の事例はまだ少ないので今後の展開に期待した。林葉子は、広島と同様に長崎も救済しようとした動きがフロイド・シュモーを始めあったことについて、カトリック教徒がすでにいた長崎でプロテスタントが救済活動に入れたのかどうか、広島と長崎の地域性の違いについて尋ねた。その話題から、谷本清牧師とシュモーの交流関係について吉田と高木の間で意見交換があった。池端は、北米外国伝道評議会の代表が日本視察後に書いた報告書に言及し、広島の被爆地の被害についてアメリカ人の間でどれだけ真実が共有されていたのか懐疑を示した。それについて、吉田は、リベラルプロテスタントでも広島の被災地に同情が向かなかった理由や世論の反応を調査することの重要性を強調した。 |
開催日時 | 第4回研究会・2020年11月21日 13時00分~15時00分 |
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開催場所 | オンライン |
テーマ | 戦後日本の再建と北米外国伝道協議会(FMCNA)、1945~47年 |
発表者 | 吉田 亮 |
研究会内容 |
本研究会は、1975年ハーヴァード大学イェンチン研究所とライシャワー研究所の支援を受けながら同志社大学で発足された「キリスト教社会問題研究会」に起源がある。はじめに、本研究会の代表者であり本報告者である吉田亮から、キリスト教社会問題研究会の流れを汲むこれまでの研究会のテーマについて再認識された。その上で、本共同研究の意図が海外日系キリスト教史と戦後日本キリスト教史の相互関係の考察であることを再確認された。吉田の研究課題は、アメリカ・プロテスタントによる戦時下米国日系人の強制収容政策(収容、再定住による市民形成)および戦後日本の教育再建(市民形成)活動の相互影響関係を越境史的に考察する。今回の報告では、アメリカによる占領期において皆が希望に溢れていた最初の1945-47年に焦点を当てられ、日米の歴史に関与したFMCNAにおける活動の相互影響関係を考察した。以下4点を当該時期のFMCNAによる活動の特徴としてまとめた。第1に、民主主義観においてGHQ/SCAPを支持しながらも、独自性を主張しようとする姿勢が見られる.第2に、伝道方法において、大衆の民主化を意識した総合的企画、特に農村、メディア伝道への重点化傾向が見られる。第3に、GHQ/SCAPとの関係においては、政教分離を堅持して、両者の親和的提携にならないよう配慮が見られる。第4に、日本の基督教団との関係においては、対等を前提とした協力関係構築への努力が見られる。次回の研究課題として、48~52年における具体的展開において上記4点の特徴がどう変化していったかを検討する必要性を指摘して発表を終えた。 例会の後半では多くの質疑や意見が寄せられた。FMCNと同志社に繋がりがあったのかという神田朋美の質問に対し、吉田は同志社とFMCNには間接的な繋がりしかないことを言及した。インターボード連合委員会の資料を用いて調査している竹本英代は、インターボード連合委員会が現地とどのような関係を築いていたのか尋ね、今後、吉田の研究においてインタボード連合委員会をどのように調査していくのかその方向性について尋ねた。郷戸夏子は、①FMCNAの代表に日本経験がある宣教師が選出されたのかどうか、②ヨーロッパの場合はどうだったのかを尋ねた。吉田は、①’代表の条件として日本経験がある必要はなかったことと、②’各地域にFMCNAの支部が設立されたことを説明した。超教派主義のFMCNAはカトリック教会にまで至ろうとしていたのかを尋ねた田中智子の質問に対し、吉田は、マッカーサーはカトリック教会にも便宜を図っていたものの、リベラル主義的なプロテスタントはカトリック教会に対抗意識を抱いていたことを示した。林葉子は、「戦後民主主義」という表現は政治体制を指し、「戦後の民主主義」という表現は人権や精神性の意味を含むことを示した。その上で、①戦後の民主主義がキリスト教とどうつながっていたのか、②日本は占領側が起こした問題をどのように考えていたのか尋ねた。吉田は、日本では戦時中、人間の主体性は国家に奪われたので、FMCNAは人に主体性を持たせることを意図していたことを言及した。報告の中で1945年の代表団の派遣実態としてキリスト教女性の活躍について挙げられたが、具体的に誰であったのかを尋ねた石村真紀の質問に対し、仲介的な存在を示したか河井道、藤田、関谷等が挙げられた。高橋典史は、①戦後の宗教政策は仏教や新興宗教などの在来宗教や天皇制にどう影響力があったのか、②GHQ・SCAPとFMCNAはいかに関わっていたのかを尋ねた。吉田は、宣教師アイグルハートが宗教政策顧問であったことを例にあげ、②の質問に答えた。①については高橋の質問によって、米国プロテスタントと農村伝道や在来宗教との関係を見て行くことが今後の課題として浮かび上がった。 |
開催日時 | 第3回研究会・2020年10月27日 13時00分~16時00分 |
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開催場所 | オンライン |
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発表者 |
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研究会内容 | 神戸女学院所蔵資料とC. B. デフォレスト−1940~1945− 石村真紀 氏 (以下、敬称を省略する)本研究の対象であるシャーロット・B・デフォレスト(Charlotte Burgis DeForest, 1879-1973、以下、デフォレストと記す)は、日本で生まれ育ち、アメリカの大学を卒業後、神戸女学院にて教鞭をとり第5代院長に就任した。彼女は太平洋戦争前に帰米し、戦時中はアメリカのマンザナー収容所で日系人のカウンセラーとして活動した。 本研究は、当初の予定では、アメリカで所蔵されている史料を用いて研究が進められるはずであった。だが、新型コロナウイルス感染が拡大するなかで、報告者の石村がアメリカで史料収集をすることが困難になったため、神戸女学院が所蔵するデフォレストがこれまで収集した史料「デフォレスト文書」に当たる流れとなった。デフォレスト文書には①院長在任時の資料、職務上の書類、書簡、印刷物などと、②デフォレストが帰米当時に収集した資料があった。石村は、デフォレストが帰米時に収集した資料に焦点を当てており、彼女の収集の特徴や資料の内容について述べた。なかでも、デフォレストがピース・エデュケーション(平和教育)に力を入れていたことに着目していた。デフォレストがアメリカから神戸女学院に残した収集資料は彼女自身の執筆によるものではないが、収集された資料から彼女の考えや神戸女学院での教育観が分析できると石村は考えた。 質疑応答では、どの団体が平和教育を行なっていたのかという郷戸夏子の質問に対し、石村は、Institute of Pacific Relationsやメソジスト教会婦人部がいたことを答えた。吉田亮は、デフォレストを扱う上で “Peace (平和)” はキーワードになるので、日米間の平和と国際的なつながりについて押さえることを提案した。また、マンザナー収容所で働くきっかけとなった日本でのネットワークや彼女のメソジスト教会とのネットワークについて調べるように奨めた。根川幸男は、戦時中にデフォレストが日系人支援をしていたことをどのように扱うのか、男性のキリスト教者との相違はあるのか、デフォレストの日米往来の航海中の体験は資料に残されているのか質問した。神田朋美は、2世の教員が神戸女学院でどの科目を担当し、京都ホームと大阪ホームとの比較研究を考えているのか疑問を投げかけた。吉田は、2世の教員がどのような立場で雇用されたのか、また本研究を事例研究として扱う場合、研究の位置付けを明確にすることを石村に求めた。 占領期京都におけるキリスト教学界の形成 ―土壌とその再編― 田中智子(京都大学) 本研究は、今日に至るまで「キリスト教学講座」を有する唯一の国立大学・京都大学(旧・京都帝国大学、以後、京都帝大と記す)に焦点を当てている。報告者の田中智子は、昨年(2019年)10月19日に、京都帝大でキリスト教学講座が創設され占領期に復興する経緯を考察した。 今回の報告では、戦前以来、京都でキリスト教研究が行われてきた大学学科の紀要雑誌である『哲学研究』<京都帝大文科大学(後の文学部)哲学科発行>と、『基督教研究』<同志社大学文学部神学科(後の神学部)発行>を主要な史料として用いた。第一、創刊された1916年から1950年までの『哲学研究』を通覧し、京都帝大において宗教学講座から基督教講座へという枠内でどのようなキリスト教研究がなされていたのか確認した。その結果、講義の題目と担当教員、卒業生と卒業論文が特定された。第二、講義題目、講師、学会、開催行事などに着目して、京都におけるキリスト教あるいは宗教研究の人脈・業界の実態を確認した。これに関連して、同志社神学科における東洋(日本)思想と仏教関係の講義をみていくと、京都帝大の基督教講座担当者であった波多野精一、京都帝大に着任する以前の本田義英や羽渓了諦など(仏教系大学に在籍)が、同志社で教えていたことがわかった。第三、両大学にそくして、戦後京都のキリスト教学界の動向を捉えた。同志社時代の有賀鐵太郎が基督教パンフレットを刊行し、京大移籍後に宗教研究会を発足させたことが指摘された。今後の課題は、京都におけるGHQやCIE、羽渓了諦も関わった戦後宗教・教育政策などの影響を追求し、京都の仏教系大学の雑誌の通覧である。 質疑応答では根川幸男が、キリスト教学を選択した学生の進路と、同志社と京大間の交流について質問した。林葉子は、戦後京都のキリスト教をアカデミズムだけではなく、教会等も含み込んだ地域性の下に問おうとしているのかを尋ねた。吉田亮は、前回の課題がきちんとなされていた点と、京都の宗教学ネットワークがわかる研究であることを評価した。 |
開催日時 | 第2回研究会・2020年9月19日 13時00分~15時00分 |
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開催場所 | オンライン |
テーマ | 第二次世界大戦後の日本とブラジルにおける移民送受復活の状況と移民船 |
発表者 | 根川幸男(国際日文研) |
研究会内容 |
本研究は、移民船の船内教育を越境教育として捉え、戦後の南米移民復活と移民船での航路体験の実態と歴史的意味を明らかする。本報告では、第二次世界大戦後の日本とブラジルにおける移民送出と受け入れ復活、移民船による両国の人の流れと物流の再開の過程について明らかにすることを試みた。まず、国立社会保障・人口問題研究所「人口問題審議会資料」と『人口問題研究』から、1940年代末から1950年代初頭における日本国内の人口問題と海外移民再開を待望する状況が確認された。さらに、人口問題審議会が、戦前に海外移民を推進した人物(戸田貞三、上塚司、賀川豊彦、沢田節三、渋沢敬三、村田省蔵、岡崎文規)によって構成されていた点についても述べられた。次に、ブラジル・ヴァルガス政権が戦後、辺境開発と日本人移民受け入れ再開を打ち出した背景が述べられた。最後に、戦前・戦後、日本人のブラジル移住者はほぼ全て移民船によって輸送されたことに関して、報告者は、戦後の移民船の建造過程と移住者のアマゾン川流域などブラジル辺境地域への就航過程や航路体験の実態解明が、今後の調査の課題であることを述べた。 質疑応答では、池端千賀子が人口審議会の収集メンバーについてGHQによって追放された人がいないかを確認し、このメンバーの人選方法を明らかにすることも調査の一つになることを示唆した。それについて、審議者の戦争への思想、宗教的思想、また各々の繋がりを見ることはこれまでのキリスト教史に新たなアプローチを与える、と吉田亮は激励した。久布白落実を研究している林葉子は、同志社に縁がありブラジルに移住した湯浅十郎と久布白落実とブラジルの関係と、混血児について澤田美喜と久布白落実の考え方の違いに関して根川に意見を求めた。本多彩は、移民船の船内教育のフォーマットと戦後のブラジル移民の出身県について質問をし、根川は20年代に内務省社会局、後に拓務省が移民船での教育の制度化に務めたことに言及した。また、移民船内では移民船客によって自治組織が運営され、情報共有や伝達手段として新聞がつくられたことも述べられた。【高木は、GHQと澤田美喜との関係について質問した。根川はこの問題については今後の課題としたが、澤田の回想の中に澤田の回想の中に「GHQと日本政府にはいじめられた」とあることについて触れ、E.サンダースホームの運営は、当時の占領政策に沿うものではなかった可能性について言及した。根川はアメリカのマッカラン・ウォルター法のような法律が、ブラジルにおいていつ制定されたのか調べることを次の課題の1つにした。吉田は、プロテスタント移住者とクリスチャン移住者の違い、またGHQとの関連について掘り下げることを求めた。 |
開催日時 | 第1回研究会・2020年6月28日 13時00分~16時00分 |
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開催場所 | Zoom |
テーマ |
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発表者 |
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研究会内容 |
2020年度、新型コロナ感染を避けるため、第2研究会はZoomを通してオンライン研究会を開催する運びになった。これまで遠方の研究者の参加は難しかったが、オンラインビデオを使用しての研究会の開催は会員のほぼ全員の参加を可能にさせた。出席者は、吉田亮、高木(北山)眞理子、竹本英代、高橋典史、本田彩、田中智子、林葉子、石村真紀、大森万里子、神田朋美、松盛美紀子、郷戸夏子、志賀恭子だった。また、今年度は毎年8月に行っている1泊2日の合宿を中止せざるをえないこともあり、1回の研究会で2人が報告することになった。第1回目の研究会の報告者は、松盛美紀子(同志社大学)と郷田夏子(国際基督教大学)であった。 戦後日本の民主教育について ―松本亨の博士論文を中心に― 松盛美紀子(同志社大学・嘱) 本研究は、松本亨(以後、松本と記す)が日本の戦後教育の再建にどのように携わったのかを探ることを目的とする。本報告では、松本の博士論文の第1章と第2章を通して、彼が当時の日本の現状をどのように捉えていたのかを考察した。報告者は、まず松本の戦前・戦中・戦後に分けた略歴と、本報告で一次資料として用いた博士論文の章構成を説明した後に、今回の研究成果として第1章と第2章から日本の戦後の教育における問題点と改革しようとした点についての分析を述べた。 質疑応答では以下のコメントが挙げられた。吉田は、松本を取り上げることは本研究会のテーマに合致していることを強調し、博士論文は松本のアメリカ生活の総括であり、それを踏まえた上での今後の展望が窺える重要な資料であると指摘した。高橋は、マッカーサー率いるGHQ占領下の当時の社会状況において厳しい言論統制があったはずなので、自発的宗教教育(Voluntary Religious Education)の「自発性」とは何か、また松本が言及する極右と極左は誰を想定しているのかを松盛に尋ねた。さらに、高橋と吉田は、松本の博士論文の研究方法を明らかにすることを松盛に提案した。特に、彼が博士論文執筆に際して日本の現状について分析するために使用した資料の入手方法や、主査と副査など彼を学術的にも経済的にも支援した周囲の意図や思想を明らかにすることを提示した。池端は、松本が当時の日本の教育にマッカーサーの影響が大きいことを示しているが、松本自身はそれについて肯定的に捉えているのか、否定的に捉えているのかを松盛に尋ねた。田中は、博士論文内で挙がっている明治学院大学の教授陣や学生が戦後の現状をどう捉えていたのかを探ることはできないか、また戦後の状況を捉える枠組みを見つけることは可能かと質問した。それを受けて、吉田は戦中のアメリカでキリスト教の強さともろさを体験した松本は、その体験から戦後日本でどのように行動したのか、アメリカでの体験がその後の松本の活動にどのように影響しているのか仮説を立てることを今後の課題として示した。さらに、松本自身が捉えた民主主義の概念を明らかにすることを求めた。 第二次世界大戦後におけるフレンド派宣教師エスター・B・ローズの活動 郷戸夏子(国際基督教大学大学院博士課程) 本報告は、キリスト教フレンド派宣教師のエスター・B・ローズ(Esther Biddle Rhoads, 1896-1979、以後ローズと記す)の戦前から戦後における日米の活動に焦点を当てた。Haverford College Library Quaker Special Collection、American Friends Service Committee Archives、普連土学園百年史などを本研究の史料として用いながら、特に戦後日本におけるララ救援物資の運営や普連土女学校の再建からローズの果たした役割を明らかにした。報告者は、ローズの教育者と救援活動者としての側面を、戦前に普連土学校で教鞭をとっていた様子や関東大震災における救援活動と、戦中には、アメリカフレンズ奉仕団に参加し良心的兵役拒否者部門の仕事に携わった活動内容、日系2世の転学手続きなどの支援についての報告を行った。そして戦後、ララ物資を支援するために再来日した際の活動、普連土学校の再建活動の様子を紹介した。ローズは、その優れた日本語能力、日系人に丁寧に接する姿勢と彼女のネットワークによって、アメリカフレンズ奉仕団にとって交渉役としての役割を果たしていた。彼女は学校設立から再建、さらに運営に尽力していたので、普連土学園にとっても重要人物であった。 質疑応答では、大森がララ物資の支援活動において中心的役割を果たした団体はどこか、宗派を超えて選ばれた理由は何かを尋ねた。郷戸は、ローズがフレンド派であるが日記から異なる宗派の会合に参加が窺える点と、GHQの政策やアメリカについて批判的であった点を示した。吉田は、実践主義のクエーカー教がメリノール派とどう違うのか、クエーカーのなかで保守派とリベラル派があるのでローズがどちらの立場にたっていたのかを区別することを指摘した。林は、ローズが人身売買についてどういう見解をもっていたのか質問した。吉田は、神戸女学院の宣教師について研究している石村に、ローズの活動の神戸女学院の宣教師の活動と比べてどのように異なるのか意見を求めた。松盛は自身が研究している松本亨が天皇制に対し批判的であったことを述べ、郷戸はクエーカーが日本の政治家と関係をもっていたことやローズが天皇家と親交を持っていたことを示したことから、吉田は本研究で天皇制についてもどう扱うのかを考える必要性を提案した。 |
2019年度
開催日時 | 第4回研究会・2020年1月18日 14時00分~17時00分 |
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開催場所 | 同志社大学渓水館103 |
テーマ | 太平洋戦争下の来日アメリカ人宣教師 −シャーロット・B・デフォレスト(Charlotte Burgis DeForest, 1879-1973)を事例として− |
発表者 | 石村真紀 |
研究会内容 |
本研究は、太平洋戦争時の日系人強制収容に大きく関与し、占領期日本の教育再建にも直接関係した事例として、アメリカン・ボードの日本派遣宣教師であるシャーロット・バージス・デフォレスト(以後、シャーロット・B・デフォレスト)に焦点を当てている。本報告は、主に石井紀子(2009)「太平洋戦争と来日アメリカ宣教師:シャーロット・B・デフォレストとマンザナー日系人収容所の場合」と、竹中正夫(2003)『C.
B.
デフォレストの生涯』の先行研究に依拠しながら、デフォレストの宣教師としての経験とそこから得たキリスト教ネットワークが、収容所での活動にどのように生かされたのかを明らかにした。まず、背景としてアメリカン・ボードと神戸女学院の関係、デフォレストの生い立ち、彼女のマンザナー収容所における活動、彼女のマンザナー収容所でのカウンセラーと通訳としての業務内容、収容所から終戦にかけての状況、そしてデフォレスト以外の神戸女学院のアメリカ人宣教師について説明された。 質疑応答において、先行研究から十分な背景が提示されたことについて評価を得た上で、吉田からデフォレストが日本語での活動にこだわり続けた理由を明らかにする点の提案がなされた。デフォレストがアメリカのプロテスタント教会からどう位置付けられていたのかという松盛からの質問について、石村はデフォレストが自ら行動・発信できる立場であったと回答した。神戸女学院とマンザナー収容所においてデフォレストがスタッフとしてどういう評価を得ていたのかという林の質問について、石村は、神戸女学院ではデフォレストの評価は高かったことが先行研究で明らかになっているが、マンザナー収容所においては彼女の状況はまだ十分捉えられていない点を挙げた。池端は、『わが心の自叙伝』の記述から、デフォレストの宗教観がプロテスタントキリスト教のみに目を向けた排除的なものではなく、多様な宗教を受け入れる先進的なものであることがわかる点を示唆した。その点について、デフォレストが「我々の国籍は天にある」という聖句を愛誦していた例を挙げ、日本で幼少期を過ごしたことがそのような考え方に影響を与えたのではないかと石村は言及した。今後の課題として、デフォレストの活動を一次史料から確認することが吉田から提案された。 |
開催日時 | 第3回研究会・2019年11月23日 14時00分~17時00分 |
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開催場所 | 同志社大学渓水館103 |
テーマ | 占領期における「キリスト教化」 |
発表者 | 池端 千賀子 |
研究会内容 | 本報告は、池端の修士論文の中から本研究会テーマに関する内容についてであった。本研究は、アメリカ人メソジスト宣教師チャールズ・アイグルハート(Charles Iglehart,
1882/3-1969)に焦点を当て、彼がどのようにGHQ/SCAPの教育再建に関わる政策策定及び実施過程に関わったのかを明らかにすることを目的としている。 アイグルハートは、戦中はニューヨークで強制収容された日本人の救済に尽力し、戦後はGHQ/SCAP下の民間情報教育局(CI&E)の教育及び宗教問題の顧問をした。池端は、アイグルハートの経歴を紹介後、先行研究を紹介し、特に原真由美『キリスト教宣教と日本』(2018)と池端との相違点を示した。後半は主に、本研究の背景である占領期における「日本のキリスト教化」について重点的に述べた。占領期に、アメリカが勝者国の宗教であるキリスト教を、敗者国である日本国民に押し付けようとしたという見解に対して、池端は「アメリカの」キリスト教と「日本の」神道という二分法的な前提には根拠がない点を強調し、そのような見解に異を唱えた。 質疑応答において、吉田は具体的に使用した資料の提示を示唆した。根川は①民間情報教育局がGHQのどの部署に所属したのかがわかる組織構造と、②GHQが指示するキリスト教に関する政策決定の許可と実務を行う部局の明示を求めた。②について、GHQ統制下の教会が受け入れの管轄であったことが池端によって示された。林は①キリスト教の戦前と戦後における中絶問題の展開を例に挙げながら、GHQの政策においてキリスト教の影響が強くあったと指摘し、②占領期に洗礼を受けた人数が多かった地域について質問した。池端は、マッカーサーが敬虔なキリスト教徒であったかは定かではないが、彼は民主主義とキリスト教を同一視しており、民主化を目指すGHQの占領下において新教・旧教の違いを問わず、積極的にアメリカからキリスト教宣教師を日本に送ることを要請していたことを示した。その点に関し、吉田はマッカーサーが聖公会に属していたので、アメリカキリスト教界において発言に力を持っていたのではないかと指摘した。石丸は、宣教師が来日した際の関わり合いについて関心を寄せた。田中は、アイグルハートを取り上げる上で他のGHQ関係者における彼の位置付けの明示を求めた。志賀は、①GHQによるキリスト教化にはロバート・ベラがいう「市民宗教」観が働いているのか、②本報告内容とアイグルハートを今後どう結びつけるのか質問した。 今後の課題として、アイグルハートと今回の報告内容との関連性を示す点、アメリカ人キリスト教徒による日本人キリスト教徒理解、アイグルハートによるGHQ下の教育再建や宗教政策に関する政策策定での影響力や役割を示す点が挙げられた。 |
開催日時 | 第2回研究会・2019年10月19日 14時00分~17時00分 |
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開催場所 | 同志社大学渓水館103 |
テーマ | 京都帝国大学における基督教講座の設立と復興 |
発表者 | 田中 智子 |
研究会内容 |
京都大学は、今日に至るまで唯一「基督教学講座」を有する国立大学である。本報告は、戦前の京都帝大における同講座の設置過程を振り返った上で、敗戦直後(占領期)の講座復興の経緯を考える手がかりを示したものである。占領期教育史・京都研究の研究動向と、『京都大学百年史』と『同志社百年史』の叙述が検討された後、研究成果が述べられた。 まず戦前の状況として、文科大学の哲学哲学史講座から宗教学講座が独立し、そこから独立して基督教学講座が設置された経緯と、各時期の基督教関連科目の担当者が明らかにされた。その上で報告者は、近隣の同志社からの容易な講師調達、東京帝大宗教学の人脈、渡辺荘による寄付金を、講座開設の背景として強調した。 戦後の状況については、開設直後の同志社大学神学部から有賀鐡太郎が着任した経緯を同志社側の事情から追い、アメリカ教育使節団や適格審査といった占領政策との関連が考察された。 質疑応答において池端は、敗戦直後に来日した米国教会代表者一行に関連した資料の所在を示唆した。吉田は、講座設置経緯における仏教関係者の役割が独特であると解釈し、渡辺が長老派系である点も重視した。根川は、渡辺が日本郵船勤務である点などから多方面に議論を展開した。石村は神戸女学院における有賀についてコメントした。以上を踏まえ、学校間ネットワーク、超教派ネットワーク、京都宗教界ネットワークという視点からの分析が提案された。また当時の学生のニーズを問うた林に対して報告者は、研究主体であり講座所属学生数は非常に少ないことを前提に、彼らの来歴と進路の一覧化を課題に挙げた。加えて、有賀が京都帝大で学位を取得した理由と経緯の解明も課題とした。 本報告は、GHQ文書などの一次史料検討に先立ち、年史、回顧録、各種辞典などの刊本や京大所蔵の履歴書などを使い、経緯を詳細かつ論理的に整理したことに評価を得た。 |
開催日時 | 第1回研究会・2019年9月14日 14時00分~17時00分 |
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開催場所 | 同志社大学渓水館会議室 |
テーマ | 北アメリカ外国伝道協議会(The Foreign Missions Conference of North America, FMCNA)と戦後日本の教育再建 |
発表者 | 吉田 亮 |
研究会内容 |
第一回目例会は、研究会リーダーの吉田亮(以下、敬称省略)と研究補助者を含め7名が参加した。前半、参加者は自己紹介を行い、吉田から本研究会の目的、分担テーマと担当、今後の予定について説明を受けた。全体目的として、本研究会は「戦後期に再構築された越境教育の特徴」を解明する。特に、第二次世界大戦後の占領期日本において展開された教育再建に関わる政策策定および実施過程に関与した日本とアメリカのキリスト教徒や日系宗教者が果たした役割を明らかにする。分担テーマとその担当者は、以下の通りである。①戦後日本のキリスト教系教育機関:吉田、松盛、石村、池端、郷戸、②GHQ民間情報教育局の教育案と政策事例:東、田中、③学校以外の教育活動とプログラムの事例:物部、本多、高橋、竹本、高木、根川である。 後半は、吉田が「北アメリカ外国伝道協議会(The Foreign Missions Conference of North America, FMCNA)と戦後日本の教育再建」を報告した。この研究は、1940年代アメリカ・プロテスタントによる在米日系人教育・救済活動と戦後日本の教育再建活動の関係性について明らかにする。まず、先行研究と使用史料について紹介された後、日系人教育と救済活動の組織化、日本伝道関係部門の組織化、戦後日本のキリスト教教育再建問題について説明された。米プロテスタントが日系人再定住による地域社会への統合政策をWRA 転住事務所と協力して牽引し、世界への救済は米プロテスタントの「明白な宿命」という使命感に基づくとまとめられた。今後の課題として、戦時下において戦後日本のキリスト教化による民主化を実体化するための方策、戦後日本のキリスト教教育方針、対象の拡大、教材の統一、エキュメニカルの具体化について検討する。また、FMCによる戦後日本教育再建案とその実践と、国内外の対日本人活動での相関性について今後さらに掘り下げる。 |