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第9研究 歴史学の成り立ちをめぐる基礎的研究―現場と公共性― 研究代表者:小林 丈広(文学部)
本研究は、人文科学の社会貢献のあり方を考える手がかりとして、歴史学と地域社会との関係に焦点を当て、その歴史的展開をさまざまな角度から検討することを目的とする。本研究においては、京都をフィールドに2006年から行われてきた京都歴史研究会の成果を受け継ぎ、新たに同志社における歴史研究の蓄積や南山城地域での古文書調査の経験、考古学や町並み保存の取り組みなど、対象を広げながら議論を深めていく。定例の研究会では、各研究員がそれぞれの現場における実践報告を行うほか、関連史料の調査や整理の成果を報告する史料調査報告などを随時行う。また、必要に応じて史料整理作業や関係者からの聞き取りなどを研究会の中で行い、その成果を報告書に反映することを目指す。
2021年度
開催日時 | 第5回研究会・2022年2月20日(日) 14時00分~18時00分 |
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開催場所 | 同志社大学今出川キャンパス良心館208番教室 |
テーマ | 革新自治体における行政革新としての文化行政―畑和県政を中心として― |
発表者 | 土屋正臣 |
研究会内容 |
今年度最後となる研究会では、城西大学現代政策学部の土屋正臣氏が上記のテーマで発表を行った。文化資源学、文化政策学を専門とする土屋氏は、地域に住む市民がいかにして文化財の保存活動に主体的な参加ができるかという問題意識のもとに研究を進めてきた。今回の発表は、文化行政において重要な役割を果たした革新自治体、なかでも埼玉県の事例を示したものである。埼玉県において文化行政が生み出された背景や、埼玉県知事・畑和(在任1972-1992)による文化行政の展開について説明がなされた。 土屋氏は1970年代、80年代に各地に革新自治体が登場したことをあげ、そのうちの埼玉県に着目して発表を進めた。埼玉県で革新自治体が誕生した背景として、氏は次のように説明する。東京のベッドタウンとして、1960年代以降に移住者が急増した埼玉県では、人口が急増し団地の建設も相次いだが、新住民には居住地への愛着が薄く、「埼玉都民」と揶揄されるような事態となっていた。そうしたなか、物質の豊かさよりも、心の豊かさ、新しいふるさとの創出が、行政には求められるようになったという。 このような背景のもとに誕生した畑和県政は、およそ20年も続く長期政権となった。土屋氏は、畑県政を4つに時期区分しそれぞれの特徴と変遷をたどった。第一期では少数与党として鳴かず飛ばずの畑県政であったが、1976年から文化行政としての特徴を表しはじめる(第二期)。社会党から離党した畑は、地方の「自治と連帯」を掲げ、地域の文化・歴史・コミュニティ活動に注力していく。その一環として畑は「県民文化課」を設置し、県民が自発的に文化を生み出していくことを目標に政策を進めていった。こうした畑県政の様相を示すと同時に、土屋氏は、県政に時々の日本政府の方針も影響していると指摘する。つづく1980年頃からは、畑県政は施設重視の「箱物行政」へとシフトしていき(第三期)、1988年からは国家による開発主義と接合し、国民文化祭に盛り上がりを見せることになったとする(第四期)。最後に土屋氏は、経済開発一辺倒からの脱却を目指した革新自治体による文化行政が、結果的には国と結びつき、開発事業への偏りをみせる点を説いた。そして、傍流はあるけれども、大枠としては開発イデオロギーが戦前から戦後まで続いているのではないかと提起し発表を締めくくった。 発表の後は、畑県政の理念が現在の行政に活かされているのかどうかといった、自治体の行方に関する質問や、ほかの革新自治体とどのように通底するのかという革新自治体の個性や源流を問うものなどがあった。質問に対しては丁寧な応答があり、自治体や文化行政のあり方について議論が深まった。 |
開催日時 | 第4回研究会・2021年9月19日(日) 14時00分~17時30分 |
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開催場所 | 同志社大学今出川キャンパス良心館105番教室 |
テーマ | 太子山町秦家文書にみる19世紀京都「町家」の継承と女性戸主 ―京都の歴史における女性像の再検討― |
発表者 | 秋元せき |
研究会内容 |
本報告では、はじめに、戦後の女性史研究と『京都の歴史』『史料京都の歴史』における女性の問題を概観し、その後の女性史研究の進展に言及し、新史料の発掘による遊郭・娼妓に関する研究や、1980年代以降、「町家女性」の存在形態や家産所有のあり方に注目した研究などが進められる一方、近世後期における商家女性が家の継承において、どのような役割を果たしたのかなどについては未解明な点が多いと指摘する。 つぎに、京都市下京区太子山町の秦家に伝来した「秦家文書」から、嘉永元年(1848)の「柏原一件諸事留」と題する記録に注目し、京都西町奉行所同心の柏原時二郎と、京都太子山町の商家の女当主「松屋さと」との間で起こった紛議の経過を整理し、19世紀中頃の京都の町において、町奉行所同心と、町家の女性当主との間に生じたトラブルがいかにして解決されたのか、また、本史料の内容と、この事件の登場人物や問題の背景などを論じ、当該期の町家女性の生き方、あるいは町役人や町奉行所役人との関係などについて、検討するための材料を提示した。 さらに、秦家文書から三下り半(離縁状)や覚帳などを解読し、「さと」の養子になった女性の顚末や、三下り半をもらった女性とのその後などを分析し、同家の維持や、太子山町における家屋敷の継承に女性当主が深くかかわっていたことを論じ、男性・女性が対照的にのみ描かれるのではない、家の維持、町家の継承のあり方を指摘した。 報告後は積極的に質問が出され、活発に議論がなされた。質問のなかにあった、秦家における事例がどこまで普遍化できるか、どのように時間軸のなかに位置づけられるかという問題については、本研究会においてもさらに深めていくことにしたい。 |
開催日時 | 第3回研究会・2021年7月18日(日) |
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テーマ | 『新修亀岡市史』の現場と資料保存 |
発表者 | 上甲典子 |
開催日時 | 第2回研究会・2021年6月20日(日) 14時00分~17時30分 |
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開催場所 | 同志社大学今出川キャンパス良心館105番教室 |
テーマ | 広島平和記念資料館初代館長・長岡省吾について |
発表者 | 越前俊也 |
研究会内容 |
今回の研究会では、本学文学部美学芸術学科の越前俊也氏が上記のテーマで研究発表を行なった。広島平和記念資料館(以下、平和資料館)の初代館長として知られる長岡省吾(1901−1973)は、原爆が投下された直後に広島市に入り、爆発の高熱によって変形した岩石や瓦の採集を始めた地質学者であった。当初は個人的関心から始まった収集活動であったが、次第に広島市長によって公的活動として認知されるようになり、1955年には平和資料館の開設へとつながった。その開設は長岡の個人的尽力によるところが大きかったが、彼の経歴には未だ不明なところが多い。本報告では、その長岡という人物について、出生から平和資料館開設にいたるまでの経緯を、近年の研究成果に基づきつつ検討が加えられた。 発表は大きく二つのパートに分かれて行なわれた。まず、長岡の出生から戦時中までの考察である。越前氏は、先行研究を照らし合わせながら、長岡の出生から幼少期の経歴について推定した。その結果、長岡が1901年にハワイで生まれて幼少期を過ごし、1915年の3月以前に広島県に移住したこと、同年4月から広島市内の旧制修道中学に通い、1918年に同校を修了したことなどが明らかになったという。また、ハルピンでロシア語による高等教育を受け、地質学鉱物学研究所の開設(1926年)や、満洲工業株式会社の設立(1932年)にも関わったという。帰国するのは、会社が廃業に追い込まれた後の1940年頃で、1944年から嘱託として広島文理科大学に勤務していたという。 次に、被爆資料の収集から平和資料館開館までである。長岡は原爆投下後の8月9日、職場である大学を案じて広島に入市した。このとき自身がとった行動を回想した記事が「廃墟に佇つ」(1950年)である。越前氏は、この記事にあらわれている、周辺から次第に爆心地に近づいていく長岡の意識の流れが、まさに後の報告書や展示に表現されている点を強調した。また越前氏は、1950年に開設された原爆記念館における収集品の「陳列」から、1954年の東京原爆展などにおける、原爆の威力の啓蒙や教育を目的とする「展示」へと、その見せ方に関する意識の変化に注目された。この東京原爆展における展示方法が、のちに開館される平和資料館の展示に継承されたという。 発表後は活発な議論がなされた。なかでも、平和資料館開設に際しての市民との微妙な齟齬や、長岡の個人としての活動と広島市としての動きとの関係性などについて、多くの質問がなされ議論が深まった。また、研究会後は懇談会を行った。 |
開催日時 | 第1回研究会・2020年4月18日(日) 11時00分~18時00分 |
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開催場所 | 同志社大学今出川キャンパス良心館105番教室 |
テーマ | 「都市計画」の時代の歴史意識 -京都都市計画展覧会のその後-(京都市歴史資料館所蔵資料の検討) |
発表者 | 秋元せき |
研究会内容 | 本年度最初の研究会となる今回ではまず、会員の間で打ち合わせの場を設け、これまでの会の活動を振り返るとともに、今後の活動方針について話し合った。 続いて、研究報告へと移り、京都市歴史資料館歴史調査員の秋元せき氏が上記のテーマで報告をした。秋元氏は、かねてより大正期以降の京都の都市計画について研究を行い、論考を発表してきた。今回はそうしたいままでの研究成果をふまえながら、さらに新たな調査内容を盛り込み、報告を行った。 報告の軸となるのは、1919年制定の都市計画法にもとづき都市計画が進められる京都で開かれた、都市計画展覧会である。この展覧会は、都市計画について市民の理解を高める目的で京都市都市計画課を中心に企画され、1924年に初回が、そして1926年に第2回が開かれたものであり、今回はその開催時、および開催後のことに関して検討された。 行論中でとくに着目されたのは、都市計画において、土木技術的な視点だけでなく歴史的な視点がふまえられていることである。たとえば1924年の展覧会では、平安時代以来の京都の歴史を通覧する展示構成がとられていたとのことで、そうした点から秋元氏は、都市計画を文化問題としてもとらえる考え方が存在したことを指摘する。 そしてさらに、そのような考え方は展覧会後においても受け継がれ、後年の都市計画や都市研究に影響を及ぼすことになったとする。本報告ではその具体的事例として、展覧会後に京都市土木局によって歴史の調査・編纂が行われ、展覧会で出陳された図面類の複写も収録する形で『京都都市計画小誌』(1929年ごろ)が刊行されたことや、大正・昭和期の歴史地理学者であり、都市研究にも取り組んだ藤田元春が、展覧会から研究上の感化を受けるに至ったことなどが挙げられた。 また秋元氏は、京都市歴史資料館所蔵資料の新たな調査をもとに、藤田元春や鈴鹿三七などへと議論を広げ、都市計画や都市研究に関わる人物と人文・社会科学研究者との交流の一端も示した。そうしたなかで、都市計画や都市研究を歴史的、あるいは文化的側面を含めて今後も見ていくことの可能性に、話が結びつけられた。 報告後の質疑応答では、都市計画における歴史家の役割、都市計画展覧会に対する市民からの反応など、様々な点について活発な議論が行われた。 |
2020年度
開催日時 | 第5回研究会・2021年2月21日(日) 14時00分~18時00分 |
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開催場所 | 同志社大学至誠館30教室 |
テーマ | 『加茂町史』の編さんと文化財・史料調査 |
発表者 | 芝野康之 |
研究会内容 | 今回の研究会では、『加茂町史』の編纂に携わってこられた芝野康之氏より、そこでの事業内容や歴史資料の調査経験について報告がなされた。 まず、同事業の体制について紹介された。『加茂町史』編纂の計画は、1983年に町長部局企画課において地元有識者らを中心に発足した準備委員会によって進められ、翌1984年に編纂委員会が成立、以後同委員会が事業を担うこととなった。当時、相楽郡内の他町でも町史編纂委員会が立ち上げられており、加茂町でのこの動きは、そうした流れのもとにあった。 町史編纂事業に加わった芝野氏は、執筆材料となる歴史資料の調査に取り組み、古文書、統計書、新聞、写真など、幅広い種類の資料を収集した。そして、そのような取り組みにもとづき各巻が順次作成され、1988年の第1巻・古代中世編をはじめとして、1999年の第5巻・資料編2まで、計5巻の刊行が実現する。 こうして5巻までが世に出たわけだが、実は、それに続く第6巻の刊行も企画されていたという。第6巻については、町内の様々な文化財を紹介することを目的に、考古、美工・建築、民俗、絵図の各資料を取り上げて説明する内容が考えられており、1998年ごろに作業を本格化させ、2000年に刊行する見通しであった。ところが、町の財政難や、財源支出における行政側の意向との食い違いなどにより、事業の継続が危ぶまれ出し、ついには刊行を断念する結果となった。今回は、このように果たしえなかった計画も含めて話を伺った。 報告後は参加者との間で議論が行われ、編纂委員会の組織構成、資料調査や刊行事業にまつわる諸事情など、様々な点で質疑応答がなされた。 |
開催日時 | 第4回研究会・2020年12月13日(日) 14時00分~18時00分 |
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開催場所 | 同志社大学良心館207教室 |
テーマ | 宇治市の文化財保護行政 ―在職中の平成6年4月から平成19年3月まで― |
発表者 | 浜中邦弘 |
研究会内容 |
今回の研究会では、本学歴史資料館の浜中邦弘氏が上記のテーマで報告を行った。そこでは、浜中氏が宇治市教育委員会の文化財保護係に在職していた時期を中心に、同市における文化財保護行政のあり方について話がなされた。 まず、浜中氏が宇治市に就職したころの文化財部署の組織体制について言及された。そのころ、文化財保護係は教育委員会社会教育課内に設置されており、労働組合での文化財担当職員の人員増加要求や、平等院の発掘調査が進められるなかで、1993年に氏はそこに加わった。同係についてはその時期、宇治市歴史資料館に移管する案が役所において浮上していた。職務の異なる資料館職員と合わさることとなるその案には再検討を申し入れ、文化財部署を独立した課として位置づけ人員を確保しようと試みられたが、功を奏せず、1998年に移管がなされた。そこでは、以後別部署への移動をしないことは認められたものの、依然として人員確保の問題は残った。 つぎに、以上のことをふまえ、文化財保護係での業務内容について、関連する諸動向にふれながら説明がなされた。業務としてはまず、埋蔵文化財の発掘調査や管理が挙げられる。そこでは、平等院や白川金色院など、市内の寺院も含めて調査や管理が実施された。浜中氏が就職した当初はバブル崩壊期であったが、国の景気浮揚策によって国費投入がなされ、土地開発が堅調であり、それに伴い発掘調査も比較的活発に行われた。対してその後、1998年ごろを境に発掘の機会は減少し、そのころからは、市内の遺跡地図改定に着手して開発指導体制の整備を進めるとともに、遺跡の現地説明会、小中学校対象の見学会や出前授業など、文化財に関する地域への普及活動に力を入れるようシフトする。 また業務のうえでは、文化財、および文化財部署に対して周囲からどう理解を得てもらうのかということも、重要な問題であった。文化財保護係は地元住民以外の者で職員が構成されており、かつ別部署への異動がないため、役所の一組織でありながら、そのなかでは特殊な存在と受けとめられていた。そこで、役所内での理解を得るべく、他部署と積極的にコミュニケーションを心がけ、交流に努めたという。そのほか、行政担当者として、研究者としてなど複数の立ち位置、国や府、開発業者などとの様々な関係性のなかでどのように職務を行っていくのかということも、意識する点だったと指摘する。 報告後は参加者との間で質疑応答がなされ、文化財保護行政と観光との関わりについて話が及ぶなど、様々な形で議論が繰り広げられた。 |
開催日時 | 第3回研究会・2020年11月15日(日) 14時00分~18時00分 |
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開催場所 | 同志社大学良心館102教室 |
テーマ | 『八幡市誌』刊行後の資料調査と保存活動 |
発表者 | 竹中友里代 |
研究会内容 |
今回の研究会では、八幡市を主なフィールドとして歴史資料の調査や保存活動に取り組んでこられた竹中友里代氏を講師に迎え、話を伺った。『八幡市誌』編纂事業を画期として、編纂当時や、その前後の八幡地域における歴史資料の調査保存活動の歩みについて、自身の来歴をたどりながら語っていただいた。 報告ではまず、『八幡市誌』以前に編まれた八幡地域に関する歴史書や史料集の紹介がなされた。歴史書については、明治期から戦前期にかけての地誌や名勝誌が存在した。また史料集は、『大日本古文書』家わけ四石清水文書や多くの史料集が石清水八幡宮から刊行されていた。 つぎに、『八幡市誌』編纂事業について説明がなされた。同事業は、地域の様々な特徴を、自然環境なども含めて平易に紹介することを目的に進められた。その大まかな流れは、1972年ごろより事業が始まり、途中で編纂委員会の再編成などの変遷を経ながら、中世・近世編、近代編、自然環境・先史・古代編の順に本文編全三巻を刊行、そして1987年に編纂室解散に至った。竹中氏は事業の最中である1983年に編纂室に加わり、近世編執筆の基礎史料となった日記の翻刻を担当した。編纂の現場にいた氏によれば、資料編が未刊行のまま編纂室が解散し、史料の活用やその後の保存等について、多くの課題を残す結果になったという。 同事業後の八幡地域においては、竹中氏は八幡市教育委員会の立場でつぎのような取り組みを行った。編纂事業後の予算措置として文化財指定を目標に掲げた各種の調査事業を立ち上げ、同時に資料の保管場所の確保や活動拠点の整備がなされた。市内の古文書については、新出史料とともに編纂事業で使用した史料も含め調査整理が進められ、目録作成などを通して資料管理の充実化が図られ、さらに報告書の刊行などによる調査成果の公開も行われた。また、社寺旧家の美術工芸品悉皆調査や文化財をとりまく自然環境についても調査に着手された。これら調査の成果を文化財指定に連動させることで、保存や活用が試みられた。そして、以上のような経過のなかで、市民による自主的な講座や研究会企画の動きも見られるようになったという。 現在は、そうした市民と協力した活動を継続し、また大学の講義の一環として学生と古文書の整理・調査の活動を行うなどして、竹中氏は八幡地域における歴史資料の保存や活用、地域資産への関心の醸成に取り組み続けている。 報告のあとは参加者との間で質疑応答が行われ、歴史資料の保存や活用をめぐる行政のあり方など、様々な点について議論が交わされた。 |
開催日時 | 第2回研究会・2020年10月18日(日) 14時00分~18時00分 |
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開催場所 | 同志社大学良心館101教室 |
テーマ | 精華町史編纂とその後の資料整理活動 |
発表者 | 島津良子 |
研究会内容 |
本研究会では、数多くの自治体史編纂や資料整理活動に関わってこられた島津良子氏をお招きした。今回はとくに、1984年から1999年まで精華町史編纂事業に携わってこられたときのことを中心に話をうかがった。 島津氏はまず、精華町史編纂などの事業に関わるようになるまでの前提として、学生時代の生活や学問的関心などについて具体的にお話しいただいた。氏と親しい参加者にとっても、初めてうかがう内容が多く、たいへん興味深いものであった。 続いて精華町史編纂に話を進め、編纂事務局に就職したときから退職するまでのことを、順を追って説明した。事業開始当初は、関連する文献や資料目録を見ても、典拠が示されていないなど不明な点が多くて作業の手がかりがつかめず、ゼロからの調査を余儀なくされた。またその後も、資料所蔵者から協力を得るまでの苦労など、さまざまなご経験を披露された。 そうした経験をふまえ島津氏は、自治体史編纂や資料整理に関して、①資料の所在や調査状況など、事業過程での情報を一枚のカードに集約し、追加情報の追記や、後日の検索を可能にすることの大切さ、②事業を進めた成果をわかりやすい形で発信し、一般の方や地域住民を含め、あらゆる人が歴史や事業に対する理解を深められるようにすること、③原稿執筆や資料目録の作成においては、事実の再検証やさらなる資料検索ができるように心がけることなどが重要であるとした。そして、そのように事業後のことを考えて取り組む姿勢は、精華町史編纂後の氏の活動にもつながっていることがうかがえた。 質疑応答では様々な質問や意見が出され、同じく自治体史編纂に携わる参加者からは、編纂上の問題の共有がなされるなど、活発な議論が行われた。 研究会後は島津氏を囲んで懇談会を開催した。 |
開催日時 | 第1回研究会・2020年7月19日(日) 14時00分~18時00分 |
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開催場所 | 同志社大学徳照館201号室 |
テーマ | 内田孝「地域密着取材、意義と可能性」 小林丈広「『文化史学』第75号と「創立期日本史研究会の入会者をめぐって」について」「今年度の研究会について」 |
発表者 | 内田孝、小林丈広 |
研究会内容 | 今年度最初となる今回の定例研究会では、京都新聞社・内田孝氏と研究代表者・小林丈広氏が、それぞれ上記のテーマで報告を行った。 内田氏は、丹波総局(亀岡市)在籍時の取材成果を紹介した。具体的には、①存命で、丹波ゆかりの人物へのインタビュー連載、②平成の大合併をテーマにした連載、③『亀岡市史』編纂過程を事例とした自治体の文化行政、④地域と第2次世界大戦―など。 これらの取材・記事化を通じ、確認できたのは主に以下の項目だ。①地元紙の役割;全国紙が取材拠点を次々に撤退し、地域からメディアが消える「ニュース砂漠」の時代のジャーナリズム、②丹波の地域特性:隣接する都にとっては、人材、農産物や木材供出地。縁の下の力持ちに徹した、③人物取材の重要性―など。地域を掘り下げる取材で、暮らしを記録・地域への理解を深めた。加えて、各人物をつぶさに追うことで、地域全体の政治的、経済的、文化的な相関図が浮き彫りになった。また、取材で得た蓄積や人的ネットワークは、コロナ禍取材を含めてその後の足がかりになっている。 報告をふまえての議論では、取材の経緯、具体的な記事内容の詳細やその影響などについて話が広がり、様々な意見交換が行われた。 つぎに小林丈広氏より、1946年5月に機関誌『日本史研究』を発行した日本史研究会の初期の動向について報告がなされた。同報告では、新発見史料である同会創立期の入会申込書の分析によって浮かび上がる特徴を整理することで、京都帝国大学関係者を中心として発足した同会が、どのように活動や会員数を広げていったかが示されるとともに、当時の同会をめぐる人間関係の一端が明らかにされた。そのなかでは、同会と同志社関係者との関わりの可能性についても確認がなされた。今後は、新たに公開される史料なども取り入れ、より詳細な検証を行い、さらには、文化史学会創立の事情などにも議論をつなげていくことが展望として述べられた。 報告ののちには、参加者から報告内容に対する質問や率直な感想が寄せられ、様々な議論が交わされた。 最後に、定例研究会初回として本研究会の最近の活動を振り返るとともに、今後の予定について確認を行い、これからの方向性を話し合った。 |
2019年度
開催日時 | 第7回研究会・2020年2月16日 14時00分~18時30分 |
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開催場所 | 同志社大学徳照館201号室 |
テーマ | 樺山聡 「眠る記憶を記録する ―山国調査団・藪田嘉一郎―」 竹内信 「城郭と地域社会 ―姫路城の保存を中心に―」 |
発表者 | 樺山聡、竹内信 |
研究会内容 | 今回の研究会では、京都新聞社の文化部で学芸担当をされている記者・樺山聡氏と、本学大学院生の竹内信氏が、それぞれ上記のテーマで報告を行った。 樺山氏からは、京都の知られざる事実に踏み入り光を当てることを狙いとした自身の連載記事「ウは「京都」のウ」について報告があった。 そのなかで樺山氏が今回とくに取り上げたのは、中央大学の坂田聡氏を中心に全国各地の研究者で組織され、京都市右京区京北の山国地域で20年以上にわたり古文書調査に取り組む「山国荘調査団」を紹介した連載記事と、京都で活躍し、作家・松本清張との交流でも知られる在野の古代史家・藪田嘉一郎を取り上げた連載記事である。報告では、樺山氏がこれらを取り上げた動機や取材時の苦労、読者からの反応などについて詳しい紹介があった。 また竹内信氏は、城郭が地域社会のなかでいかなる価値を見出されて利用・保存されてきたかという問題関心や、城郭の保存に関するこれまでの研究の歩み、さらには姫路城を対象に、その保存や利用をめぐる地域の動向を取り上げた。 竹内氏は、城の修繕を姫路側から国に求める運動の流れや、城内が公園化されていく過程、史蹟指定の経緯などについて、地元紙の動向や市会の動きなどに目を向けながら検討を行った。 両報告とも丹念な取材や調査に裏打ちされた具体的な内容であったため、参加者からは様々な質問が出され、報告内容をより深めることができた。 |
開催日時 | 第6回研究会・2020年1月19日 14時00分~18時00分 |
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開催場所 | 新村出記念財団 重山文庫 |
テーマ | 新村出と重山文庫の紹介、および所蔵資料の調査 |
発表者 | 新村恭 |
研究会内容 | 本年度6回目の定例研究会にあたる今回は、『広辞苑』の編集・著者として名高い新村出の旧邸である重山文庫において所蔵資料の調査を行った。 まず、新村出の略歴及び重山文庫の由来について孫にあたる恭氏よりご説明があり、つづいて旧邸内の案内をしていたきながら、『広辞苑』関係資料をはじめとした展示資料を見学させていただいた。さらに重山文庫に所蔵されている西田直二郎や林屋辰三郎、田中緑虹、住谷悦治をはじめとした京都の歴史に関わりの深い方々の書簡をはじめとした資料の閲覧を行った。 質疑応答では、重山文庫の利用状況や晩年の日誌の詳しい内容などの質問が出され、収穫の多い調査となった。 研究会後には懇談会が催され、恭氏から出や子猛に関するエピソードをうかがうことができた。 |
開催日時 | 第5回研究会・2019年12月15日 14時00分~18時00分 |
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開催場所 | 同志社大学徳照館2階第2共同研究室 |
テーマ | 地方史研究協議会京都大会を振り返って |
発表者 | 平野寿則 |
研究会内容 |
本年度5回目の定例研究会にあたる今回は、去る10月に開催された地方史研究協議会京都大会のうち、共通論題報告「京都という地域文化」について、議長として共通論題討論に携わられた平野寿則氏をゲストに招き、表題の報告をしていただいた。 報告では、共通論題の趣旨を確認して各報告者の発表内容の整理を行い、その上で大会当日の討論では、①京都の歴史的個性(地域像)の位置づけ、②文化の担い手、③地域史研究を進めるための地域資料の3点を中心に議論が進められたが、各報告者間でイメージする「地域文化」が広く、十分にまとめきることができなかったとされた。その上で、現時点で議論を深める可能性のあった点を各報告者の発表内容から具体的に提示された。 平野報告後、大会報告者の小林ひろみ・玉城玲子の両氏が内容の補足を行った。小林氏は、③に関連して、これまで蓄積の少なかった農村部の動向及び農村・都市間の連携の実態が今村家文書によって明らかできたと文書そのものの魅力を強調された。玉城氏は、参加者の言葉として、他地域でも普遍的に存在するものを素材としながらその地域的特性を浮かび上がらせようとしたとの報告の意図を引用しながら、もっと①について強調できたのではないかと述べられた。 報告後の質疑応答では、大会開催の準備過程に関する質問が多くあがった。この応答の中で対象地域や報告者の選定等について様々な議論があったことが紹介され、報告者の選定にあたっては、大学などではなく、地域の博物館などに所属し地域資料に精通している方を優先したとされた。また、京都大会開催に際して林屋辰三郎「京都文化について」(『京都文化の座標』所収)を叩き台として準備が進められたことなども紹介された。討論では、②文化の担い手を検討する上でも地域リーダーの具体像の検討をさらに深めていくことの必要性など、活発な意見交換が行われた。 |
開催日時 | 第4回研究会・2019年7月21日 13時30分~18時30分 |
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開催場所 | 長岡京市中央公民館2階学習室 |
テーマ | 「長岡京市史編さん事業」から「ふるさと資料館基本構想」へ 長岡京市神足町宇田家文書の調査・保存と宇田淵研究 |
発表者 | 百瀬ちどり |
研究会内容 | 本年度4回目の開催となる今回の研究会では、長岡京市職員として市史編さん事業に携わってきた百瀬ちどり氏が上記のテーマで報告をおこなった。 報告ではまず、1985年から97年にかけて行われた長岡京市史編さん事業(以下、事業)から現在実現が見込まれる「ふるさと資料館基本構想」に至るまでの一連の経緯について解説を頂いたのち、古文書調査に基づく研究の実例として神足宇田家文書の紹介と宇田淵に関する研究報告があった。 編さん事業は市民参加をキャッチフレーズに置いたことから、専門委員会の先生方も含めてなるべく市内に在住の方に委嘱されていた点や、1970年に編さんされた『長岡町二千年』と市史編さん事業に直接的な連続性がみられない点についても言及された。また、事業は市長部局から出発した後に教育委員会の下に移管されたが、市長部局時代に培った人脈などが後年に文化財行政上で大きな財産となったという。 市史刊行後には収集資料の保管場所が狭隘化したため新たに資料館を設立する構想が掲げられたものの実現には至らず、市立図書館3階の教育センター跡地に書庫及び整理室・展示室兼用の多目的室を確保したことで収蔵スペースの拡張に努めたという。資料館設立構想に関しては改築予定の長岡京市庁舎内に「(仮称)長岡京市ふるさと資料館」の設置が近年盛り込まれ、実現がほぼ確実視されているという。 また、百瀬氏は歴史資料を所有者個人が保存していくことの重要性を強調され、その実例として長岡京市神足町宇田家文書の保存への取り組みを挙げられ、現在調査中の宇田淵の事績についての研究をはじめとした宇田家文書を用いた研究についても併せて紹介された。 質疑応答では、当時の事業の詳細について、周辺地域の自治体史編さん状況も考慮に入れた意見交換がなされるなど、参加者間で活発な議論と情報交換が行われた。 報告後には百瀬氏のご案内で報告に関連する諸施設や旧街道の巡見を行った後、現地で懇談会を催した。 |
開催日時 | 第3回 研究会・2019年6月16日 14時00分~18時00分 |
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開催場所 | 同志社大学徳照館201号室 |
テーマ | 松尾尊兊と大正デモクラシー研究 |
発表者 | 福家崇洋 |
研究会内容 | 本年度3回目の開催となる今回の研究会では、福家崇洋氏が上記のテーマで報告をおこなった。 報告において福家氏はまず、大正デモクラシー研究は松尾尊兊氏のライフワークであるため、著作の一部のみの批判では不十分であり、さらに近年には、有馬学氏が「大正デモクラシー」という分析概念を「民主化」という言葉に置き換える提言までなされている状況から、松尾氏の研究の軌跡について再検討の必要性があると問題提起した。その上で松尾氏が生まれてから亡くなるまでを4区分し、それぞれの時期における社会との関わりや論文著作について、思想史的な分析手法に重きを置きながら松尾史学の形成過程を明らかにした。 報告では、松尾史学の特徴として理論偏重を嫌い,あくまで実証を重視する姿勢がみられる点のほか、検討対象の置かれた状況を理解し、かつ行動を踏まえて理解する点を挙げた。大正デモクラシー概念に関しては、運動史と政治史を区別しつつも、思想や文学を含めた様々な側面で大正デモクラシーの全体性を浮き彫りにすること、ナショナリズムとの関係性については方法として明確化されてはいないものの、「内に立憲主義、外に帝国主義」という命題から「内に民本主義、外に非帝国主義」へと推移していく過程で内外を連関させる存在としてナショナリズムを想定していると指摘した。ただし、松尾氏自身も大正デモクラシーから戦後民主主義に引き継がれるのは一部にすぎないと認識していたとみられることにも言及した。 質疑応答では、松尾氏の歴史学と社会との関わりなどについて参加者間で活発な意見交換がなされた。 |
開催日時 | 第2回 研究会・2019年5月19日 11時00分~17時30分 |
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開催場所 | 尼崎市立地域研究史料館 |
テーマ | 竹内信 「尼崎城の復興とその問題点」 辻川敦・松岡弘之 「尼崎市立地域研究史料館の概要」「師岡佑行氏社会運動関係等資料概要」 |
発表者 | 辻川敦・松岡弘之・竹内信 |
研究会内容 | 本年度2回目となる今回の研究会は、尼崎市立地域研究史料館において同館館長の辻川敦氏などをゲスト講師として迎え、上記のテーマで研究会を開催した。 研究会では、まず今年3月に再建・公開された尼崎城天守を見学し、本研究会サポーターの竹内信氏が同城の変容過程と、天守再建にあたっての問題点及び今後の活用法について問題提起した。 昼食後、尼崎市立地域研究史料館に場所を移し、同館の辻川館長より同館設立の経緯と事業の概要についてお話をお聞きした。質疑応答の中では、史料館における行政文書公開の基準や今後計画されている博物館構想との関係などについて詳しい説明があった。 その後、辻川館長、松岡氏立ち会いのもと、同館に所蔵されている師岡佑行氏社会運動関係等資料を拝見しながら、同資料受け入れの経緯や尼崎市と師岡氏との関係についてお話をお聞きした。両氏によれば、尼崎市出身で地元尼崎や京都において様々な社会運動に携わってきた師岡氏は、1965年から4年間尼崎市市史専門委員として市史編纂に携わり、現代編ともいわれる『尼崎の戦後史』を担当した。1969年に同書が発刊された際の経緯は興味深く、自治体史や史料館のあり方についても多くの示唆を得ることができた。 師岡佑行氏社会運動関係等資料は、戦後史の資料としてたいへん貴重なものであり、参考資料として閲覧させていただいた松尾尊兌氏からの寄贈資料や参考文献なども含め、収穫が多い調査となった。研究会後、尼崎市内で懇談会を開催し。今後の調査への協力をお願いした。 |
開催日時 | 第1回 研究会・2019年4月21日 14時00分~18時30分 |
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開催場所 | 同志社大学徳照館201号室 |
テーマ | 「今年度の研究会に向けて」 「今村家文書研究について─本研究会の課題と関連づけて―」 |
発表者 | 小林丈広 |
研究会内容 | 本年度1回目の開催となる今回の研究会は、本研究会の研究代表者・小林丈広氏が上記のテーマで報告をおこなった。 研究会では、報告に先立ち、ハリス理化学館同志社ギャラリーで開催中の第18回企画展「新島家と安中藩─安中古文書学習協議会の翻刻成果の公開―」を見学した。報告ではまず、今年度の研究会に向けて、報告者から昨年度までの研究成果の確認と今後の方向性について提案があった。今後の方向性については、本年1月の小田報告が整理した①史学史、②京都(地域史)、③考古学、④アーカイヴ・文化財、⑤民衆史・部落史という5つのキーワードに加え、昨年12月の苅谷報告を受けて「景観や町並みの公共性」についても視野に入れることが、また本年2月の佐野報告が詳細に検討した南山城地域を重要な調査対象地域に加えることなどが提案され、とくに歴史学の現状認識について活発な議論がおこなわれた。 次に、報告者が長年関わってきた今村家文書調査の歩みを手がかりに、柳原庄・崇仁地区研究の史学史的意義が検討された。その中で、戦後歴史学の展開と日本史研究会、部落問題研究所、京都市史編纂所、京都部落史研究所などの創設と展開が跡づけられ、とくに1960年代から始まった地方文書の悉皆調査と部落史研究との関わり合いについて紹介された。報告者は、『京都の部落史』編纂事業の過程で行われた、被差別部落を対象とする古文書悉皆調査が、各地域の歴史への関心を高め、やがて、「崇仁地区のまちづくりに関する協定書」(1996年)、柳原銀行記念資料館開館(1997年)、今村家文書の発見(1998年)へとつながっていったと述べた。その上で、今村家文書調査の史学史的意義のひとつとして、上記のような経緯から、住民主導で研究会が始まったことを挙げた。報告後は、出席者との質疑応答がおこなわれ、歴史資料の取り扱いや保存の問題などについて活発な意見交換がなされた。 |