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第1研究 住谷悦治日記に関する総合的研究 研究代表者:小山 隆(社会学部)

 本研究は、学校法人同志社第14代総長をつとめた住谷悦治(1895-1987)が、長年書き留めていた日記(32年分)を題材とする共同研究である。住谷氏は1922年に東京帝国大学法学部政治学科卒業後、同志社大学法学部助手に着任、1927年に教授となった。1933年8月に治安維持法違反で検挙されたことを機に退職したが、松山高等商業学校教授や夕刊京都の社長を経た後、1949年に同志社大学経済学部に復職、1963年からの12年間、同志社総長の任にあった。経済学者として研究業績を積み重ねるだけでなく、戦後は、進歩的知識人として平和運動・民主主義運動を先導した人物でもある。
 本研究は、学内外の多様な分野の専門家により、住谷悦治氏をめぐる研究をより豊かにするとともに、彼が生きた時代の社会史や政治史、京都地域研究や同志社史に新たな発見をもたらし、彼の著述に関する捉え直しも視野に入れて活動を展開するものである。

以下の6つの班で構成されている。

1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
(班長:林田秀樹)
2班
住谷悦治日記にみる文学青年、マルクス・ボーイの誕生―大正期の高等教育とその後
(班長:伊藤彌彦)
3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
(班長:小林丈広)
4班
キリスト教社会問題研究と政治思想史研究の分野横断型の住谷悦治日記を用いた学際共同研究
(班長:望月詩史)
5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
(班長:本岡拓哉)
6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
(班長:田中智子)

ここでは各班による月例の活動報告を上げることにしています。班ごとに活動スタイルが異なり、本報告のまとめ方も他の研究会と異なる点、お含み置きください。

2024年度

5月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
  5月は、7、21日(火)の午前にそれぞれ約2時間、オンライン方式で研究会を実施した。
 当班では、4月に行った研究会の運営方針についての協議において、今年度は研究会を隔週での開催とし、翻刻文作成の終っている1940、41両年の日記の解題作成に向けて、当面、日記に記載されたいくつかの事項について、メンバー各自が分担を決めてデータ整理に取組み、その整理の結果を報告し合っていくこととしている。今月の2回の研究会では、いずれもその分担事項の整理について報告し合った。各自の分担事項は、以下の通りである。

林田: 住谷の講演及び著作物関係の記録
関口: 住谷と関係者の間での書簡往来の記録
笠井: 住谷が担当していた松山高商での授業関係の記録
佐々木: 住谷の読書及び図書購入の記録、並びに金銭出納記録
野村: 住谷の映画観賞に関する記録

 21日の研究会終了時点で、分担ごとにバラつきはあるが、少なくとも6ヶ月分のデータの整理を終えている。なお、以上の分担は、解題を執筆する際の担当テーマを直接意味するものではない。
 また、上記の研究会以外に、31日(金)15時より約1時間半、第5班のメンバーの方々と日記翻刻文公表の目的と形態、凡例の擦合せ・統一等について議論する機会をもった。当班からは、林田、関口、佐々木の3名が参加した 。

第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
  月内に1回、史料輪読の研究会を開催した。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 2024年度第2回研究会を5月31日(金)に開催した。翻刻研究会に先立ち、第1班の林田秀樹氏、関口寛氏、佐々木結氏を交えて、翻刻の成果公表について懇談を行った。公表の方法については引き続き検討することとなったが、凡例や様式を統一することが確認された。
 その後、翻刻作業に入り、1948年3月31日、4月1〜10日の日記の翻刻を実施した。公職追放に対する憂鬱な感情も記述されているが、執筆や講演活動に精力的になっていることや、映画に加えて、大阪にて妻と見物した文楽を楽しむ様子も見られた。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 5️月15日(水)の14時より共同研究室Bにて研究会を開催した。今年度の活動のひとつの柱として、住谷悦治と交友関係にあった人物にかかわる一次史料群を精査することを通して彼の人的つながりの範囲と質を探ることを掲げ、手始めに、人文研所蔵「住谷悦治関係資料」の中身の検討をおこなった。同資料に含まれる賀川豊彦からの昭和期書簡を解読したところ、住谷に宛てた「貴会」とは何か、特定の必要が確認された。
 次に、大原社会問題研究所や大阪における人脈を考えるために、同じく人文研所蔵の「林源十郎関係資料」を活用し、大原孫三郎書簡を検討することにした。以上の諸作業を通じ、今後、散在する賀川豊彦関係一次史料への目配りしていくことの重要性も議論された。

 なお今年度は、原点の住谷悦治日記に立ち戻り、以前より検討の必要を認めていた1929年分の翻刻を、並行的に進めていくことにした。

4月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
  4月は、9、16日(火)の午前にそれぞれ約2時間、オンライン方式で研究会を実施した。
 当班では、先月初めに作成した1940、41両年の日記翻刻文の難読箇所のファイルを同月中に第5班に託し、解読について協力を要請していた。第5班には、当方からの要請を受けて解読にご協力いただき、当方の9日の研究会開催時までにその作業の結果を返却いただいていた。そして、当班の9日の研究会では、第5班の当該の作業結果について検討した。結果として、判読不能箇所はなお残されたが解読された箇所も多く、第1班のメンバー一同第5班からの協力に対し感謝の念に堪えないところである。今回の協力要請と実際の協力は、各班の活動を独立した個別の活動とせず、本研究全体の活動としていくうえでも重要なものであった。
 16日の研究会では、今年度の活動目標と活動形態について協議した。今年度、研究会自体は隔週での開催とし、差当たって1940、41両年の日記の解題作成に向けて、日記に記載された様々な事項(勤務先である松山高商での授業関係、住谷と関係者の間での書簡等のやり取り、講演や著作物の公表等)について、メンバー各自が分担を決めてデータ整理に取組み、一定の区切りのついたところでその整理の結果を報告し合っていくこととした 。

第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
  月内に1度史料輪読を行った。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
  2024年度第1回研究会を4月26日(金)に開催した。当日の研究会にはオブザーバーとして第1班の林田秀樹氏、第6班の奥村旅人氏が参加した。研究会冒頭、林田氏による第1班の翻刻作業の状況報告を踏まえつつ、今後の成果の出し方について意見交換を行った。翻刻を実施する他班にも呼びかけを行ない、凡例や刊行方法について議論する機会を持つこととなった。その後、翻刻作業に入り、1948年3月9〜11日、20〜25日、29〜30日の日記の翻刻を実施した。この間の活動としては注目すべきものはなかったが、ディルタイ(村岡晢訳)『フリードリヒ大王とドイツ啓蒙主義』(三省堂、1943年)、岡崎義恵の「夏目漱石」論〔『漱石と微笑』(生活社、1947年)〕、堀江邑一編『回想の河上肇』(世界評論社、1948年)といった読書記録を確認することができた。

2023年度

3月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
  3月は、4日(月)の午後約2時間、今出川キャンパス啓明館2階共同研究室Aにて対面方式で研究会を実施した。
  昨年11月に1941年の日記を読み終えて以来、当班では1940、41両年の日記翻刻文の点検・修正作業を進めてきて、今年2月にその作業を完了させた。今月の研究会では、その点検・修正作業を経てもなお残る判読困難箇所等の解読に関してどのように他の班の協力を仰ぐかについて、先月までの研究会に引続いて協議した。結論として、当班と同様に翻刻作業を進めている第5班に協力を要請することとした。
  研究会では、その協力要請に先立つ準備として、1940,41両年の翻刻文ファイルから難読箇所のみを抽出し、それ以外の箇所を削除するかたちでファイルの編集を行った。タイピングは、佐々木が担当した。
  当班の予定としては、今後、個々の問題に慎重に対応しながら、可能な限り迅速に当該2年間の翻刻文公表に向けての作業を進めていく予定である。

第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
  3月1日に史料輪読会を開催し、1932年7月の日記を読み進めた。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
  今月は3月18日(月)、26日(火)に2023年度第13、14回研究会を開催し、1948年2月25〜26日、3月2〜8日、12〜19日、26〜28日の日記の翻刻を実施した。この間の活動としては、まず3月2日に次男磬の松山高商卒業式に出席し来賓代表で挨拶した。その後、広島に移り、旧制第二高等学校時代の恩師である登張竹風氏を能美島に訪問。3月6日に岡山経由で船にて再び四国に渡り、善通寺や新居浜で講演。その後、京都に戻るが、3月18日には長男一彦とともに淡路島岩屋町を訪問、講演活動を行っていた。
  第14回研究会は2023年度の最後の研究会であり、翻刻作業終了後、今年度の総括とともに、次年度の活動方針について確認した。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
  3月9日、先月に引き続き、班員の奥村旅人が与謝野郡における調査をおこなった。さらに3月26日、大阪教職員組合(たかつガーデン内)において、班全体での資料調査を実施した。この資料群については、すでに『戦後教員組合運動の地域社会史的研究 大教組所蔵文書の史料論的検討を通じて』と題する科研費の研究成果報告書が、2017年に刊行されている(森下徹研究代表、2014~2016年度)。この目録から、住谷悦治の活動に関わりのありそうな資料を順次ピックアップし、閲覧・撮影することにした。
  大阪教職員組合での調査を終えた後、班全体で2月の活動の成果と課題について討議した。その後、2023年度の活動を全体的に振り返り、2024年度の活動方針について話し合いの場をもった。

2月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
  2月は、13、20、27日の3日間(毎週火曜日)の午前にそれぞれ約2時間、オンライン方式で研究会を実施した。
  昨年11月に1941年の日記を読み終えて以来、当班では1940、41両年の日記翻刻文の点検作業を進めてきた。2月に行った3回の研究会では、1941年8月7日から同年12月31日までの日記の翻刻文を点検し、判読できなかった文字の解読や注の表記法の統一等に関して修正・編集作業を行った。翻刻文修正・入力のタイピングは、佐々木と野村が担当した。
  これで、翻刻文の作成と点検を終えたことになるが、27日の回では、第1班以外のメンバーの方々にどのようなかたちで翻刻文の点検について協力を仰ぐか、第1研究全体でのリビューを経た後どのようなかたちで翻刻文を発表していくかについて議論した。差当っての問題として、日記及び翻刻文のデータ共有方法を中心に議論したが、結論はもち越しとなった。
  当班の予定としては、今後、個々の問題に慎重に対応しながら、可能な限り迅速に当該2年間の翻刻文公表に向けての作業を進めていく予定である。

第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
  今月は2 月27日(火)に2023年度第12回研究会を開催し、1948年2月15〜16日、21〜24日、27〜29日、3月1日の日記の翻刻を実施した。この間の活動としては、税務署での納税(2月16日)、尼ヶ崎扶桑鋼管(2月27日)や綾部にある神栄生糸株式会社(2月28日)での講演などがあった。2月29日には次男磬の松山経専卒業式に出席するため松山へ向かい、その後10日間の四国旅行に出かけている。また、住谷に関係する出来事として、2月26日に総理庁が全焼した件がある。2月28日に日記では「私の訴願文書も全焼。困ったことであるが、これも運命。止むなし。」と記載している。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
  住谷悦治は、1926年から1935年までの10年間にわたって大阪労働学校(1922-1937)で講義を行っていた。住谷による講義が同校に通った「労働者」にいかなる影響を与えたのかを検討すべく、1934年から2年間同校の「学生」であった山﨑宗太郎(1913-2002)の日記に関する調査を行った。山﨑は法政大学大原社会問題研究所編『大阪労働学校史:独立労働者教育の足跡』(法政大学出版局、1982年)に同校に関する手記を寄せているが、そのなかに日記からの引用が確認される。
  班員の奥村旅人が具体的な調査として、山﨑家がその檀家であった宝巌寺(京都府与謝野町)の前住職・小野泰昭氏からの聞き取り(2月17日)、及び山﨑が勤務していた大阪クリスチャンセンターの関係者からの聞き取り(2月27日)を実施した。また、大原社会問題研究所での文献調査(2月20日)も併せて行った。結果として、山﨑宗太郎の次男(生没不明)、長女の夫の兄等の住所が判明した。

1月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 1月は、9、16、23、30日の4日間(毎週火曜日)の午前にそれぞれ約2時間、オンライン方式で研究会を実施した。
 昨年11月に1941年の日記を読み終えて以来、当班では1940、41両年の日記翻刻文の点検作業を進めてきている。1月に行った4回の研究会では、1940年12月4日から31日まで、1941年1月1日から8月6日までの日記の翻刻文を点検し、判読できなかった文字の解読や注の表記法の統一等に関して修正・編集作業を行った。また、諸事情で完成させられていなかった1940年7月の日記の一部を、この度条件が整ったために翻刻し終えることができた。翻刻文修正・入力のタイピングは、佐々木と野村が担当した。
 当班の予定としては、本年早々にも点検作業を終えて、1940,41両年の翻刻文に対して第1研究のメンバー全員のリビューを仰ぐ予定であったが、点検を進める過程でファイル上の表記等に関して注意を払うべき様々な問題が浮上し、それぞれについて協議しながら慎重に対応していくうち予想外に時間を要しているのが実情である。今後も、個々の問題への対応を疎かにせず、翻刻文の精度を可能な限り高めたうえでリビューにかけたいと考えている。  
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
 今月は研究会を2回行い、1932年7月の日記の翻刻を担当者が報告し、議論を行った。ロシア語などで書かれた文献名については、まだ未確定の部分があり、今後も検討を行うことにした。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は1 月26日(金)に2023年度第11回研究会を開催し、1948年2月9〜10日、13〜14日、17〜20日の日記の翻刻を実施した。この間の活動としては、毎日会館〔旧京都大毎会館のことか〕にて河上博士遺品展覧会の見物(2月10日)や妻との映画観覧(2月18日)、たすけあい共同募金割当委員会への出席(2月19日)があった。また、2月17日に訪問した後閑瓊彌氏の家族が暮らす引揚者寮「三条寮」について、メンバーから知見が提示された。  
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 班員の田中と奥村旅人が、1月30日10時~12時、大阪府立公文書館において、住谷悦治に関連する資料の閲覧・収集をおこなった。
 住谷悦治は大阪労働学校の講師を長く務めたが、府立公文書館には、この学校に関連した公文書が所蔵される。大阪府堺労政事務所が管轄していた一連の簿冊群であり、1952〜53年を対象とする。これらのなかから、労働学校の開催要項・受講料・生徒など、基本的な事実を種々発掘した。なお、簿冊のなかには、住谷の名前も散見することが確認された。
 また当該資料調査に合わせて、「労働(者)」の概念、労働学校生徒の属性(学歴・職業)の戦前から戦後にかけての変遷・特質などについて、奥村から検討作業の経過が報告され、田中がそれに応答しつつ、社会教育史の研究史と今後の見通しについて私見を述べた。  

12月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 12月は、5、12、19日の3日間(毎週火曜日)の午前にそれぞれ約2時間、オンライン方式で研究会を実施した。
 11月に1941年の日記を読み終えて以来、当班では1940年の日記翻刻文の点検作業を進めてきている。12月に行った3回の研究会では、同年5月21日から12月4日までの日記の翻刻文を点検し、判読できなかった文字の解読や注の表記法の統一等に関して修正・編集作業を行った。翻刻文修正のタイピングは、佐々木と野村が担当した。
 1940年の翻刻文に関して、未解決の問題は残るものの、2021年度に上半期・下半期とも2人ずつで作業をしていた当時とは違って、メンバーの数が6名となり専門分野も多様になったことで、この点検・修正作業においてもこれまで多くの問題を解決することができている。研究活動の学際性が高まることは、メンバー間の議論の内容を豊かにすることだけでなく、翻刻文の精度を高めることにも寄与している。
 今後は、1940年の日記に続いて1941年の日記の翻刻文についても同様の点検・修正作業に取組み、可能な限り早い時期に第1研究のメンバー全員からリビューを受けられるよう準備を進めていく予定である。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
 1932年6月~7月の記事について、参加者それぞれが担当箇所の解読を進めた。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は12月22日(金)に2023年度第10回研究会を開催し、1948年1月28日〜2月8日および2月11日の日記の翻刻を実施した。この間の活動としては、たすけ合い共同募金配分委員会委員として結核患者療養所や幼稚園、「不良少女」の保護所などの見学、また百万遍の進々堂にて行われた河上会設立会への参加(1月30日)、新聞会館での河上肇追悼大会への出席(1月31日)などがあった。さらに、婦人運動史に関する執筆活動の準備に加えて、公職追放解除を求めた活動において、訴願委員会委員に資料に基づく公平なる判断を求めて手紙を送っていたことも確認できた。そのほか、非戦災税〔正式には非戦災者特別税法〕の納付に関する記述は、時代的かつ地域的に鑑みて印象的な事柄であった。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 12月21日(木)11時より、班員の奥村旅人と田中とが、啓明館2Fにて月例会をおこなった。奥村氏より、「社会教育の歴史的研究」「労働学校/労務者講座の知識人―新人会から昭和研究会へ」と題する二本の報告がおこなわれた。前者については、政策(上から)・と自己教育運動(下から)の矛盾という捉え方を前提とする研究の史的展開が紹介された。後者については一例として、1930年代において、住谷悦治と同じく大阪労働学校の中心的講師をつとめた笠新太郎が取り上げられた。松沢弘陽の議論を参照しながら、住谷が所属した東大新人会について、昭和研究会につながるコースへの指摘もなされた。

11月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 11月は、7、14、21、28日の4日間(毎週火曜日)の午前にそれぞれ約2時間、オンライン方式で研究会を実施した。
 先月に引続き、1941年12月30、31日両日の日記を読み、翻刻文を作成した。日記の解読は野村が、タイピングは佐々木がそれぞれ担当した。この作業は7日の回の途中で終えたが、これを以て1941年の住谷日記の解読と翻刻の作業を一通り終えることができた。1年間分の日記の翻刻を終えるのに、1年8ヶ月を要したことになる。決して効率的とはいえないが、一区切りつけられたことに班員一同相応の達成感を得た。
 ところで、1941年の前年の1940年の日記については、第21期部門研究会に本第1研究が設置される前の2021年度に人文研内に設けられた「住谷悦治日記研究会」において、林田、泉川、佐々木の3名ですでに解読・翻刻作業を終えている。これと合わせれば、計2年間の日記の翻刻作業を終えたことになるが、当班では、この作業を終えて以降、当該2年間の翻刻文を班で改めて点検したうえで、本研究会のメンバーの方々すべてにリビューをお願いすることを計画していた。この計画に基づき、7日の回から14日の回の前半にかけて、翻刻文を保存しているワードファイルに関して林田が事前に作成していた凡例のたたき台について検討し、およそ合意できるレベルに仕上げた。14日の回の後半から28日の回までの3回は、判読できなかった文字の解読や注の表記法の統一等に関して1940年の日記翻刻文の修正作業を行い、同年5月20日分までの点検・修正を終えている。翻刻文修正のタイピングは、佐々木が担当した。
 今後は、引続き同年の翻刻文ファイルの点検・修正作業に取組み、さらに1941年の翻刻文ファイルについても同様の作業を継続し、リビューを受ける準備を進めていく予定である。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
11月は史料輪読形式の研究会を1回行い、1932年6月から7月にかけての日記を読み進めた。
第4班
キリスト教社会問題研究と政治思想史研究の分野横断型の住谷悦治日記を用いた学際共同研究
 今月は、佐々木結氏が「住谷悦治とキリスト教:YMCA機関誌『開拓者』を中心に」と題して報告した。
 まず前回の報告(2022年7月)内容を確認した。続いて、佐々木氏によるその後の調査によって明らかとなった住谷とキリスト教の関わりについて、佐々木氏が作成している住谷の略年譜に追記する形で紹介された。今回の報告では、特に住谷が複数回寄稿したYMCA機関紙『開拓者』記事に焦点が当てられた。記事を通じて、住谷が教会で説教を⾏なったり、自らの弱さと神の支えを言明したりするような「クリスチャンらしい」言動が確認された。
 以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は11月10日(金)に2023年度第8回研究会、11月24日に第9回研究会を開催し、1947年日記に添付されていたメモ類のうち同年6月20〜23日の日記および1948年1月13日〜27日の日記の翻刻を実施した。前者1947年6月の日記は松山訪問時に書かれたもので、日本銀行松山支店や愛媛銀行、松山経済専門学校での講演を実施するなか、松山高等商業学校勤務時代の知人との交流が描かれている。後者の1948年1月の日記については、執筆、講演活動や読書記録のほか、社会福祉民間委員会委員として京都府知事と面会し、社会福祉会館建設のため御所の一角借用の申し入れを行ったこと(1月16日)やデントン女史の同志社葬への参加(1月23日)についての記述があった。公職追放免除に対する活動については、瀧川幸辰氏から証言書を執筆してもらったことが記された。その内容については「詳細極まる証言、条理と温情にあふれたもので、一つの文献たるに足る。私の生涯の一斑が、この一文に出ている」(1月20日)と書いていた。また、1月21日の日記には、住谷氏に対する佐伯千仭氏による名誉損傷の告訴が取り下げられた旨報じる朝日新聞記事も添付されていた。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 社会福祉法人・大阪福祉事業財団での調査
 1975年に上梓された『関目学園二十五年史』の冒頭には、同志社総長時代の住谷悦治が序文にあたる文章を寄せている。これによると、関目学園年史(上記および『人権』と題する「記録編」)編纂の中心となった都築秀夫(当時園長、1979年から財団理事長)は、敗戦直後に京都府が民間の募金の援助も仰いで維持した「京都社会福祉研究所」において研究所の主事を務めていた人物である。研究所所長は同志社大学教授竹中勝男が務め、住谷や京都大学の臼井二尚のほか、江藤則義・大塚達雄・小倉襄二といった同大教員が所員として所属していた。そこで、11月28日(火)14時〜17時、今日もなお関目学園を運営する大阪市城東区の大阪福祉事業財団を訪問し、田中と班員の奥村旅人とで設立当時の史料調査をおこなった。
 京都社会福祉研究所の達成と人脈とを今後も探求する必要が認識された。

10月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 10月は、3、10、17、24、31日の5日間(毎週火曜日)の午前に約2時間、オンライン方式で研究会を実施した。
 先月に引続き1941年11月30日から12月29日までの日記を読み、翻刻文を作成した。日記の解読は、11月後半を佐々木が、12月前半を泉川が、同月後半を野村が担当し、タイピングは野村と佐々木が担当した。
 当該期間中の大きな出来事として、12月8日、日本軍による米ハワイ真珠湾への奇襲攻撃がある。住谷は日記に開戦を告げる新聞記事号外を貼付ており、「対、英米戦、いよいよ開始された。大変なことだ。真に日本は乾坤一擲の賽を抛げたのだ」(9日条)と開戦の報に接したときの感懐を綴っている。以後の日記には、戦況を注視する様子が読取れるが、そこでの戦争に関する記述は住谷が日本軍の侵攻を概ね肯定的に捉えていたことを示している。
 前月上旬より盲腸炎の手術と術後の療養のために入院していた住谷は、1ヶ月余を経て 12月11日に退院を迎える。退院後も治療のため通院する日々が続くが、校務や読書に精を出す様子も窺える。この間、太平洋戦争の開始と進展に触発されてか、堀真琴、矢内原忠雄の植民論に関する著作を読むなど、当班の研究テーマとの関連で重要な記述も散見されて興味深い。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
10月は史料輪読形式の研究会を2回行い、1932年6月の日記を読み進めた。
第4班
キリスト教社会問題研究と政治思想史研究の分野横断型の住谷悦治日記を用いた学際共同研究
 今月は、今後の本グループの研究活動に関して意見交換を行った。具体的には、第21期の研究成果をいつ、どのように公表するのか、また、第22期(2024年4月開始予定)でもグループとしての研究活動を継続するのかなどについて意見を交換した。
 出席者の意見は、第21期の研究成果は『社会科学』で発表することを目指す(特集を組むことを目標とする)、第22期でも引き続き本グループとしての研究活動を継続するという2点でまとまった。その理由として、前者については、本グループ単独では成果論文集を刊行するのが困難なことが挙げられた。後者については、本グループが日記の翻刻をメインにしていない点に独自性(存在意義)がある、またそれゆえに気楽に参加可能である、さらに思想史研究者が多いことによる「強味」もあるなどが挙げられた。
 意見交換の後、7月に開催された田中秀臣氏のゲストスピーカー回に出席された出席者より、当日の報告の概要が紹介された。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 10月27日(金)に2023年度第7回研究会を開催し、1947年12月27日〜28日、1948年1月1日〜12日までの日記の翻刻を実施した。1948年の日記を始めるに当たり、住谷は「去年より朗らかな新年であるが、私は今年は多事、多難の時がつづくであろうか」と記述している。夕刊京都社退職、また公職追放という前年1947年において大きな苦難を踏まえた発言であるが、新年に対しても不安があることがうかがえよう。
 また、本翻刻箇所では年始における住谷家について様子が認識できるが、1月2日は上賀茂にある友山荘にて、家族や知人ら総勢15名で賑やかに過ごした記述が印象的である。なお、ここまで戦後の住谷日記を読み進めてみると、住谷は「賑やか」(日記では「賑か」と記述)という言葉を多用していることに気づいた。単なる口癖か、あるいはこうした表現から住谷のいかなる心情や性格を読み取れるのか、また果たしてこの時期特有の表現なのか、今後他の時期の日記を読み進める中でも検討してみたい。
 そのほか、1月12日に京都大学に訪問して、戦後復帰してした瀧川幸辰氏(当時、法学部長)に公職追放解除のための証明書を依頼したことも確認された。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 賀川記念館ならびに周辺地域での調査
 住谷悦治の戦間期の活動、あるいは占領期の活動を考えるうえで、重要な関係をもち、かつ参照系となりうる賀川豊彦に関する知見を深めるべく、神戸・賀川記念館の展示を見学するとともに、関連史料や文献調査を行う例会を企画した。10月1日9時半〜12時、班員の田中と奥村旅人で同館を訪れたほか、近代史研究者の原田敬一氏・高木博志氏に、ナビゲーターとしてご参加いただいた。資料調査に合わせて、賀川が活動した新川地区巡見もおこなった。近代神戸の都市社会について、杉之原寿一の理解(『神戸市社会調査報告書 別冊[解説]』)や、布川弘(『神戸における都市「下層社会」の形成と構造』)の議論に話題が及び、地域の特質と賀川の活動の特性について理解を深めた。
 また賀川に先立つ存在としての女性宣教師R.T.タムソンの活動、あるいは神戸市の施策、中川清の研究(『日本の都市下層』)の先駆性についても指摘がなされた。

9月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 今月は1回のみ、オンライン形式にて9月26日(火)10:00から約2時間にわたり研究会を開催した。先月に引続き、1941年11月26日から29日までの日記の解読と翻刻を行った。解読は佐々木が、タイピングは野村が担当した。
 日記本文では、微熱が出る日もあったとはいえ、盲腸の手術後の経過が概ね順調である旨記述されている。
病床にあっても、カーライルの『衣服哲学』を読了、さらに野上豊一郎『西洋見学』を読み、感銘を受けていたことが記されていた。特に、野上については、その文章を高く評価していたことがわかる。
 また、連日、軍関係者を含む多岐にわたる人物からの見舞いを受けており、高商教員としての活動範囲の広さを垣間見ることができる。
 さらに、病床にありながら、久々に水彩画を描いたとの記述もあった。専門の経済学史のみならず、芸術や文学に広く関心をもっているという点に、戦前の知識人の一面が窺える。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 9月29日(金)に2023年度第6回研究会を開催し、1947年12月5日〜6日、および12月19日から12月26日まで、12月29日〜31日までの日記の翻刻を実施した。今回の翻刻箇所は年末の時期となるが、公職追放解除に関する活動がある程度一段落し、余暇活動や各所への訪問を行っている様子が印象に残った。アーモスト会館での厚生事業民間委員会のクリスマス会参加(12月19日)、蜷川虎三氏や水谷長三郎商工大臣への訪問(12月20日)、南座での歌舞伎観覧(12月23日)、友山荘でのクリスマス会参加(12月25日)のほか、大晦日にはグランド劇場にて映画を観覧している。
 また、大晦日の日記では1947年を「多端にして多難な年」であったと記している。その後に続く「もうこれから自分は自分の実力を正直に出しきって生きよう」との記述からは、今後へ向けて積極的な姿勢もうかがえた。
 1947年の日記をほぼ読み終えたことで、今後の進め方について話し合いを行い、引き続き1948年の日記翻刻に取り抱えることが確認された。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 班員の田中と奥村旅人が、9月18日16時半~18時半、人文科学研究所が祝日閉所日であったため、京都大学の田中の研究室にて例会を催した。
 前回の例会において奥村から、文部省社会教育局長・関口泰について報告がなされたが、教育刷新委員会第七特別委員会にかかわった別のキーパーソンとして、淡路円次郎と鮎沢巌についての追加報告がなされた。
 また、「講座」と称した文部省の活動、「大学」と称した労働省の活動にみられる「労働者」認識のありようと、そのような「労働者」に対して必要と考えられる「教育」についての認識のありようとが検討された。
 また、文部省と労働省とが、「労働者教育」において一種の住み分け(「重点」の分割)をはかった1948年7月の「了解事項」について、前者では「社会教育局」・労働省では「労政局」が限定的当事者であることも指摘され、議論がおこなわれた。

8月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 8月は1回のみ、8月1日(火)10時より約2時間、オンライン方式で研究会を行った。
 先月に引続き、1941年11月20日から25日の日記を解読し翻刻文を作成した。解読は佐々木が、タイピングは野村が担当した。
 当該期間中も住谷は盲腸炎のために入院中であったが、術後の容態は快方に向かっており、多くの面会者を迎え入れていたようである。日記には、面会者の名前・見舞いの品とそれらへの謝意、交わした会話の内容が記されている。面会者の多さや会話の内容から、住谷が松山の地で築いた人脈の広さと学生・卒業生との関係の深さを窺い知ることができる。
 また、入院中の住谷は、住谷天来『黙庵詩鈔』、カーライル『衣装哲学』(新渡戸稲造 解説)を読んでいたようである。この他に、入院費の内訳についての記述も興味深い(20日)。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
8月中に1回研究会を行い、1932年6月の日記を読み進めた。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 8月25日(金)に2023年度第5回研究会を開催し、1947年12月2日〜4日、および同年12月12日から12月18日までの日記の翻刻を実施した。今回の翻刻箇所でも、公職追放解除に対する訴願文書作成をめぐっての、住谷と協力者とのやり取りを認識できた。12月4日は同志社大学栄光館にて森戸辰男文部大臣の演説を聞き、面会も行った模様である。その後、すでに翻刻した通り、12月7日からは東京に滞在し、長男一彦氏とともに政府関係者との面会など積極的に行動していたが、12月12日には公職資格訴願審査委員会の委員との面談を実施していた。12月14日には帰洛するが、この間の取り組みを「一週間は実に有効適切にうごいた」と記載するとともに、「ゆっくりした気持である。待てば来るべき幸いひの日」と、安心する様子も認識することができる。12月18日には52歳の誕生日を迎えているが、「真に人生の終りの段階である」との記述も印象的である。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 班員の田中と奥村旅人が、8月17日14時~17時、人文科学研究所が夏季休業中ゆえ、京都大学の田中の研究室にて例会を催した。
 奥村から、住谷が関係した「労働学校」にまつわる問題として、「教育刷新委員会第七特別委員会」の議論に関する報告がなされた。特に文部省社会教育局に身を置いた関口泰がキーパーソンとみなされ、戦前からの「公民教育」主唱者でもあり、「教養」の必要を主張していた点を中心に、討論がおこなわれた。
 なお、今回は、ゲストスピーカーとして木野涼介氏(京都大学教育学研究科博士後期課程)の臨席を仰いだ。高等教育の周縁に位置した分野が大学化≒学問化していくありさまについて研究する氏より、今後の本班の研究の発展のための新規史料収集作業に関わって、GHQ文書、特にCIE文書の所在と内容にかかわる知見が供与された。今後、住谷の活動について、経済科学局(ESS)も含めた占領軍とのかかわりという視点からの再検討が望まれるとの結論に達した。

7月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 7月は4、11、18、25日(毎週火曜日)の10時より毎回約2時間オンラインで研究会を行った。先月に引続き、1941年10月23日から11月19日までの日記を解読し翻刻文を作成した。解読は、10月17~22日を関口が、10月23~11月6日までを笠井が、11月7~15日を再び関口が、11月16日以降を佐々木が担当した。タイピングは佐々木と野村が担当した。
 当該期間中、住谷は趣味の映画や釣り、学生指導に時間を割きつつも、1940年末に学生たちと台湾に渡航した際の模様を「台湾紀行」として書き上げ、本人の学生時代からの趣味である小説を書き進めるなど、執筆活動にも力を入れている。また、盲腸炎を患って入院しながらも、見舞客や進呈を受けた品、見舞客との会話など、日々の様子を細かに記述している。人との関係を大切にした住谷の人柄や、時折り綴られる治療の様子などから当時の医療水準の一端も窺い知れる資料となっている。
 また、当班では、以上のルーティンとしての翻刻研究会とは別に、7月22日(土)に『沈黙と抵抗―ある知識人の生涯、評伝・住谷悦治』(2001年、藤原書店)の著者である田中秀臣氏(上武大学ビジネス情報学部・教授)をゲストに招いて研究会を開催した。「住谷悦治の評伝を書いた後―今後の課題と未整理資料の検討―」というタイトルで行われた田中氏の報告を基に様々なテーマについて議論した。貴重な資料が紹介されるとともに、更なる調査を迅速に行う必要があることを示唆する報告でもあった。この研究会は、当初から他の班にも開催を周知し参加を募った。結果、当班のメンバー6名全員と他の3つの班から6名の参加者があったほか、第1研究のメンバーではないが田中氏と旧知の同志社大学教員も1名参加された。第1研究内の研究交流という意味でも、有意義な研究会であった。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
7月中に2回研究会を行い、1932年5月~6月の日記を読み進めた。
第4班
キリスト教社会問題研究と政治思想史研究の分野横断型の住谷悦治日記を用いた学際共同研究
 今月は、神田朋美氏が「初期同志社における実学教育結実の一例-安部磯雄と D.W.ラーネッド-」と題して報告した。本報告では、初期同志社の教育におけるキリスト教社会主義思想を形成する要素の有無、実態、特異性について考察された。そのきっかけとなったのが、住谷悦治日記だった。神田氏は、他者からは社会主義と見える住谷の思想の実態は民主主義とキリスト教信仰の融合なのではないか、という仮説を立て、これを検証する一つの試みとして、ラーネッドの経済学講義がキリスト教信仰をもった学生たちに与えた影響とその結実に着目するに至った。それによって住谷の思想との類似点が浮かび上がると期待されるからである。
 以上の問題意識に基づいて、以下、「安部磯雄と D.W.ラーネッド」、「社会民主党宣言書」、「キリスト教社会主義」について検討された。安部が執筆した「社会民主党宣言書」に関して、そこに謳われる理想はキリスト教の博愛主義を根幹としており、これはラーネッドの経済学講義の影響に起因するが、一方で安部とラーネッドの間には貧しい者に対するまなざしに違いがあり、これは両者の貧困経験の有無にあると指摘された。
 本報告を通じて、初期同志社の教育には、キリスト教社会主義思想を形成する要素が確認できたと結論付けられた。また、安部のキリスト教社会主義は、今日考えられる民主主義と多くの類似点を持っており、キリスト教信仰との融合が比較的容易であったと指摘された。
 以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 7月28日(金)に2023年度第4回研究会を開催し、1947年11月19、20日および11月25日から12月1日までの日記の翻刻を実施した。今回の翻刻箇所でも公職追放解除に対する訴願文書作成をめぐり、住谷と協力者とのやり取りが認識できた。協力者には恒藤恭や蜷川虎三、末川博、湯浅八郎など錚々たる名前が並ぶ。これまで公職追放解除に対して落胆した様子も記載されていたが、こうした協力もあってか、「一彦や磬が私の身分パージについて心配しているだろうと想ひつつ、早く解除になるよーうにと希ふ」(11月28日)と心情の変化も認識できる。また、この間、定例となっている尼崎労働学校での講義に加えて、滋賀県師範学校男子部(11月27日)での講演を実施している。11月30日には京都大学に赴き、恒藤恭、杉本栄一、山田盛太郎、上野道輔諸氏の講演を聴き、国家論やマルクス主義について考えを深めていたようである。
 翻刻作業後、髙久嶺之介氏作成の凡例(案)を基本とすることが、メンバー間で確認された。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 班員の田中と奥村旅人が、7月23日10時~12時、人文科学研究所共同研究室Bにおいて例会を催した。
 奥村から、6月の報告を引き継ぐかたちで、研究の進捗状況が紹介された。まずは、教育学における「労働者教育」の理論的研究、あるいは事例研究の包括的な研究史の検討がおこなわれ、60〜70年代、80年代の研究動向の推移について、労働者をめぐる時代的な背景と結び付けての把握が試みられた。続いて、教育政策における「労働者」とは誰であったか、との基本的な問いに基づいて、占領期、特に47〜48年の文部省・労働省の対立的な動向や、教育刷新委員会での審議の分析がなされた。その上で、「労働者教育」が三つの方向へと分割され、統一的な「労働者教育」という概念が崩壊していくとの見通しが示された。
 田中からは、教育基本法・学校教育法による新制の教育体制(特に、中学校・高等学校)にうまく適合できない過渡期的世代に対する教育補償という性格を「労働者教育」に見出すべきではないか、労働をめぐるGHQの政策、ならびに労働省の諮問機関的な存在の析出が課題ではないか、との意見が出された。

6月

2023年度第1回班長懇談会
 2023年6月16日13時30分からおよそ1時間程度、同志社大学今出川キャンパス至誠館3階会議室にて2023年度第1回班長懇談会が開催された(Zoomでのオンライン併用)。各班の活動状況とともに人文科学研究所による住谷日記関連資料の収集活動が報告され、研究情報の共有や複数の班での共同研究、研究成果の公表およびその時期などについて懇談が行われた。
第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 6月は、6、13、20、27日(毎週火曜日)の午前にそれぞれ約2時間、計4回のオンライン方式での研究会を実施した。
 先月に引続き1941年9月25日から10月22日までの日記を解読し、翻刻文を作成した。日記の解読は、9月後半を野村が、10月前半を林田が、同月17~22日までを関口がそれぞれ担当し、タイピングは佐々木と野村が担当した。
 この間の日記には、親しく接していた松山高商の学生が怪我療養のための帰郷から松山に戻ったことを殊のほか喜び、当該学生を含む有能な学生との交流に感謝し彼らの助力を得て自らの研究を進めようとする意欲を語るなど、教師・研究者としてのこれまで通りの住谷の生活が綴られている。その一方で、頻繁に学生たちの勤労奉仕を監督し防空演習に参加するなど戦時色の増す日常が記述され、世相の暗雲が松山での生活に落とす影を濃くしていくさまも窺われる。
 そして、注目されるのは、前年の1940年末に数名の学生たちと台湾を訪れたときの紀行文をこの時期に執筆し始め書き進めていることについての記述である。これは、当時の台湾が「南進の拠点」であったことを考え合わせれば、当班の研究テーマとも大いに関係のある事柄であるだけに、公刊された紀行文とともに精査の対象とすべきものと考えている。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
6月中に1回研究会を行い、1932年5月の日記を読み進めた。
第4班
キリスト教社会問題研究と政治思想史研究の分野横断型の住谷悦治日記を用いた学際共同研究
 今月は、望月詩史氏が「住谷悦治と松山―日記を手掛かりに―」と題して報告した。報告では、住谷悦治が松山高等商業学校で教員を務めていた時代の日記の内、報告済の1937年を除く、1938・40・41・42年(39年欠)の日記が取り上げられた。そして、内容に応じて4つに分類の上、各項目の内容紹介、補足説明の後、日記の取り扱い方と今後の研究方針に関して説明がなされた。
 前者については、松山以前・以後の日記を確認しておらずあくまでも現時点の推測の域を出ないと断った上で、住谷は治安維持法違反による検挙後、「万が一」(=検挙される場合)を想定しつつ日記を書いていたのではないかと指摘した。また、そうであれば日記に「書かれたこと」を彼の心情や真意がそのまま表明されたものとして受け取るのは非常に危ういとも指摘した。
 後者については、今後の住谷研究の方向性を再考する旨、説明がなされた。その理由として、この時期の日記によって明らかにできる事柄(主に住谷の思想に関連)がかなり限定されていること、「万が一」を想定して書かれた可能性のある日記をどこまで信頼できるのかということなどが挙げられた。
 以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 6月30日(金)に2023年度第3回研究会を開催し、1947年11月21日から24日までの日記の翻刻を実施した。今回の翻刻箇所でも公職追放解除に対する訴願文書作成をめぐり、住谷と協力者とのやり取りが認識できた。
 翻刻作業の後、翻刻を進める上での凡例の統一、ならびに今後の翻刻の進め方、成果の出し方について、メンバー間で話し合いを行った。なお、今回の研究会には本研究第1班の関口寛氏ならびに第3班の小林丈広氏がオブザーバーとして参加した。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 班員の田中と奥村旅人が、6月23日13時~15時、人文科学研究所共同研究室Bにおいて例会を催した。
 奥村から、「戦前期から占領期における「労働者教育」の展開」と題し、年鑑等のデータ的資料を駆使して作成された、戦前・戦後それぞれの時期の労働学校の全国一覧が提示された。これら全体像のなかで、住谷がかかわった大阪・京都・尼崎といった労働学校の位相を明らかにしようという意図もある。本報告について田中がコメントし、議論がなされた。
 奥村からは占領期の労働学校について、戦前期との連続性をもつ組織とともに、地方労政課による労働学校が量的に増加していること(事業が「公的」なものへと変化)、一方で、労働組合による活動は、量的には拡大しているもの、質的にみれば活発になったとは評価しづらいことなどを示した。また、「労働学校」の一元的な定義もないことを指摘した。
 田中からは、法的な位置づけの確認と、国会図書館所蔵の占領期資料の博捜の必要性が示唆された。

5月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 5月は、9、16、23、30日の4日間(毎週火曜日)の午前に約2時間、オンライン方式で研究会を実施した。
 先月に引続いて1941年9月2日から9月24日までの日記を読み、翻刻文を作成した。日記の解読は、9月前半を泉川が、後半を野村が担当し、タイピングは佐々木が担当した。
 この期間の住谷は、夏目漱石の『門』や漱石の伝記に加えて、14日に購入した『日本偉人伝』(50冊)や西洋偉人伝『世界歴史譚』(36冊)といった伝記ものを集中して読んでいる点が特徴的だ。堺利彦が書いた周布政之助の伝記を「むさぼり耽読」したという記述もみられる。このように、この間の日記からは、偉人の生涯や言葉に心動かす住谷の様子が窺える。
 勤務先の松山高商の教壇では、二年生の英書の授業で‘ Hitler Jugend’ をドイツの話をしながら読み進めたとある。このように、当時すでに第2次世界大戦下にあったドイツの話を生徒に聞かせることについて、住谷は「これ啓蒙、教育家としての一つの責務である」と記す。その真意はいかなるものであったのか、この記述だけでは判然としないが、今後も、住谷の日記から読取れる言動や、他の媒体における著述にも着目しながら理解を深めていきたい。
 なお、16日の研究会では、日記の解読・翻刻とは別に、班長が班としての中長期的・短期的活動計画を示して説明し、1時間程度参加者全員で協議した。結果、今後その計画に基づいて活動していくこととなった。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
5月中に1回研究会を行い、1932年5月の日記を読み進めた。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は5月26日(金)に2023年度第2回研究会を開催し、1947年10月19、20日、10月25日から27日まで、10月31日から11月2日まで、11月10日から17日までの日記の翻刻を実施した。今回の翻刻箇所では、夕刊京都社への辞表提出の一方で、公職追放解除を求めて、訴願文の執筆をはじめ関係者への協力依頼など積極的に活動した様子がうかがえる。11月10日には上京して、森戸辰男文部大臣と面会、その後、森戸氏の秘書官とともに適格審査委員係室にて訴願の手続き方法を確認していた。このほか11月14日には東京市ヶ谷の元陸軍士官学校跡での極東裁判に赴き、武藤章軍務局長に対する尋問を見学したことも印象的であった。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 5月31日の14時半より16時まで、共同研究室Bにて例会をおこなった。班員の奥村旅人は、悦治日記原本の所有者でもある住谷祐子氏に対して、その夫・磬(悦治二男)についての聞き取りをおこなったことを述べた。その成果について報告があり、ドロシー=デッソー、嶋田啓一郎、絲屋寿雄といったキーパーソンの名が挙がった。さらに奥村からは、中央労働学園関係の新出史料について紹介があり、その関係者をめぐって活発な討論がなされた。続いて田中より、「大学セツルメントと労働学校」との表題の下に報告がなされた。1920年代のUniversity Extentionの概念をめぐる末弘巌太郎と吉野作造との相違、さらには両者に対する賀川豊彦の位相、あるいは東大セツルメント「労働教育部」の活動についての考察が披露された。

4月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 研究会第2年度の4月は、11,18,25日の3日間(いずれも火曜日)、午前10時よりオンライン方式で3回の研究会を行い、1941年8月12日~9月1日までの日記を解読し翻刻した。日記の解読は、8月15日までを笠井が、以降同月末までを佐々木が、9月前半を泉川が行い、タイピングは野村と佐々木が担当した。
 この間の日記には、夏休みに教え子の郷里・広島を他の学生らとともに訪れた後松山に帰り、夏目漱石の『三四郎』『虞美人草』等の小説や『社会と自分』という講演集を耽読して、その思想的深さや着想の妙を高く評価していたことが記されている。著述活動としては、伊予出身の蘭学医についての著作、『三瀬諸淵伝』を執筆・脱稿したことが記述されている。そのなかで、三瀬を「『尊王開国の政治的歴史的性格』を提出した意義あり」と評価しているのが目を引く。さらに「尊王開国主義の政治的歴史的性格」という論考を書き進める一方で、竹越与三郎の『新日本史』を読んだことで、自らの幕末史に関する理解や論述の仕方に関する反省を述べる件も見受けられた。こうした一連の著述活動及び漱石への評価などに、この時期の住谷の日本の近代化に対する関心の一端が示されているといえる。
 9月1日には、「興亜奉公日」のために「隣組の人々」と神社に参拝したという戦時体制下の生活の一端を示す記述もみられる。一方で、この間もしばしば映画鑑賞を楽しむなど、時局の切迫とは裏腹の平凡で平和な生活の様子も綴られており、一色には塗りおおせない当時の日常が窺える。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
4月中に1回研究会を行い、1932年5月の日記を読み進めた。
第4班
キリスト教社会問題研究と政治思想史研究の分野横断型の住谷悦治日記を用いた学際共同研究
 今月は、2023年度最初の月例会のため、最初に班長の望月詩史氏より、今年度の運営方針、開催方式・開催日時、スケジュール案などについて説明があった。
 開催方式や開催日時などは、概ね前年度の内容を踏襲するものの、今年度からは研究の進捗状況の報告が中心となることから、報告時間と討論時間を十分に確保するためにも、月例会での報告者数を1名とする旨の説明及び提案がなされた。また、ゲストスピーカーについても、既に2名の方々に打診しており、年度内に実施できる見込みである旨の説明もなされた。
 続いて、2点の「検討事項」について説明がなされた。第一に、第1研究の他の班との連携をどうするか、第二に、仮に第4班単独で研究成果をまとめる場合、どういった構成が考えられるかである。
 以上の説明及び提案を踏まえ、参加者を交えて意見交換を行った。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は4月28日(金)に2023年度第1回研究会を開催し、1947年10月17、18日まで、21日から24日まで、28日から30日まで、11月8日、9日、18日の日記の翻刻を実施した。今回は報告者の都合により一部の日記を次回以降に翻刻することとなった。
 前回の報告に引き続き、公職追放に対する不安が日記に記載されているが、自身が執筆した「大東亜共栄圏を書かざるを得なくなった理由」の英訳を北川彰氏に依頼するなど、追放解除の訴願のため積極的になった様子もうかがえた。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 班員の田中・奥村旅人が、4月14日12時半から共同研究室Bにおいて例会を催した。
 奥村から、「戦前期住谷と労働学校-『日記』から」と題する報告がなされた。1928〜36年(欠落の1932・35年を除く)の日記から、労働学校や関連人物をめぐる記事のピックアップ成果が紹介された。『大阪労働学校史』の記載とは異なり、住谷が「経営委員会」に関わっていたことが指摘され、毎年1講座を数回(数か月間)担当していたというサイクルも明らかになった。また、関西在住の研究者コミュニティの存在(新人会OBと大原社研所員を中心とした「社会思想の会」や年長世代を含めた「政経学会」)、斎藤雷太郎や新村猛との交流の始期、友山荘同人との関係などについても、事実関係の考定が進んだ。

2022年度

3月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 3月8日の13時より約2時間、ハイブリッド方式で研究会を行い、1941年8月7~11日までの日記を解読・翻刻した。日記の解読は笠井が、タイピングは野村が担当した。夏休みであった当該期に、住谷は広島で松山高商の学生達とともに過ごしており、時には彼らの実家を訪問するなど非常に密度の高い交流がここでも窺い知れる。また、当地の国民学校を視察した記述からは、当時の学校教育において水泳指導が非常に重視して取組まれていたことがわかる。10kmの遠泳や神傳流遊泳術といった古式泳法の教授が行われていたところを、住谷らが視察している。
 以上の研究会を終えた後、15時過ぎより約2時間、昨年11月の対面研究会開催時に引続き、住谷が絶賛した映画『美の祭典』を鑑賞した。これはベルリン・オリンピックの記録映画で『民族の祭典』の姉妹編である。競技の記録としてだけでなく、競技者や競技自体を美的対象とした本作が住谷の心を打ったのは想像に難くない。また、今日の我々から見てもカメラアングルやカメラワークなど映画そのものに対して興味をそそられる点も多かった。当時の競技のあり方や参加者の特性(特に馬術は軍人が多いこと)など時代の記録映像としても重要であろう。DVDで解説を務めていた故・淀川長治氏は、『美の祭典』『民族の祭典』の公開時にユナイテッド・アーティスツ日本支社の社員として名作『駅馬車』の宣伝を担当していた。彼が語った、2つの『祭典』の評判に押され気味で悔しい思いをしたとのエピソードもまた興味深い。住谷の日記だけでなく彼が見たものを確認することは、より立体的な住谷像の描出に資するだろう。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
1932年5月分の日記の解読を進めた。
第4班
キリスト教社会問題研究と政治思想史研究の分野横断型の住谷悦治日記を用いた学際共同研究
 今月は、出原政雄氏が現時点の構想案を報告した。
 出原氏は「住谷悦治と社会主義・マルクス主義―戦前期を中心に―」をテーマに研究を進める予定である旨が説明された。報告の構成は以下の通りである。「1 住谷悦治の思想的特質について」、「2 住谷悦治における社会主義・マルクス主義との出会い」、「3 住谷悦治のマルクス主義(経済学)に関する検討課題」。
 「3」で提示された具体的な検討課題としては、①住谷悦治と河上肇の比較(住谷悦治における社会主義と民主主義の関連(あるいは経済学と政治学との関連)はどうなっているのか)、②社会主義・マルクス主義とキリスト教との関連(住谷悦治における「マルクス主義の論理と倫理の統一的世界観」)、③住谷のマルクス主義・経済学史の思想史的位相(明治・大正期の社会主義をいかに継承したのかなど)の3点が挙げられた。
 以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は3月24日(金)に第12回研究会を開催し、1947年10月6日から17日までの日記の翻刻を実施した。今回から西村卓氏が本班メンバーに加わった。
 今回の翻刻で最も印象的だったのが、住谷自身の公職追放についてである。10月8日朝に中央の公職適否審査委員会から『東亜共栄圏植民論』(生活社、1942年)と『リストの国民主義経済学』(河出書房、1939年)の二冊の提出を求められ、かなり動揺している様子がうかがえる。翌日の日記では「私も恐らく不適格を宣言されることだろう、しかしこれは止むを得ぬ、弁解はいっさいしないで黙々と後半生を送ろう」と吐露し、かなり弱気になっていたようである。また、松山高商辞職後、4年前の昭和18年10月9日に京都に戻ったこと、さらには戦争において家族が無事だったことが振り返られる。その後の対応や感情の揺れ動きに注意しながら、以降の日記を読み進めていきたい。
 そのほか本班のテーマである京都のまちとの関係については、妻と見学した島原太夫道中(10月17日)の様子を記述した日記が興味深かった。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 班員の田中・奥村旅人が、3月14日14時~15時半、人文科学研究所共同研究室Bにおいて例会を催した。
 前月に引き続き、奥村の研究についての田中からのコメントを中心に、議論がなされた。
 戦後の京都人文学園創設に関わり、住谷と対比的に奥村が取り上げる新村猛の発言は、「日本の近代的再構築」を志向する丸山真男の「近代主義」的なものである一方、前近代的な緒方塾を志向したもののようでもあり、福沢・慶應の実学批判のようにも読めるとの見解が田中から示された。続いて、いずれにせよその発言は、「反ファシズムの立場からの学校教育のあり方に対する批判」(奥村)というより、より長い近代批判と捉えることが必要ではないかと指摘され、「労働学校」を、「私塾」「私学」との比較の上に捉えることの有効性も示唆された。
 知識人の言説≒マルクス主義的な価値判断から距離を置きつつも、目下、生命力を失いつつあるようにみえる「知識人」「労働者」の用語・概念を用いて、「労働学校」にまつわる歴史事象を解釈する視角・方法をいかに培えばよいのかが、総合的に議論された。

2月

2022年度全体会
 2023年2月20日13時からおよそ2時間程度、同志社大学今出川キャンパス良心館207教室にて2022年度全体会が開催された(Zoomでのオンライン併用)。参加者は20名(事務職員3名含む)であった。各班代表者から2022年度の活動実績ならびに2023年度の活動計画が報告され、その後、参加者全員で懇談が行われた。懇談では各班同士の交流が提起され、たとえば「住谷悦治と映画」をテーマとするなど、各班による翻刻や研究の成果を結集させることで新しい発見が生み出されうるとの意見もあった。人文研としては、全体会を年間で複数回企画することや共同での公開講演会の開催など、研究班同士ならびに研究会全体の交流を促進する仕組みを整備していくことが示された。
第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 今月は1月に続き1941年7月27日から8月6日までの日記を解読し、翻刻文を作成した。研究会は、14、28日の火曜日の午前に約2時間、オンライン形式で開催した。日記の解読は7月下旬を関口、8月初旬を笠井が担当し、タイピングは野村が担当した。
 当該期の住谷は広島を訪れ、同地の識者や出身学生と交流するなどして夏期休暇を過ごしている。また夏目漱石の評論やV・ユゴーの作品を耽読するなど、教養人・住谷らしい一面も覗かせている。その一方、従前同様に各地で統制経済の講演を行っている。繰り返し要請に応じる中、「準備なしでも四時間、五時間の講演は手ばなしで出来る」と自負するほど時局との関わりを深めていく姿も窺われた。また訪問先の広島では国民学校の生徒の「軍歌行進」を目にして「実にヒットラー ユーゲントの訓練に類似した錬成振り」と評価するなど、その時局認識についても解明するべき点があると思われた。今後も慎重かつ丁寧な解読作業を続けたい。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
1932年5月分の日記の解読を進めた。また、研究会の全体会合に出席し、今年度の作業の進捗状況を報告した。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は2月24日(金)に第11回研究会を開催し、1947年1月から9月までの日記(ファイル)の後に添付されたメモや手紙類、ならびに1947年10月1日から5日の日記の翻刻を実施した。前者については、原稿料送金を知らせる電報や差出人不明の手紙裏面(おそらく長男の一彦氏から)、人名と本のタイトルが羅列したリスト(おそらく本の貸し出しリスト)、身長・体重記録が含まれていた。10月以降の日記の方からは、労働学校の第一期卒業式、開講式(10月1日)、福知山鉄道局婦人部での講演(10月2日)、社会党青年部での講義(10月4日)を行ったことがわかる。また、10月5日の日記では「新聞社の代表取締を辞任したので気持が楽々」とある一方で、同日記の末尾には「新聞社のこと、不愉快極まる。行きすぎの労働組合をただ軽蔑」と記載され、新聞社に対する複雑な感情がうかがえた。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 班員の田中・奥村旅人が2月13日に対面にて、奥村の研究成果(博士学位請求論文「自己教育の空間・場所としての労働学校 知識人と労働者による教育空間への意味付けの検討を通して」)について、京都大学教育学部棟において議論した。
 奥村は本論文の後半にて、戦前・戦後を通じて住谷が関わり続けた労働者のための学校―大阪労働学校・京都人文学園・京都労働学校―を分析素材とし、知識人の側による「場」の解釈と、労働者の側による「場」の解釈の違いを指摘している。さらに前者については、国の教育政策と知識人の教育観との相剋についても言及している。そこで具体的に分析されるのが、例えば、戦間期において大阪労働学校創設に関わった賀川豊彦の言説である。田中は、賀川の発言は1922年の大学令公布(1918年)の数年後であることをもっと意識してよいのではないか、そもそも学歴とは距離のある人生を送った賀川であるが、「帝国大学」を批判したかったのか、私立大学も含めての「大学」批判であったのかを見極める必要があるのではないか、と指摘した。

1月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 今月は、先月に引続き1941年7月2日から26日までの日記を解読し、翻刻文を作成した。研究会は、4回(10、17、24、31日)、いずれも火曜日の午前中に約2時間、オンライン方式で開催した。日記の解読は、7月前半を林田が、後半を関口が行い、タイピングは野村と佐々木が行った。
 当該期間の日記からは、学生を学校の都合に使うような勤労奉仕に対し学生とともに憤る住谷の姿や、卒業生の出征に際して「現代青年の運命」を悲しむ姿などが浮かび上がってくる。時局に対して明確な抵抗をせず、むしろ協力的な行動が目立つこの時期の住谷だが、こうした日常の些細な記述のなかに、彼が抱えていた葛藤や違和感の断片をみることができる。
 また、住谷は、時々英語やドイツ語で日記を書いている。それはたいていの場合、原稿料や講演謝礼など臨時収入に関する内容を記述する場合である。例えば「講演の謝礼をsparenした」(7月8日)といった具合である。しかし、仮にこれが臨時収入を家族に隠す意図によるものであったとすれば、その意図は果たされていないといえよう。ドイツ語を解さずとも、「謝礼」を住谷の思うように処理したことを文脈から推測できるからである。慎重であろうとしながら、自らの行動を正直に記述しようとする住谷の綻びをみるようで、人間味を感じさせ微笑ましく思われる。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
1932年の記事について、それぞれの担当箇所を読み進めた。
第4班
キリスト教社会問題研究と政治思想史研究の分野横断型の住谷悦治日記を用いた学際共同研究
 今月は、平野敬和氏が現時点の構想案を報告した。
 平野氏は「吉野作造と住谷悦治」をテーマに、住谷が東京帝国大学法学部に入学する前後の時期から1920 年代にかけての時期について、吉野作造との関係に注目し、その思想的特徴を明らかにすることを目的に研究を進める予定である旨が説明された。そして具体的な検討課題として、①住谷がどのような研究者から影響を受けて思想形成を行ったのか、②社会主義思想受容の過程(河上肇、櫛田民蔵)、③住谷と同世代の研究者との比較(新人会)、の3点を挙げた。
 以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は1月27日(金)に第10回研究会を開催した。1947年9月10日から9月30日までの日記翻刻を実施し、その内容を全メンバーで確認した。この間、「ミス京都」選定(9月10日、グランド劇場)および授賞式(9月15日、京都新聞会館)、米軍用の休養施設であったラクヨ―ホテル開館式(9月23日)、蜷川虎三氏の妻の葬儀に出席(9月24日)、同志社卒業式(9月27日)など、住谷の活動は多様であった。また、滋賀県労働委員会(9月20日)や向日町の労働学校(9月25、26日)での講演、講義に加えて、9月29日には放送局にて藤谷俊雄氏や奈良本辰也氏、絲屋寿雄氏とともに「明治維新における京都」について語ったことも確認できた。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 班員の田中智子・奥村旅人が各自の課題に関して、それぞれに作業を進めた。
 田中は、住谷が竹中勝男とともに編者と明記された『街娼 実態とその手記』(1949)について、調査・研究主体は京都社会福祉研究所であり、同所を通じ、同志社大学教員陣が主導する立場にあったことを確認しつつも、京都大学医学部精神科教室に所属する荻野恒一・鈴木義一郎・杉本直人、また西京大学(現在の京都府立大学)の作田啓一(後、京都大学へ異動)が関わっていたことにも注目し、心理分析の分野を京大が請けもつ形であったと類推した。また、住谷が「第一篇・街娼概観」に寄せた、「迷路に舞踏するもの」と題する論考を検討し、女性を「経済的な独立と自由を得ることができないために、社会的・経済的に、同時にまた男性に、奴隷的な地位に押しやられたり、玩弄物となったり、機械のような立場に置かれている」と観る立場から、「人の妻」「職業婦人」「売淫婦」に分類してその特性を分析している点を検討した。
 奥村の研究成果については、2月に対面にて議論することとなった。

12月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 今月は11月に続き1941年6月16日から7月1日までの日記を解読し、翻刻文を作成した。研究会は、6、13、20日の火曜日の午前に約2時間、オンライン形式で開催した。日記の解読は6月下旬を佐々木、7月初旬を林田が担当し、タイピングは林田と関口が担当した。
 当該期の日記では、住谷が県商工課や県警察部の依頼を受けて市民や常会指導者、巡査らを対象に「経済統制」に関する講演・講習を行い、常会指導者との座談会にも参加するなど、時局との関わりを一層深めていったことが窺われた。これらの活動は「新商業道徳」樹立という政府のキャンペーンに沿ったもので、住谷がそうした活動に精力的に取組む姿が垣間見えた。また、勤務する松山高商でも、学生に向けて「統制経済」を「広域経済」と関連づけながら論じている。同年に刊行された森戸辰男『独逸労働戦線と産業報国運動』(改造社)や阪本勝『新世界観の構想』(栗田書店)についても関心を寄せながら読み進めており、当該期の住谷の時局認識を理解するうえで、これらの著作についても今後検討していくことが必要と思われた。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
1932年4月29日から5月5日の記事の読み合わせを行った。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は12月23日(金)に第9回研究会を開催した。1947年8月15日から9月9日まで、加えて9月22日から23日までの日記翻刻を実施し、その内容を全メンバーで確認した。日記からは、この間、各所で講演活動に精力的であったこと(大津教育委員会夏期講習会(8月19日)や彦根での教職員向け講演会(8月20日)、大津労働学校(8月23日)、京都大学文学部主催職業教育講習会(8月25日)、島津製作所(8月26日)、東本願寺(8月30日))、自身の体調問題や家族のこと、映画鑑賞に加えて、冨田フサ氏(医師、政治家)や湯浅八郎氏(同志社第12代総長)、木原均(遺伝学者)などとの交流が印象に残った。また、表明していた代表取締役の辞意を一時撤回するなど、夕刊京都社内の立場がいまだ不安定な状態であったこともうかがえた。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 12月21日15時より共同研究室Bにて、班員の田中智子・奥村旅人とで研究会をおこなった。
 奥村は、「史資料・先行研究にみる戦後労働学校」と題し、①「労働者」に対する教育活動の担い手として、文部省・内務省・協調会・労働組合・無産政党・労働学校の各主体を挙げることができる。②先行研究が少なく史資料の発掘も遅れている。③戦前と戦後の連続性、断絶という視角の可能性、の三点にそって議論を展開した。その上で、「住谷と労働学校、その他社会教育活動」として、日記にみる1946年中の住谷悦治の関連活動が一覧として提示された。個々の事実をもとに、人文学園の扱いの小ささ、あるいは集いの場としての友山荘の存在感が指摘された。
 田中からは、先月来、研究課題とするところの「住谷悦治と女性」に沿って、京都社会福祉研究所とその構成員(京大・同志社大の学者、京都府行政関係者、医療関係者)GHQとの関係など指摘された。

11月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 11月は、1、8、15の3日間(毎週火曜日)の午前に約2時間、オンライン方式で研究会を行った。加えて22日には、午後2時より約2時間、初めて対面で研究会を行った後、さらに約2時間、DVDでの映画鑑賞会を実施した。
 研究会では、先月から引続き1941年5月26日から6月15日までの日記を読み、翻刻文を作成した。日記の解読は、5月下旬を笠井が、6月上旬を泉川が担当し、タイピングは佐々木と野村が担当した。
 この期間の日記で特に重要であると思われ、議論になったのは、「南方協会」から住谷に何らかの接触があったことを示唆する記述や、住谷が「常会」指導者ら向けの講演会のために県内各所を訪れて「統制経済」について講演したとの記述がみられたことである。当班の研究テーマは、住谷の「『南方』認識」に関係したものであるが、「南方」に直接関係のある記述は、これまで読んできた1940、41年の日記のなかでは、今回が初めてであった。また、県や市を通じての講演依頼を受けて隣組の連合組織である常会の指導者たちに「統制経済」を説いて回る住谷の姿は、時局の傾きとそれへの住谷自身の身の処し方並びに思想を表していて興味深く感じられた。
 22日の映画鑑賞会では、ベルリン・オリンピックの記録映画二編のうちの一編である『民族の祭典』(リーフェンシュタール監督)を観て感想を述べ合った。住谷の1941年5月の前半の日記に記述のあった『美の祭典』の姉妹編である。『美の祭典』への住谷の心酔ぶりは、『民族の祭典』に対しても同様であったであろう。すでに欧州で戦われていた第2次世界大戦の戦況と重ねて、住谷がこれらの映画に何をみていたのか知りたいと思った。戦争との関わりはあえて避けたのか、意識になかったのか知る由もないが、日記では触れられていない。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
 1932年の日記の研究会を行い、4月18日~28日の日記を解読した。
第4班
キリスト教社会問題研究と政治思想史研究の分野横断型の住谷悦治日記を用いた学際共同研究
 今月は、加藤博史氏が現在執筆中の住谷論について報告し、梶居佳広氏が現時点の構想案を報告した。
 加藤氏は「住谷悦治をめぐる国家主義とその批判思想」をテーマに、多くの知識人が国家主義に傾斜する中で、住谷が国家主義批判の姿勢を堅持した思想的背景を明らかにすることを目的とした論文を執筆中であり、この中で住谷と同世代の赤松克麿、蓑田胸喜、岸信介の思想を取り上げて住谷の思想と比較考察している。加藤氏は、住谷は「黙し巧妙に身を隠すこと」を通じて戦争に「抵抗」したと結論付けた。
 梶居氏は「住谷悦治の(日本国)憲法観について」をテーマに、日記を用いながら、敗戦後の『京都新聞』『夕刊京都』の論説記事のうち、住谷執筆分を特定する作業を進めることや、その他の著作の検討を通じて、天皇制、社会権(25~28 条)及び財産権(29 条)に関する彼の見解を明らかにする予定であると説明した。
 以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は11月25日(金)に第8回研究会を開催した。1947年7月31日から8月14日までの日記翻刻、および前月も対象とした8月6日から7日の日記の間に挟まれていた12月9日の日記の翻刻、葉書やメモ類の読解を実施し、その内容を全メンバーで確認した。前者の7月末から8月中旬の日記の翻刻箇所では、天橋立での夏季大学講演(7月31日)や府立高女での森戸辰男氏(当時、文部大臣)と一緒に講演したこと(8月6日)が書かれていたが、後者においては講演後、森戸氏と大阪まで車に同乗、教職員適格審査について語った模様。そのほか、占領軍のミセス・パトナム氏とともに、戦災孤児のための施設の指月寮や児童養護施設の和敬学園などを見学したこと(8月14日)も印象に残る記載であった。一方で、日記の間に挟まれた資料のうち12月9日の日記では上京し、自身の公職追放の嫌疑をはらすための活動の様子が読み取れる。そのほかの資料としては、長男の住谷一彦氏や出版社からの葉書に加えて、滝川事件後の京都復帰教員に関する田畑磐門氏の証言メモ(執筆者不明)も含まれていた。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 班員合同での研究会はおこなわなかったが、班長の田中が、占領期の悦治の著作について以下のような問題提起的検討をおこなった。悦治は1948年、『自由民権女性先駆者 楠瀬喜多・岸田俊子・景山英子』と題し、京都の発行所から小冊子を上梓した。新憲法第14・24条の公布を契機に、「婦人の自覚と解放への坦々とした道を開いた」人物として、自由民権運動下の彼女らを評価したゆえである。政治的解放を目指した近代日本女性の模索の足取りが「多くのわが国の民衆には殆んど忘れ去られてしまつた」との認識に基づいた、戦後的啓蒙書であった。当時の男性研究者の日本近代女性史への着目事例として、井上清や村上信彦に先立つ点は注目に値する。かつ、悦治は翌年、竹中勝男とともに『街娼 実態とその手記』と題する一種のルポルタージュを世に問うた。悦治理解のためにはその女性観の検討が欠かせないことは、経歴からも容易に窺われるところであるが、両著作の対比の上に、その「女性史観」について、総合的・批判的に検討されるべきときにきている。

10月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 10月は、4、11、18、25日の4日間(毎週火曜日)の午前に約2時間、オンライン方式で研究会を行った。
 先月に引続き1941年5月5日から5月25日までの日記を読み、翻刻文を作成した。日記の解読は、5月上旬を関口が、下旬を笠井が担当し、タイピングは佐々木と野村が担当した。
 この期間の日記には、勤務校における講義の内容や学生たちとの交流の様子、自身の家族との関わりや趣味としての映画鑑賞といった住谷の日常が記録されている。同時に、こうした日々のなかでも、締切りに追われながら自身の論文「統制経済と自由経済」を執筆する姿が、不安や責任感といった心情とともに表出されている点が特徴的である。
 また、住谷はこの時期、リーフェンシュタール監督のベルリン・オリンピックの記録映画、「美の祭典」の試写会に赴き、その美しさに陶酔している。学生にも、授業中にその感激を語り、鑑賞の心構えを説くほどであった。第二次大戦後はナチスドイツのプロパガンダとして一般に受止められてきた作品であるが、住谷の日記からは、当時、日本の一知識人がこの映画をいかに賞賛とともに受止めたのかを窺い知ることができて興味深い。
 今後も、住谷の文化受容や日記におけるその表現に着目しながら、読解を進めていきたい。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
 住谷日記1932年4月8日~17日条の読み合わせを行う。
 日記に出てくる「構成劇場」の台本を入手できたので、その内容を点検する。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は10月28日(金)に第7回研究会を開催した。1947年7月16日から7月28日までの日記翻刻および8月6日から7日の日記の間に挟まれていたメモ、12月7日から10月9日(12月の間違いか)までの日記翻刻を実施し、その内容を全メンバーで確認した。前者の7月中の日記の翻刻箇所では、労働学校や尼崎労働学校での講義や進駐軍の新聞記者の取材(未遂)のほか、7月18日から25日まで上京し、第1回全日本民主主義文化会議(於:慈恵大学)への参加を終え、その後、群馬に帰郷したことが記されている。帰洛後、7月28日に「全日本民主主義文化会議の意義について」という社説も執筆している。後者のメモおよび12月中の日記では、自身の公職追放の嫌疑をはらすべく上京、社会党関係者への面会などの活動の様子がうかがえ、興味深い。この点、引き続き記述が続くようなので、次回の翻刻でも注意して取り組んでいきたい。

9月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 9月下旬、夏季休暇期間を終えて研究会を再開した。今月は、20、27日(毎週火曜日)の午前に約2時間、オンライン方式で研究会を開催した。1941年4月18日から5月4日までの日記を読み、翻刻文を作成した。日記の解読は、4月下旬を林田が、5月上旬を関口が担当し、タイピングは野村が担当した。
 当該期間の日記では、新学期に入って授業が始まり、経済学に関する用語や人名が頻出している。また、絵画・工芸・文芸・映画と広く芸術に対して知識と関心をもっていたことを窺い知ることのできる記述も目立つ(4月22日、「一寸したいヽ壺」を購入。4月29日、絵画史について語る)。
 これまでと大きく変わらない日常に関する記述が大半を占める一方で、当該期間直前の4月17日には「報国団」、当該期間に入ってからは「絵画班」や「学術班」など「団」や「班」といった学内組織への言及が新たになされている。
 戦時色が濃くなっていくなかで、学校現場はどのように変化していくのだろうか。学徒出陣の開始もこの後に控えている。そうした時代にあって教師としての住谷はどのような態度をとるのだろうか。そして、それはどのようなかたちで日記に表れるのだろうか。こうした点にも関心をもちつつ、今後も解読を進めていきたい。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
それぞれの担当箇所の翻刻を進め、今後の打合せを行った。
第4班
キリスト教社会問題研究と政治思想史研究の分野横断型の住谷悦治日記を用いた学際共同研究
 今月は、河崎吉紀氏と大園誠氏が、現時点の構想案について報告した。
 河崎氏は「住谷悦治とメディア──1933年の日記を中心に」をテーマに、知識人として住谷悦治がどのようにメディアと関わったのか、また戦前期の知識人と思想を公表する舞台(メディア)との関係を日記の分析することで明らかにする方針であると説明した。そして現在の進捗状況と今度の予定についても説明があった。
 大園氏は「戦後日本における知識人としての住谷悦治~住谷悦治の思想と行動を手がかりに~」をテーマに、住谷と同じ(似た)立場にあった同時代人「知識人」として、戦後日本において大学の「総長/学長」を経験した人物を取り上げ、それぞれの「異同」(共通点と相違点)を明らかにすることで、何らかの「類型」(タイプ区分)を設定する方針であると説明した。そして現時点では、南原繁、隅谷三喜男、末川博の三名を比較対象として取り上げる予定であるとのことである。
 以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は9月2日(金)と9月30日(金)に第5回、第6回研究会を開催した。2回の研究会を通じて、1947年6月5日から7月15日までの日記翻刻を実施し、その内容を全メンバーで確認した。今回の翻刻箇所では、6月18日から6月25日の間、住谷は愛媛県松山市に出かけている。その間、知人との面会のほか、日本銀行松山支店や東洋レーヨン、伊予郡松前町にある真言宗智山派の寺院宗通寺(日記では来通寺と誤記?)での公開講演、愛媛新聞社や松山経済専門学校への訪問などを行なっていた。その他に目立った内容としては、労働学校開校式(7月1日)、夕刊京都新聞社社屋移転(7月2日)、尼崎労働学校委員懇談会(7月5日)、黒田謙一氏葬儀(7月7日、同志社)、後の「街娼調査」において協力関係のあった占領軍のミセス・パトナム氏との厚生問題に関する対談(7月8日、京都府庁)、危機突破国民大会(7月12日、円山公園)への出席などがあった。この時期の講演活動としては、桃山中学校(7月2日)や貯金局(7月4日)で行っていた。またこの間、ロマンロランの『魅せられたる魂』を耽読しており(7月13日に第五巻読了)、その感想も日記に記載されていた。なお、今回の翻刻箇所でも月の表記に間違いが複数箇所見られた。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 9月1日10時より、研究会員の田中と奥村旅人が人文研共同研究室Bにおいて、研究会を実施した。
 まず奥村より、8月中旬に群馬県立図書館や法政大学大原社会問題研究所にておこなった史料調査の概要報告を得た。県立図書館では、住谷文庫受入当時の職員の退職以後、史料の状況がわかりにくくなっていることの問題点があらためて指摘された。
 田中からは、同志社の教員による絵画展覧会の事務局をつとめ、関係教員(恒藤恭、有賀鐵太郎ら)に出品を依頼する悦治書簡の発見が伝えられ、新村出・猛邸も含め、下鴨・紫明界隈の学者村(公私にわたる人脈)の存在が話題となった。また絵画や音楽といった彼らの教養についても話が及んだ。また、同じくクリスチャンであっても、キリスト教との関わりには濃淡があることも議論された。
 奥村より、京都における労働者学校について、悦治に続き次男の磬が校長を引き継ぐことから、磬氏についての聞き取りをおこないたいとの希望があり、次回の研究会で企画することにした。

 9月26日11時より、人文研共同研究室Bにおいて、研究会を実施した。
 住谷悦治と次男の磬が関与した戦後京都労働学校について、奥村旅人より、別班の高久嶺之介氏へのインタビューを行った。氏は1982年から2000年の間、断続的に8学期、「日本史」の講義を担当していた。主な質問内容は、
(1) 1982年に京都労働学校の「校長」を務め、かつ同志社大学での同僚でもあった住谷磬の思想や活動、人物像、
(2) 京都労働学校と労働運動との関係、である。
 高久氏からは以下の回答を得た。(1):磬は被差別部落の調査研究を熱心に行っていたが、特定の党派の労働運動には参加していなかった。(2):京都労働学校は「労働学校」という言葉の雰囲気には合わず、「市民大学」とでも呼ぶべきものであった。
 以上より、少なくとも1982年以降の京都労働学校は、労働運動との関係性を薄め、高等教育を「市民」に向けて「開放」する機関という側面を有していたと推測した。

8月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 今月は、先月に引続き1941年4月11日から4月17日までの日記を読み、翻刻文を作成した。研究会は、夏期休暇に入るということもあり、2日(火曜日)の14時から約3時間半オンライン形式で開催した。日記の解読は、4月15日までを野村が、以降を林田が担当し、タイピングは佐々木が担当した。また、今後の方針の確認及びスケジュールの調整を行った。
 当該期間の日記では、新学期を迎え、学生に対する講義への熱意と責任感が示されていた。その内容は、社会政策や統制経済といった、当時の住谷が取組んでいたテーマのみならず、学説史や方法論など多岐にわたるものであった。
 また、台北帝国大学に入学予定の学生が来訪し、その学生のため、同大学の知己に対して下宿先の便宜を図るよう依頼する等、学生の実生活への援助も行っていた。研究会では、当時の台北帝国大学の状況とその位置づけ、特に「南進論」とのかかわりについての議論が交わされた。
 こうした彼の学級活動や学生との関わりから、教育者としての住谷像にも注目しつつ、今後も読解を進めていきたい。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
研究会はおこなわず、それぞれの担当箇所の翻刻を進めた。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 8月1日13時半より、研究会員の田中と奥村旅人とが人文研共同研究室Aにおいて研究会を実施した。
 今回は、「労働者の学び」の歴史を研究する奥村の、これまでの業績についての検討をおこなった。①戦前期に住谷悦治が講師をつとめた組織として大阪労働学校があるが、この学校に同じく関係した賀川豊彦や森戸辰男の思想分析、また労働者側の山崎宗太郎の口述記録の分析を試みた論考。②京都勤労者学園・京都労働学校の運営や教育目的についての、聞き取りを活用した論考。これらを通じて、労働学校をめぐる、知識人側と労働者側との意識のずれが確認され、その画期が、占領期から高度経済成長期に生じたとの見通しが示された。その上で、京都での労働者学校の運営とそこでの教育に関与した住谷悦治を素材とすることの展望も示唆された。
 一方で、指摘される「階級闘争史観の限界」あるいは「労働者の生活世界」について、具体的な内容が問われた。

7月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 今月は、先月に引続き1941年3月23日から4月10日までの19日分の日記を読み、翻刻文を作成した。研究会は、5、12、19日(毎週火曜日)の午前に約2時間オンライン形式で開催した。日記の解読は、3月下旬を泉川が、4月上旬を野村が担当し、タイピングは佐々木が担当した。
 当該期間の日記では、入試や採点といった学務に追われる住谷や当時の松山高商の姿が浮かび上がる。そこから研究会では、現在とは異なる当時の複線的な学制について議論が交わされた。また、群馬に帰省した際の日記で、船や鉄道等当時の交通手段の利便性などが詳細に記されている。福岡への地方入試出張や病臥する親類への見舞い、また叔父である天来への訪問の際の記述などが特徴的である。加えて、戦時色が深まりつつある情勢のなかでも、私生活では、寿司、映画、温泉、学生との交流によってゆったりとした生活を送っていたことが窺い知れる。研究会では、毎回、議論すべき点は多岐にわたるが、こうした生活実態とともに住谷像を結べるよう今後も読解を進めていきたい。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
研究会を2回おこない、1932年3月24日~4月7日までの日記の輪読を行い、翻刻を確認した。
第4班
キリスト教社会問題研究と政治思想史研究の分野横断型の住谷悦治日記を用いた学際共同研究
 今月は、神田朋美氏と佐々木結氏が、現時点の構想案について報告した。
 神田氏は、現在、複数のテーマ(住谷の教育観、住谷と同志社)を候補として考えており、各内容について報告した。また、住谷とD.W.ラーネッドについても関心があり、その理由や問題関心などについても併せて報告した。
 佐々木氏は、「住谷悦治とキリスト教」をテーマに、彼が「いかなる意味でクリスチャンだったか」に焦点を当てる予定であると報告した。また、既に収集している複数の史料(住谷がキリスト教について言及しているものなど)も紹介した。
 以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は7月29日(金)に第4回研究会を開催した。5月22日から6月4日までの日記の翻刻を実施し、その内容を全メンバーで確認した。今回の翻刻箇所でも、夕刊京都社の活動のほか、これまで同様に、鉄道職員会館や大阪鉄道局、四日市の東洋紡績での講演会活動や京都市文化団体協議会などの各種会議などへの参加など、多忙な状況が読み取れた。また、恒藤恭や伊谷賢蔵なども参加する淇奥会(詳細不明)での会合(5月25日)や、丸物百貨店で開催された博覧会で川端道喜との遭遇(5月26日)、中国の剥篆師(篆刻家のこと?)銭痩鉄氏の歓迎会(於:岡崎つる家)での谷崎潤一郎や画家の福田平八郎、三輪晁勢、歌人の川田順などとの交流(5月30日)、松坂の本居宣長旧宅訪問(6月3日)などが印象に残った。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 7月5日(火)の15時から共同研究室Aにて、班員田中・奥村による例会をおこなった。
 新村出記念財団所蔵の住谷悦治発書簡は計8通(1952〜1965)あり、両者の間に私的な交流があったこと、年長の新村に宛てて、住谷が研究や教育活動のあれこれ、あるいは日常の種々の所感を伝えているさまが確認された。田中は各書簡の読み下しをおこなった。
 また、占領期の住谷の日記を通覧した奥村の報告をふまえ、多様な「学校」に彼が関係していることが話題となった。これまでの住谷についての研究や評伝では、その具体像は必ずしも明らかにされていない。さらには、学校の存在自体が知られていない現状である。今後、奥村が具体的に研究を進めていくことが確認された。そのためには1953年と1955年の日記にも目を通す必要があることから、この二年間(三冊)の日記の複写をあらたに申請した。また、1954年のように、所在が不明な年の日記の再調査が必要であることについても議論が及んだ。

6月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 6月は前月に続き1941年2月26日から同年3月22日までの約1ヶ月分の日記を解読し、翻刻文を作成した。同月もオンライン形式で毎週火曜日にあたる7日、14日、21日、28日に定例研究会を開催した。日記解読は、2月下旬を笠井、3月前半を佐々木、3月下旬(22日まで)を泉川が担当した。また佐々木、林田、野村がタイピングを担当した。当該期の日記には、1937年に人民戦線事件で検挙された山川均について、悦治が山川菊栄と書翰を交わすなど、戦時色の深まりを感じさせる記述が目立った。悦治も依頼を受けて松山の漁業関係者や青年学校生に統制経済にかんする講演を行っている。また内外の映画や刊行された書籍について記したコメントなどから、悦治の時局認識について参加者の間で意見が交わされた。一方で戦時下にあっても日常的に住谷家には松山高商の学生が出入りし、寝食を共にするなど濃密な交流の様子が窺われ、悦治の教育への情熱を窺わせる内容にも興味が惹かれた。こうした関心を継続しながら今後も解読を進めたい。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について 
研究会をおこない、1932年3月16日~23日までの日記の翻刻を確認した。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は6月24日(金)に第3回研究会を開催した。4月21日から5月21日までの日記の翻刻を実施し、その内容を全メンバーで確認した。なお、今回から井上史氏がメンバーに加わった。今回の翻刻箇所では、大丸で開催の「新憲法普及展」見物(4月28日)、弥栄会館で開催された京都府、市による新憲法祝賀会参加(5月3日)、京都商工会議所講堂にて憲法祝賀記念講演会、蜷川虎三氏らと講演(5月4日(日記では4月と記載))、勤労婦人聯盟での憲法講演(5月16、17日)など、新憲法との関わりが読み取れた。そのほか、結婚記念日(5月5日)、夕刊京都創刊1周年記念(5月10日)、波多野鼎令息の結婚式(5月14日)、人文学園入学式(5月18日)、府庁での花柳病予防委員会(5月21日)など、多様な行事に参加しており、公私ともども多忙であったことがうかがえた。

5月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 当月は、先月より引続き、1941年の日記の1月下旬から2月下旬までのほぼ1ヶ月分を読み、翻刻文を作成した。開催日は定例化した毎週火曜日午前中の2時間で不変であったが、連休中の3日は休みとし、10,17,24,31日の4回開催した。日記の読解は、1月下旬の数日分は関口が先月から引続き担当し、2月1日~14日は林田が、15日から28日までは笠井が担当し25日まで翻刻を進めた。タイピングは、佐々木と野村が2回ずつ分担した。日記文中で言及されているいわゆる「新体制」論や、住谷の「経済原論」「経済学史」等の科目での講義内容や使用テキスト等の問題をめぐって、今月の4回も毎回活発に議論した。前者については、関口が、後者については笠井が議論をリードした。また、崩し字の読み方等についても、関口や野村が日本近現代史を専門としているという優位点を生かして、読み・翻刻の精度を上げることに貢献している。笠井は、欧米の経済学説を主要な研究対象としているため、これまで日本人の書いた日記を読んだ経験がないとのことであったが、上述の通り2月下旬分から読解にも挑戦している。これから先も、5人で太平洋戦争突入前夜の緊迫した空気を追体験し共有していくことに興趣が尽きない。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
日程が合わず、研究会は行わなかった。
第4班
キリスト教社会問題研究と政治思想史研究の分野横断型の住谷悦治日記を用いた学際共同研究
 今月は、望月詩史氏が現時点の構想案について、以下の内容に基づいて報告した。
  1. テーマ案:住谷悦治と松山――松山高等商業学校時代(1937-1942年)の日記を手掛かりに
  2. 目的:松山時代(1937-1942年)の住谷悦治について、日記を手掛かりに、住谷の「性格(人柄)」、「思想」、「風土の影響」を明らかにする。
  3. 方法:日記の解読など
  4. 現在の進捗状況:1937年分の日記は精読し、概要を昨年報告。38年分は精読中。
  5. 今後の予定:年度内に1938年分+αの日記の概要を報告。次年度に1940・41・42年の日記の概要を報告+1937年から39年までの著作などについて報告。
 以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 今月は5月20日(金)に第2回研究会を開催した。4月5日(日記では5月5日と記載されるが、内容から4月5日と判断)から4月17日までの日記の翻刻を実施し、その内容を全メンバーで確認した。今回の翻刻箇所で印象に残ったこととして、戦前は同志社大学教授、戦後は九州大学教授や社会党の国会議員として活動する波多野鼎氏の息子の結婚の世話をすること、京都府知事、市長選や参議院選挙のこと、夕刊京都社の株主総会にて住谷氏が代表取締役に選任されたこと、滋賀・石山の鉄道局寮での講演などがあった。また、家族のほか、牧野英一氏や福井謙一氏との交流も書かれていた。なお、この間、日付の間違いや日付の順番通りに記載されていないこと、赤鉛筆での線引きが目立った。
第6班
占領期の住谷悦治―同志社・キリスト教界・大学界における―
 研究会員の田中と奥村旅人とが人文研において、1946〜1952年の日記の複製をおこなった。続いて共同研究室Aに場を移し、研究会を実施した。
 まず、従来、住谷悦治の「労働学校」への関与については、大阪労働学校および京都労働学校で講義を行っていたことを示す史料が紹介されるにとどまっていることが確認された。また「自由大学」についても、魚沼自由大学で講義を行っていたことを示す史料が紹介されているのみであることも確認された。そして、これらはすべて戦前期の活動であり、戦後の活動については全くといっていいほど検討されていないとの見解に達した。
 このような見通しに基づき、今後の研究計画を立てた。直近の具体的作業としては、同様の社会教育に関与した知識人・新村出に着目し、その遺族が運営する新村出記念財団(烏丸紫明)での調査を行うこととした。住谷の書簡を収集・解読する作業は個々に進めておき、次回の研究会にて成果を持ち寄り、共同分析することとした。

4月

第1班
『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識
 当班は、「『大東亜共栄圏植民論』執筆前後の住谷悦治の「南方」認識」をテーマに、昨年1年間、1940年の日記の翻刻に取組み、一通り翻刻作業を終えている(上半期は林田と泉川普で、下半期は林田と佐々木結で翻刻作業に当たった)。それに引続いて、新たに部門研究会としてスタートを切るに当たり、林田、関口寛(以上、人文研)、笠井高人(本学経済学部)、佐々木結(神学研究科院生)と研究補助者の野村さなえ(文学研究科院生)の5名で第1班としての活動を開始した。研究会開催日は毎週火曜日午前を定例とし、4月5日から26日までの4回にわたり毎回2時間のペースを守って活動を続けた。活動の形態は、昨年度の1940年に引続いて1941年の日記を1月1日から読み、翻刻文を作成するというシンプルなかたちである。すべてZoomを使ったオンライン形式で開催し、ファイルを共有して各自の目で即時的に入力・変換の精確さをチェックしながら翻刻を進めた。日記の読解は、1日から16日までを林田が、17日から31日までを関口が担当し、当月の下旬まで進んだ。翻刻文のタイピングは、すべて佐々木が行った。当時住谷が在籍していた松山高等商業学校の教授間の人的関係や、県や軍など公的機関に属する人々と住谷との関係をめぐって、メンバー各自の知見を共有しつつ活発に議論した。歴史家の関口や経済学説史家の笠井がメンバーに加わり、若手の佐々木や野村も臆せず意見を述べて、議論の内容がずい分豊かになったことを実感した1ヶ月間であった。
第3班
近現代の個人の日記の翻刻作業について
 研究会をおこない、1932年3月9日~15日の日記の翻刻を確認した。
第4班
キリスト教社会問題研究と政治思想史研究の分野横断型の住谷悦治日記を用いた学際共同研究
 今月は、第21期部門研究会が開始されて以降、最初の月例会となった。班長より、今後3年間の共同研究を進めるための課題や方法及び研究会の開催頻度や方式などについて説明と提案がなされた。
 月例会では、本グループの研究テーマを仮決定した。また、参加者が現時点で考えているテーマ案について報告した。
  1. 本グループの研究テーマ(仮)
    住谷悦治をめぐる人物・思想・風土
  2. テーマ案の一覧
    住谷悦治と松山、住谷悦治の貧困観、住谷悦治とメディア(住谷悦治の生活を支えたメディア)、住谷悦治とキリスト教、住谷悦治の教育観or住谷悦治と同志社、住谷悦治と知識人(知識人としての住谷悦治)
  3. 開催スケジュール
    隔月開催(Zoom)、第3金曜日15時開始
  4. 今後のスケジュール(案)
     今年度は参加者全員が構想案を報告する。次回(5月)は望月詩史氏が報告予定である。
第5班
住谷悦治日記から見た戦後京都のまちと社会
 第5班は、終戦直後の住谷悦治日記の翻刻作業を通じて、戦後の住谷悦治の活動や思想、家族をはじめ様々な人々との関係性を明らかにするとともに、彼の眼を通して見える戦後京都のまちと社会の有り様にアプローチしていく。メンバーは本岡拓哉(本学人文研)を代表に、高久嶺之介、鰺坂学(本学名誉教授)、河野健男(同志社女子大名誉教授)、奥田以在(本学経済学部)、高野昭雄(大阪大谷大)、秋元せき(京都市歴史資料館)、得能司(本学社会学研究科院生)の8名で構成されている。本班は2021年6月から活動を始めており、1947年の日記の翻刻に当たってきた。
 今月は4月22日(金)に研究会を開催した。1947年3月26日から4月5日(日記では5月5日と記載されるが、内容から4月5日と判断)までの日記の翻刻を実施し、その内容を全メンバーで確認した。夕刊京都社での業務のほか、京都市の文化団体協議会での活動、さらには家族や知人とのこと、映画鑑賞などがつづられていた。