以下、本文になります
第7研究 戦間期における身体・環境への生政治的介入の国際比較 研究代表者:服部 伸(文学部)
本研究の目的は、国際秩序や地域社会が激動する戦間期に、「幸せ」を求める人びとの日常を、言説だけではなく、歴史的実態として、世界史的な視野から明らかにすることにある。そのために、身体および身体を取り巻く環境に関わる諸領域に焦点を当て、統治者による介入と、安心、安全、幸福を求めて行動する住民の活動を探る。その際、多様な国・地域を取り上げて、その特質を比較検討することによって、一国史的な歴史観で理解されてきたそれぞれの国・地域の歴史像を転換し、世界規模での共時性を折り込んだ、広義の「福祉」を通した住民への介入と、これに反発する住民いう視点からの新たな世界史像を構築することをめざす。
2024年度
開催日時 | 第3回 研究会・2024年10月6日 13時30分~18時30分 |
---|---|
開催場所 | 同志社大学良心館404教室およびZoomミーティング |
テーマ |
|
発表者 |
塩野 麻子(嘱託(社外)) 福元 健之(嘱託(社外)) |
研究会内容 | 本報告は、博士論文「近代日本における結核管理——病原菌と人間との関係をめぐる歴史研究」(2024年3月)の一部をもとにしたものである。 本報告では、近代日本における結核管理の歴史を、潜在性という概念を基軸にして検討することで、病原菌と人間との関係をめぐる人々の思考や想像が、どのような結核管理を構築してきたのかを考察した。検討を通じて本報告は、次の2点を明らかにした。第一に、近代日本の結核管理が、近代社会の人々の多くが結核感染を受け、誰しもの身体に病原菌が潜在するという想像に伴って形成されてきた。「結核菌に住まわれる身体」を想定した結核管理の歴史は、一面では、病気による死や苦痛が顕在化しないときをめぐる思考や実践の歴史であった。第二に、近代日本の結核対策において、患者の治療や感染防止以上に感染後の自己への配慮による「免疫」獲得を目標とするような医学的議論や衛生施策が重要な意味をもっていた。感染後の発病予防を通じて病原菌をむしろ病気に対する「免疫」として善用することが、近代期における最善の結核予防として打ち出された。(塩野) 1922年5月、ポーランドのウッチ市に設立される光線療法室のために、キシュ・ランプと呼ばれた機器が届けられた。本報告では、この装置がどのような技術をもったものなのかという、先行研究では明らかになっていない問題を中心に、自治体の社会的役割の拡大や、医学的知識のみならず、技術に関してもみられたポーランドに対するドイツの優位性について論じた。 キシュとは、ドイツの医師オイゲン・キシュ(Eugen Kisch, 1885-1969年)のことであり、彼は、同時代の日光療法を批判し、紫外線ではなく、熱線にこそ治療の効果があると論じた。流通や価格に関して大きな困難が伴ったにもかかわらず、キシュ・ランプの輸入に医師たちが尽力したのは、太陽光の効用が信じられた当時の価値観を考慮せずには理解できない。実際には、ウッチ市の光線療法室でも、やがて紫外線を照射する石英灯を利用したランプが利用されるのではあるにおいて可能な選択をが、キシュ・ランプをめぐっては、ポーランドの医師たちが、所与の状況模索し、問題の解決を図った主体性を発揮したことも明らかになった。(福元) |
開催日時 | 第2回 研究会・2024年7月13日 13時30分~18時30分 |
---|---|
開催場所 | 同志社大学良心館404教室およびZoomミーティング |
テーマ |
|
発表者 |
北田 瑞希 (ゲスト講師) 御手洗 悠紀(嘱託(社外)) |
研究会内容 | 本報告では,コーチシナ植民地を占領統治期(1859年〜67年),軍政期(1867年〜79年),民政期(1879年〜87年)と3つの時期に区分して医療・公衆衛生の組織や機構の形成と法令の整備についてその変遷を跡付け,考察した。 占領統治期は保健部,病院業務を業務の一つとして担っていた民政局,諮問評議会など医療・公衆衛生に関わる組織が形成されはじめた。軍政期に移ると,天然痘の予防接種を筆頭に組織形成と法整備が進められた。総合ワクチン委員会,保健評議会,公衆衛生評議会などが設立され,法令についてもやはり天然痘の予防接種について行政命令が定められた。これによりコーチシナでは本国フランスよりも30年ほど早く天然痘の予防接種が義務化された。民政移管後は,本国フランスでの施策が仏領コーチシナでも見られた。特に1850年住宅衛生化法をコーチシナに適用する政令や下水道整備に関する行政命令や運河の埋め立てなどはその代表例である。当時コーチシナでは天然痘だけでなくコレラも度々流行しており,その感染を防ぐための施策が進められるようになった。このように,占領統治期,軍政期,民政期と統治のあり方が変わるごとに,徐々に医療・公衆衛生に関する組織の形成が進み,法令が整備されていった。(北田) 有機農業の系譜の一つであるバイオダイナミック農法(以下、BD農法)は、ドイツの人智学者ルドルフ・シュタイナーが1924年に行った連続講義「農業講座」によって誕生した。本報告は、BD農法で生産される農産品の質の高さを主張したBD農法支持者の言説に着目し、どのように質を捉え、品質保証のための認証基準を整えようとしていたのかを内部報と月刊雑誌の分析によって明らかにする。 BD農法支持者は、見た目では分からない味や香り、栄養価などの内面的な質を重視していた。その際に、環境要因によって農産品の質が変わり、なおかつそれが遺伝するという考えに依拠して栽培方法の重要性を主張することによって、BD農法による農産品の品質の良さを主張した。大学卒業資格や学位を有する一部のBD農法の支持者は、学術雑誌に掲載された研究を実験モデルとして参考にし、自らも研究所で動物実験を実施することで質の良さを説明しようとした。BD農法実践は小規模であり、なおかつ、それにより生産される農産品は一般の市場流通から疎外されていたため、主として都市部の改革商品店でのみ取り扱われるようなものであったが、農学者は敏感に反応し批判を加えた。その理由として、BD農法支持者が、数字やグラフを利用して非専門家に対して分かりやすくBD農法の意義を訴えたこと、それにより農業者や消費者と直接的に結びついたことが、農学者にとって脅威になったと考えられる。(御手洗) |
開催日時 | 第1回 研究会・2024年5月25日 13時30分~18時30分 |
---|---|
開催場所 | 同志社大学良心館401教室およびZoomミーティング |
テーマ |
|
発表者 |
大谷 実 (兼担研究員) 小堀 慎悟(嘱託(社外)) |
研究会内容 | ナチ期のシンティ・ロマ(「ツィゴイナー」と呼ばれた人びと)迫害の「理論」的枠組みを提供した研究者ロベルト・リッター(1901-1951)について、(1)特に戦間期に着目し、その来歴と思想的特徴を検討すること(2)リッターの研究環境(特に彼に対する研究支援の状況)を概観することを主な目的として報告した。 リッターのキャリアの転機として、テュービンゲン時代(1932-35)が挙げられる。当時、彼はテュービンゲン大学病院の関連施設である「青少年療養所Klinisches Jugendheim」で働いていた。また、テュービンゲンの「学問」関係者などとともに結婚相談所「人種衛生学結婚相談所」を開設したり、ライヒ保健局に自ら接触を試みていたことが先行研究で指摘されている。このことは、彼が自らの職場での業務のみに満足せず、広く社会および政治の世界へと接触することで、その社会的影響力を高めようとしていた時期だと考えられる。さらに同時期は、ナチス政権の誕生する1933年とも重なっており、政治体制の変化が彼の活動方針(社会活動、研究活動)にどのような影響を及ぼしたか、捉える上でも有用であろう。 そして、リッターは、ドイツ研究振興協会(DFG)からの研究支援を獲得し、ベルリンのライヒ保健局付属施設にポストに就くことになる (1936年4月)。その後、リッターを中心とした「研究」活動は、シンティ・ロマの強制収容所への移送、そしてホロコーストを支える「理論」的基盤となっていった。テュービンゲン時代はその転機であった。 今後は、1932-35年におけるリッターの活動実態を精査していく予定である。具体的には、ナチス政権獲得前後の活動状況の比較検討、結婚相談所の実態解明(構成員、活動方針、活動状況)などである。(大谷) 本報告では、戦間期における潔浄局(Sanitary Board)の非官守議員選挙や医療・衛生行政改革をめぐる言説に注目して、特に西洋近代医療・衛生の専門職が香港社会において果たそうとした役割を明らかにすることを試みた。 戦間期には、華人の医師が潔浄局の議員選挙に立候補するようになった。彼らは、選挙戦において「医師としての」職業精神と「市民としての」義務感とを結びつけて、「専門家」であることの優位性を主張とすることで支持の拡大を試みていた。一方でそれは、かつての「華人社会の代表者」としてだけでなく、近代的な制度における「華人社会の管理者」としての自らの位置づけを示すものでもあった。また、戦間期には医療・衛生行政改革の必要性が行政・社会(華人社会を含む)のエリート層において広く共有されるようになっていた。西洋近代医療・衛生の専門職は、「予防医学」を代表とする「医学の進展」による同時代的・世界的な潮流に沿って改革を実施することを主張し、議論を主導した。 ただし、彼らの「専門性」が手放しで受け入れられたわけではなかった。選挙においては、有権者と「素人」候補との感覚的な距離の近さを指摘する声があった。また、専門職による医療・衛生行政改革案は「理想論」であるとする批判も見られた。これらの事例は、現代における「専門的」言説に対する社会の受け止め方を考える上でも、重要な示唆を与える。(小堀) |
2023年度
開催日時 | 第5回研究会・2024年3月16日 13時30分~18時30分 |
---|---|
開催場所 | 同志社大学良心館406教室 |
テーマ |
|
発表者 |
服部伸(兼担研究員) 小野直子(兼担研究員) |
研究会内容 | 本報告は、労働者街であったシュトゥットガルト市ヴァンゲン地区で活動していたホメオパシー協会の活動記録を史料として、帝政期から戦間期にかけて、その会員たちが、治療や健康維持のために、どのような知識を、どのように学んだのかを明らかにし、近代社会の中で、都市下層民が医療を自分たちのものとしていったのかを考察する。 1887年の協会結成当初から、協会文庫が整備された。月会では会員から図書購入希望を募っており、これを反映させながら、図書を購入した。1893年の蔵書一覧からは、家庭医学書、治療に関する小冊子など、実用的な図書が多かったことがわかる。 口頭で知識を伝授する仕組みもあり、月会の最後に、会員が自由に質問をする機会があり、協会内で無資格治療を行っていたヴィルヘルム・ラングという人物が、疾患とその治療法について説明した。とくに乳幼児が罹りやすいとされたクループ、ジフテリア、百日咳、麻疹などは繰り返し話題となった。第一次世界大戦中は年次総会以外の集会が開かれず、1919年にラングが急死したため、その後は、このような機会はなくなった。 さらに、他協会の指導者である無資格治療師やホメオパシー医が講師を務める講演会も催された。子どもの疾患はしばしば取り上げられたが、不治の病とされた結核のほか、リューマチ、痛風、糖尿病などの成人病も取り上げられた。20世紀になると、女性向けの講演会が定期的に開催されるようになった。 1919年にラングが逝去し、1926年に協会内で会員に治療薬を頒布することが禁じられて、協会は治療手段を会員に提供することができなくなった。これ以降、協会では講演会開催に力を注ぐが、講演の内容は疾病予防・健康維持のための知識提供へと傾く。 ラング逝去後は、会員が自己治療できるようにするために、協会外で開催される看護講習会を受講することを会員に求めるようになった。これは上部団体やホメオパシー医が主催するもので、地域協会が独自に運営するものではなかった。他方、協会内では健康維持のための体操教室も開催されるようになった。 以上のように、協会は第一次世界大戦前には治療を重視する知識や技術を提供していたのに対して、第一次世界大戦後は、予防や健康維持のための知識を提供するようになった。治療に関する知識・技術は上部団体や医師が主催する催しを通して提供されるようになった。(服部) 本報告では、アメリカ合衆国の自治領であるプエルトリコにおける産児制限の歴史に関する先行研究をまとめ、課題を提示した。アメリカ人とプエルトリコ人のエリートは、「人口過剰」がプエルトリコの貧困と生活水準の低さの原因であると主張し、特に労働者階級の生殖を抑制するために産児制限へのアクセスを拡大しようとした。アメリカの慈善家であり、優生主義者であったクラレンス・J・ギャンブルは、プエルトリコにおける産児制限プログラムにおいて、効果が低かった殺精子剤の配布を推進した。そのため、1937年にプエルトリコで断種法が制定されると、より確実な生殖管理の手段を求めていた多くの女性が自発的に断種(不妊化)手術を受け、国際的に見ても異例なことに、プエルトリコでは断種が主要な避妊手段となった。また効果が低かった避妊具の推進は、その後アメリカの製薬会社がプエルトリコを避妊具の実験場として利用するための基礎となった。今後の検討課題としては、プエルトリコにおける優生学運動、産児制限運動におけるジェンダー、プエルトリコの産児制限/家族計画のグローバルな位置付けなどが挙げられる。(小野) |
開催日時 | 第4回研究会・2023年12月17日 13時30分~18時30分 |
---|---|
開催場所 | 同志社大学良心館401教室 |
テーマ |
執筆者による内容紹介(水戸部) 書評(服部) |
発表者 |
福元健之 水戸部由枝(ゲスト講師 明治大学政治経済学部教授) 服部伸 |
研究会内容 | 本報告では、戦間期ポーランドの社会政策史に関する最新の研究Paweł Grata, The Origins of the Welfare State: Polish Social Policy in the Period 1918-1939 (Peter Lang: Berlin, 2021) を批判的に読み解くことを通じて、今後、戦間期ポーランドを対象とした身体・環境史の論点とそのための方法について議論した。 2013年に刊行されたポーランド語版を下敷きにしつつ、それ以後の研究も踏まえられているGrataの上記著作は、従来の研究が労働政策に偏ってきたことへの批判に基づき、労働政策、社会保険、社会福祉、医療の大きく4つの領域に分節できる社会政策を包括的に論じたものであり、研究史のなかで大きな意義がある。彼は旧ドイツ領、旧オーストリア領(ガリツィア)、旧ロシア領ごとに独立以前に制定された法律についてもしっかりと目配りしており、1918年に独立したポーランドが異なる制度的状況にあった諸地域をどのように統合したのかを克明に描いた。それによって、ポーランドの社会政策史上でも、戦間期は住民の生活上の様々なリスクに国家が体系的に介入を本格化させた画期であったことが明らかになった。 ただし、そのような彼の著作にも、以下のような問題がある。労働政策、社会保険、社会福祉、医療の領域を個別の章で扱ったGrataは、必ずしも社会政策の総合的な歴史像を提示したとはいえない。彼によれば、制度上、国家による介入は労働政策で最も強く、医療で最も弱かったとされるが、報告者は実際の結核対策のような問題の文脈では、国家、自治体、社会団体が関わっていたと考えられる史料を手もとにもっており、そうした素材には異なる歴史像を導きだす可能性がある。また、戦間期の20年が、十分な社会政策的成果を出すには短すぎたとの評価も、ポーランド一国史を超えた次元で捉えるとどうなるのか、検討することも有益であろう。ドイツ史やハンガリー史などでは議論されている国家によって保護される対象の「選別」の問題も、Grataの研究では欠落しており、その点でも補完されるべき領域があるようにも考えられるのである。(福元) 本報告では、拙著『近代ドイツにみるセクシュアリティと政治:性道徳をめぐる葛藤と挑戦』(昭和堂,2022年)に基づき、(1)ドイツ・ヴィルヘルム時代(1890~1914年)、(2)もっとも自由主義的傾向が強く、また女性運動家の一大活動拠点であったバーデン大公国、(3)セクシュアリティの3つを分析対象に、「政治社会とセクシュアリティの関係性(権力メカニズム)」を浮き彫りにした。具体的には、都市化が進み大都市が次々誕生する時代に、主に国力(労働力・軍事力)の向上と社会秩序や公衆衛生の悪化を理由に政治家、教会関係者、社会改良家、大学教員などの専門家、女性運動家といった市民層の人たちが展開した、女性労働、結婚や子育て、自由恋愛・自由婚(事実婚)、出生率や乳児死亡率、産児制限(避妊・堕胎)、売買春や性病をめぐる議論を取り上げ、主に次の4点を明らかにした。(1)市民社会におけるジェンダー秩序の生成、(2)セクシュアリティの規範化プロセスと性道徳を通じた個人の性の監視・管理、(3)市民的性道徳への同調・抵抗と社会的保護対象からの排除と包摂との連動性、(4)伝統的な性道徳を批判する形で現れ、学生運動期以降社会的に広がりをみせる「新しい性道徳」の意義である。(水戸部) 「あとがき」冒頭で、「セクシュアリティは生きていくうえでとても大切なもの。なのに、家庭でも学校でも語られず、社会でも議論されない。誰も教えてくれないのはいったいなぜ?」という、10代の頃に抱いた素朴な疑問が著者の研究の原点であると述べているように、現代を生きる女性たちの切実な問題への当事者としての意識が400頁を超える本書を紡ぐ原動力となっている。 本書の重要な成果は、急進派市民女性運動指導者で、男女の完全な平等をめざして、女性の性的な欲求を認め、堕胎を女性の権利として求めた急進派市民女性運動指導者ヘレーネ・シュテッカーを中心に据え、その今日的意義を確認するだけではなく、セクシュアリティの問題を軸に、廃娼運動、保守派、穏健派、急進派のブルジョワ女性運動、性解放論者、プロレタリア女性運動など、ヴィルヘルム時代ドイツにおける、性をめぐるさまざまな運動の布置を明確化したことにある。その際、(1)どのような基準で包摂・排除の線引きを行っていたか、(2)性にまつわる私的な問題を政治的なこととして取り上げたかどうか、(3)家父長的市民社会の性道徳をどのように評価したのか、(4)娼婦・女給の社会的・道徳的位置への理解があったか、といった分析の基準を用いて整理した。この結果、クラーラ・ツェトキンに代表される社会主義急進派の女性運動指導者は、階級闘争を優先して、社会主義穏健派ほどには、労働者女性が直面していたセクシュアリティの問題を理解していなかったことが明瞭になる。また、市民女性運動は、保守派、穏健派、急進派とも、近代市民社会のジェンダー秩序の枠の中にとどまっており、その運動に限界があったため、娼婦や女給の立場に寄り添うことができなかったことを明らかにしている。 同時に、本書は、同時代の文学作品や当事者の手記などを使って、社会的に恵まれない境遇の中で、さまざまな不運も手伝って娼婦や女給になっていく女性たちが、ごく普通の恋愛感情をもち、自らが生んだ子どもに愛着を感じていたことを示し、彼女たちの生と性は、市民社会に生きる女性たちと地続きであることを伝えている。(服部) |
開催日時 | 第3回研究会・2023年10月7日 13時30分~18時15分 |
---|---|
開催場所 | 同志社大学良心館412教室 |
テーマ |
|
発表者 |
|
研究会内容 |
本報告では、身体・環境への介入について論じるうえでミシェル・フーコーの統治性の議論に注目した。統治性の先行研究を参照すると19世紀から20世紀前半の自由主義の時代に「他者の振る舞いを他の方向に導くための諸活動」が重要になってくることが分かるが、その中でも市場や会社の役割については研究がほとんど行われておらず歴史研究の必要性がある。 これを確認したうえで、本報告では事例研究として19世紀から20世紀前半にかけてのイギリスの煤煙問題について検討した。当該期間中の煤煙関係立法が煤煙削減設計の炉の導入を前提としたものであること、取り締まりも基本的にはそのような技術を前提として行われたことを確認した。このような取り締まりに対して工場経営者による抵抗や火夫への責任転嫁のような反応も見られ、これについてはフーコーの統治性の議論を適用できる。しかし、実際には煤煙削減設計の炉とは異なる発想の対策が鉄道やロンドンの産業など一部で行われており、煤煙関係の法や取り締まりの想定とは異なる市場原理などによっても煤煙対策が実施されていたこと、それが必ずしも公的な煤煙対策には統合されていなかったことを指摘し、煤煙問題対策を理解するうえで市場の役割を考慮する必要性があることを議論した。(春日) スイスの作家でジャーナリスト(社会批評家)のC. A. ロースリ(1877-1959)は、1905年から施設での青少年教育に対して批判な意見を述べていたが、1924年に著作『施設生活』(1924)で本格的にこの問題に取り組み始めた。婚外子として生まれたロースリは、里親のもとで育てられたのち、いくつかの施設を転々とし、矯正教育施設(青少年刑務所)に収容された経験を持っている。彼は『施設生活』の中で、施設は支配と被支配の関係から成立し、外部との接触が全くない孤立した存在であると指摘し、そのような環境で育った子どもは社会適合が難しくなると主張し、施設廃止を求めた。 このロースリの批判に対して、これまでの研究では、1912年に設立されたスイス最大の青少年福祉財団「青少年のために」がどのように反応したかについて詳細に検討されていない。そこで本報告では、本財団の月刊誌『青少年のために』で行われた施設収容と施設教育をめぐる、財団中央事務局長、各施設長と自治体の担当者の議論を考察した。その結果、青少年にとって施設より家庭教育の方がより好ましいことは共通認識としてあるものの、里親不足という現状や、非行青少年および犯罪的な青少年、身体・精神障害をもつ青少年にとって、施設は不可欠であるという認識によって施設が擁護されたことが明らかになった。 附記 本報告は科研費基盤基盤(C)課題番号「JP20K01069」の研究成果の⼀部である。 |
開催日時 | 第2回研究会・2023年6月24日 13時30分~18時25分 |
---|---|
開催場所 | 同志社大学良心館401教室 |
テーマ |
|
発表者 |
|
研究会内容 | 本報告は、近代のイギリス領香港における公衆衛生対策、具体的には香港の華人社会における都市環境の改善策について、「衛生の生権力」という観点から分析することを試みるものである。 本報告では「衛生の生権力」を、「息を吸うこと・飲むこと・食べること・触れること・動くことといった生物としての根源的な活動への介入を通して、人間が「不健康のもと」と「接触」することを防ぎ、「健康のもと」と「接触」することを助け、それらを素により「健全」な身体を作り出すよう促す」ものと定義する。そして公衆衛生とは、「衛生の生権力」のうち、人々を取り巻く「環境」に作用することによって人間と「健康のもと」との「接触」を生み出すものとみなされる。 香港における「近代的」公衆衛生対策は、香港の華人社会への介入の手段として始まり、1894年以降断続的に発生したペスト流行がそれに正当性を付与することになった。都市環境の中でも特に問題とされたのが、下層の華人による特徴的な居住形態の一つであったキュービクルの設置であった。キュービクルは日照と換気の改善を理由に規制されたが、華人たちはプライバシーの確保や人口の流出による経済への影響といった西洋人にも納得のできる普遍性をもった言説に依拠することで、抵抗を試みた。これを受けて香港政庁は、必要以上の介入を実施することを避け、柔軟な対応に努めた。 以上からは、香港における「衛生の生権力」には、現地の華人社会の「同意」という点で限界があったと言える。そして戦間期には、香港の「衛生」問題は、公衆衛生という枠組みを超えた社会問題の中に位置付けられることになったのであった。(小堀) 本報告では、近代ドイツで看護や教育、慈善・救貧などの社会活動に従事した慈善修道女をとりあげた。19世紀末、急激な工業化、都市化に伴う社会問題が顕在化したドイツでは、こうした問題に取り組むあらたな女子修道会が次々と設立され、修道女の数も20世紀半ばにピークを迎えるまで増加の一途を辿った。一般には世俗化が進むとされるこの時代に、ゆうに万を越える女性たちが修道女として生きることを選んだのである。 本報告では、南ドイツ・バイエルン地方の一慈善施設で従事する修道女たちを例として、近代社会における修道女の姿を明らかにしようと試みた。分析の結果、当時の女性たち――ことに農村部の敬虔なカトリック女性――にとって、修道女となることは自らの出自を越える社会的上昇を意味し、厳格な戒律に沿った「祈り働く」修道生活も、看護や教育といった生涯の職業と信仰生活とを結びつける機会でもあったことが明らかになった。束縛と庇護の一方で、世俗社会では望みえない自由と機会をも手にすることができる修道女という生き方は、家父長制社会を生きる当時の女性たちにとって、結婚し家族を持つこととは別の、もうひとつの人生の選択肢であったといえる。(中野) |
開催日時 | 第1回研究会・2023年5月13日 13時30分~18時 |
---|---|
開催場所 | 同志社大学良心館402教室およびZoom |
テーマ |
|
発表者 |
|
研究会内容 |
本報告は、19世紀末から20世紀初頭のドイツにおいて、オルタナティヴ医療を信奉する都市労働者・小市民層が、地域社会の中で、医師の力を頼らずに、どのようにして自分たちの健康を守っていこうとしたのかを明らかにする。 ヴァンゲン・ホメオパシー協会は発足当初から、正規医師資格を持ちホメオパシー治療を行うホメオパシー医を協会医として雇用することが提案されていた。協会はたびたびホメオパシー医と交渉していたが、ほとんどの場合雇用契約締結には至らず、雇用契約を締結した場合も長続きはしなかった。医師側は契約にあたって高額の諸手当や住宅の提供を要求してきたが、資金の乏しい協会はこのような要求に応えることができなかった。 協会医を確保できなかった結果、協会発足時からの会員で会計を務めていた石工ヴィルヘルム・ラングが会員とその家族の治療を担った。彼は日常的な疾病だけでなく、ジフテリアなどの法定伝染病の治療も行っていた。法定伝染病患者の発生を警察に届け出なかったために、罰金刑に処されたこともあった。このように権力との間には緊張関係があった。また、地区には正統医学の医師1名が開業していたが、この医師は治療に失敗することが多いと、ラングは警告しており、この医師に対する対抗意識が見られる。しかし、小市民、労働者たちが、上位の階級に属する医師を拒否していたとは言い切れない。正統派医師の治療を受けていた会員がいたし、ラングが推薦するホメオパシー医の治療を受けていた者もあった。会員はそのときの事情により治療者を使い分けていたことが明らかになり、階級意識や民衆文化によって医療が分断されていたとは言い難い。ラングは第一次世界大戦後に急死し、会員の医療を支える治療師がいなくなった。この後、協会は、ホメオパシー看護講習会を受講し、会員が自己治療・家庭内治療の能力を獲得するように努めることになった。ただし、協会はつねに協会医の雇用を目指しており、彼らは専門職としての医師への信頼を持ち続けたのである。(服部) ドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880-1938年)は、建築活動と並行して積極的な著述活動をおこなった。彼の代表作は、『アルプス建築』(1919年)である。戦争などという無駄なことをするくらいなら、アルプスの山々の頂、絶海の孤島、そして宇宙の星にモニュメント的な建物を建てたほうがはるかに有益という観点から、色彩豊かなスケッチに文章を添えた書物である。1933年からの日本亡命中に描いた『画帖 桂離宮』を「第2の『アルプス建築』」と評していることからもわかるように、タウトは、『アルプス建築』を自分の生涯の代表作と位置付けている。タウトは、ドイツでの活動中は山上の建築物は設計していない。日本に亡命してきた年の秋に大阪電気軌道株式会社に依頼されて、生駒山の頂に住宅地を設計したが、実現していない。日本での最後の仕事は、熱海の崖の上にある日向邸の地下室の内装の設計であるが、ドイツや日本での経験を踏まえて独特の空間を作り出している。1936年にトルコに亡命先を移してから、ボスポラス海峡に面した斜面の中腹に、太い柱の上に独特の構造物を乗せた自宅を設計している。タウトは、日本とトルコ滞在中に、「アルプス建築」を現実に試みたのである。(北村) |
2022年度
開催日時 | 第5回研究会・2023年3月18日 13時30分~18時 |
---|---|
開催場所 | 同志社大学徳照館2階文学部第二共同利用室 |
テーマ |
|
発表者 |
|
研究会内容 |
帝政期ドイツ(1871〜1918)には、刑法175条という、所謂「同性愛」行為を罰する法律があり、それにもとづく差別が横行していた。これに対し「同性愛者」らは、第一次世界大戦前から解放運動を展開し、大戦後は新たに成立したヴァイマル共和国の枠内で運動の拡大・大衆化を果たした。しかしながら、帝政崩壊後もなお刑法175条廃止は達成されず、それどころか1924年に起こったあるスキャンダルによって「同性愛者」は窮地に立たされたと言われる。 本報告は、近代ドイツにおいて立ち現れた「同性愛(者)」概念が、大衆の中でどのように身体化されたのか、その過程を明らかにすべく、言説的地盤たる「同性愛」大衆雑誌における「同性愛者」の自己表象をJ・バトラーの議論を用いて分析することにある。運動が拡大する一方、「同性愛者」の犯罪視や、検閲による規制、刑法引締めを求める声が強まるこの時代、「同性愛」雑誌において「同性愛者」はいかに表象され、これにより世間からの荒波にいかにして対抗しようとし、そして大衆化した読者は、これをどのように引き受けていったのか。さらにそのことは運動のその後の展開とどのような関係にあったのか。帝政期からヴァイマル中期にいたるまでの主要な「同性愛」雑誌の言説を丹念に取り上げ検討することでこれを考察した。 本報告では、第2次大戦後から1950年代のアメリカ合衆国(以下アメリカ)を対象とし、ファッション(特にスーツ)をつうじて形成される50年代の価値規範を論じた。主として以下のふたつに分けて検討した。ひとつ目が、主流社会において画一化され、再生産されていくスーツについてである。ふたつ目が、同時期に本格化した公民権運動において、アフリカ系アメリカ人のあいだで共有化されたドレス・コードについてである。 戦後の主流社会を画一化したグレー・フランネル・スーツ(Gray Flannel Suits)は、増大した白人ミドルクラスの指標として、あるいは50年代の「没個性化」した人々を揶揄したスーツとして語られてきた。くわえてそれは、社会進出をする女性の装いにもなっていき、アフリカ系アメリカ人の新聞においても言及されるものであった。ふたたび戦後社会は、スーツによって社会のリスペクタビリティを再構築していった。 一方で黒人社会は、彼らの「サンデー・ベスト(Sunday best)」の着用をドレス・コードに規定し、人種分離されたランチ・カウンターを統合するための抗議活動をおこなった。ドレス・コードとは、既存の慣習を受け継ぎながらも、ある集団的アイデンティティを可視化するために用いられるものでもある。特に抗議活動におけるそれは、他者に対してファッションをつうじて重要なメッセージを伝達していると考えられる。 60年代にはカウンター・カルチャーやブラック・パワーの影響を受けてジーンズ、オーバーオール、革ジャンなどを用いた抗議活動が主流になっていった。それを踏まえた上でも、ファッションを分析対象とすることは、50年代を再評価する上でも重要なアプローチだと思われる。 |
開催日時 | 第4回研究会・2022年11月20日 13時30分~18時 |
---|---|
開催場所 | Zoomミーティング |
テーマ |
|
発表者 |
|
研究会内容 |
スイスでは1981年の法律改正まで、福祉政策の一環として、人権を無視した福祉的強制措置が行われていた。その対象者は多岐にわたり、貧困や片親などの家庭状況により親子分離を余儀なくされた子どもたち(奉公児童、施設児童、里子)、「社会の安寧を脅かす」という理由から行政によって施設や刑務所に収容された青少年および成人、強制断種や強制的養子縁組の被害者、「さすらい癖撲滅」のために強制保護された移動型民族の子どもたちなどである。 これらの措置は、1907年のスイス民法典の後見人規定や行政介入規定に基づき、各自治体の後見担当部局によりスイス全土で行われていた。そのため、当事者の数が多く、決して例外的な事例ではない。 本問題は法改正後もタブー視されており、スイス社会もまたそれに対して無関心であり続けた。福祉的強制措置という「負の歴史」を検証しようとする気運が高まったのは2000年代に入ってからである。 本報告では、まず、福祉的強制措置の対象グループの中でも特に「親子分離を余儀なくされた子どもたち」ついて考察した。次に、福祉的強制措置という歴史がスイス社会で取り上げられるようになった経緯、それへの政府の対応、学術的検証と補償を概観した。これらを踏まえ、スイス社会におけるこの「負の歴史」の取り組み方とその特徴を考察した。 スイスは過去にも「ホロコースト関与」という負の歴史に取り組んだ経験があるが、この時はアメリカを中心とする「外圧」の影響が大きかった。一方で、福祉的強制措置という過去の不正との取り組みにおいては、市民社会が大きな役割を担った。(穐山) 本報告の目的は、近代帝国の植民地における<身体>と<環境>の関係について考察することであった。まず報告者は、支配する側の国家に属する人々が植民地においていかなる「自己」を形成しようとしたのか、という問いについて考察した。 イギリスの植民地支配下のインドを事例としてとりあげ、在印イギリス人がいかに自らの白人性を保持しようとしたのか、そしてそのことが「人種」的な<身体>と広い意味での<環境>にどのように関わったのかについて論じた。 次に報告者は、支配された側の社会に属する人々の身体と環境について、英領インドと独領アフリカにおける帝国的熱帯医療の歴史的展開の事例を紹介しながら論じた。ペスト、コレラ、「眠り病」などの感染症をめぐる植民地言説と帝国権力による介入において、支配された人々とその社会がどのように立ち現れたのか、また、かれらによる近代医療への抵抗がそれとどのような関係をもったのか、について論じた。(水谷) |
開催日時 | 第3回研究会・2022年10月1日 13時30分~18時30分 |
---|---|
開催場所 | Zoomミーティング |
テーマ |
|
発表者 |
|
研究会内容 |
本報告は、同志社大学商学部の前身である同志社専門学校高等商業部の設立から、その後身である同志社経済専門学校の新制同志社大学商学部への昇格に至る30年の歴史を、戦間期から第二次世界大戦中、さらには第二次世界大戦後の日本の社会状況と関連付けながら、同志社社史資料センター所蔵資料の分析を通して明らかにするものである。 1922年に同志社背紋学校高等商業部が今出川校地内に設立された。時の日本は、第一次世界大戦時の「大戦景気」といわれた空前の好景気が終わった時期であった。しかし、第一次世界大戦勃発の結果、戦場から遠く離れた日本は、ヨーロッパに代わる工業製品輸出国として発展し、近代工業国へと変貌を遂げており、不況期に入っても、日本の社会はこの変化に見合う新しい人材を求め続けていた。高等商業部設立はこのような時代の要請に応えて設立されたのである。この教育機関の、当初の教員は法学部経済学科教員によって充当され、夜間コースとして始まったが、翌年には昼間制に切り替わった。これは、入学希望者が想定以上に多かったことによる。やがて、この学校の学生数は、同志社のなかでも突出して多くなり、校地も手狭であったため、今出川校地から校外の岩倉校地へと移転し、同志社高等商業学校として独立した学校となった。このように、1920年代には、工業化・都市化に伴う社会の教育熱を追い風にこの教育機関は発展することができたが、1930年代になると、次第に戦時色が学校のなかにも影を落とすことになる。ひとつは徴兵猶予の問題である。戦局が厳しくなるなかで、他の高等教育機関と同様に同志社高等商業学校の学生に対する徴兵猶予は取り消され、多くの学生が戦地に赴くことになった。また、人文・社会系学部の縮小・閉鎖・理系学部への転換が求められたため、1944年には、高等商業学校は、工業経営者の育成を視野に入れた経済専門学校へと転換した。第二次世界大戦後、1948年に同志社大学は新制大学へ移行したが、経済専門学校を新制大学商学部に組み替えるための準備が整わず、1年遅れて工学部とともに新制大学に昇格した。このように、高等所業学校は、30年のあいだに、社会情勢の変化に合わせてたびたび制度的変更を強いられつつ、社会の要請に応え続けてきたのである。(小枝) 本報告は、1987年にドイツで原著が出版され、1993年に日本語版翻訳が出版されたデートレフ・ポイカート著『ワイマル共和国:古典的近代の危機』を素材にして、戦間期ドイツの社会を考えることを目的としている。著者のポイカートは、これまで政治史や社会構造史の伝統が強かったドイツにおける日常史的な社会文化史を新たに切り拓いたパイオニアである。 本書で使われている「古典的近代」klassische Moderneという概念は、著者の説明によると、元来は美術史で用いられてきた概念であるが、社会文化史的な時代状況を特徴付ける上でも有益としている。「古典的近代」とは、世紀転換期に生まれ、第一次世界大戦を経て、戦間期に全面的に開花する社会文化史上のモダンな一時代のことである。 世紀転換期のドイツは急激な工業化を達成して、この分野でのヨーロッパの先端に立った。これにともない、伝統的な社会が崩れはじめ、モダンな社会と文化が生まれつつあった。第一次世界大戦によって、このような特徴はさらに深まった。人口構造についてみてみると、わずか15年間のあいだに、多死多産型から、少子少産型へと一気に移行した。第一次世界大戦による多数の戦死者・戦傷者により、人口構造はいびつになり、結婚適齢期の女性が結婚相手を得られないという問題も生じた。このような変化とともに、女性の社会進出は進み、伝統的な社会的結合は弱体化した。 そして、ドイツ革命後に成立したワイマル共和国では、それまで周縁的な扱いを受けていた自由主義者、カトリック教徒、社会民主主義者の連立が政治の枠組を作り、帝政期の権威主義的な政治体制を刷新するとともに、社会問題を解決するために、福祉・教育の充実、労使協調による企業経営などに関する規定を憲法に盛り込み、急進的・実験的な政策を次々に実行に移した。 しかし、財政基盤の脆弱性、帝政への復帰を望む保守派の妨害、教育問題や社会問題をめぐるワイマル連合内の対立などのために、新しいプロジェクトは失速し、社会的な混乱をもたらした。また、新しい社会を拒絶する古い価値観が根強く残っており、社会全体が機能不全に陥った。こうした状況がナチ党による独裁を招くことになった。このような世紀転換期から戦間期の時代の社会文化史的な見方は、欧米先進国だけではなく、アジア諸地域や植民地の歴史を考える上でも参考になると考えられる。(服部) |
開催日時 | 第2回研究会・2022年7月2日 13時30分~18時40分 |
---|---|
開催場所 | Zoomミーティング |
テーマ |
|
発表者 |
|
研究会内容 |
本共同研究を進めていくにあたり、第一次世界大戦後に新たな政治体制となったヴァイマル期ドイツにおいて、マイノリティ(シンティ・ロマ)に対する国家および社会の関与がいかに展開したのか、問題関心に沿って研究史を整理しつつ、これまで報告者が行ってきた地域研究の事例を具体的に取り上げ、紹介した。 研究史の整理では、①ナチス期ドイツに関する研究がドイツ本国を中心に展開されてきた一方、ヴァイマル期に関する研究が十分だったとはいいがたいこと、②「人種」としてのシンティ・ロマ迫害の側面に注目した研究は多いが、「反社会的分子」としての迫害側面を含めた研究は限られていることなどを指摘した。 地域研究の事例紹介では、上記①②を踏まえた研究論文(『西洋史学』270号所収)を下敷きとして、報告した。1920年代半ばに成立したバイエルンの法律は、シンティ・ロマ迫害における「人種」と「反社会的分子」の観点を結び付け、ナチス期の政策モデルとなった法律だが、その成立背景には、当時の国民国家形成の動向、公的扶助制度の変化、社会情勢の影響などがあったことを指摘した。その上で、研究会メンバーと今後の研究可能性について議論し、当時の行商関連団体の動向に関する研究、優生学に関する研究など、一定の見通しを立てることができた。(大谷) 2021年夏に法政大学出版局より出版された、拙著『医学とキリスト教——日本におけるアメリカ・プロテスタントの医療宣教』の概要の紹介と今後の課題について報告をおこなった。まず、拙著の研究史における位置づけとして、医学史およびミッション史の観点から説明した。とくに、医学史の先行研究は、日本の医学界がドイツから受けた影響に注目することが多かったが、拙著はドイツ以外の国からの影響としてアメリカを取り上げ、とくに、来日したアメリカ人医師の多くを占めていた医療宣教師に注目した。次に、拙著の全体の構成や各章の概要を説明した。最後に、拙著で十分に出来なかった事として、アメリカ人以外の来日医療宣教師(イギリス人、カナダ人など)の活動、日本以外で活動した医療宣教師の活動、カトリックによる医療宣教、日本人クリスチャン医師による医療宣教などをあげ、これらを今後の課題とした。 報告後、参加者より多くの重要な質問・コメントをいただいた。具体的にあげると、ドイツ人医師とアメリカ人医療宣教師の間には実際にどのような対立があったか、アメリカ人医療宣教師が農村で活動することはあったか、ドイツ人医師とアメリカ人医師による医学教育・実践の違いはどういったものであったか、アメリカにおける女性医師に対する冷遇が来日宣教看護婦の増加に影響した可能性はあったか、御雇外国人とアメリカ人医療宣教師の接点はあったか、日本看護史における宣教看護婦の位置づけをどう評価するか、などがあった。今回いただいたコメントを踏まえながら、今後、さらに研究を発展させていきたい。(藤本) |
開催日時 | 第1回研究会・2022年5月7日 13時30分~18時 |
---|---|
開催場所 | Zoomミーティング |
テーマ |
|
発表者 |
|
研究会内容 |
第19期部門研究の成果をまとめた人文科学研究所研究叢書『身体と環境をめぐる世界史:生政治からみた「幸せ」になるためのせめぎ合いとその技法』(人文書院、2021年)によって、戦間期に、身体をめぐる共時的な新しい動きが世界的に出現したことを確認し、それを受けて、本研究では、身体をめぐる問題での画期となる戦間期にフォーカスする方針を示した。 戦間期について研究を進めていくうえで、地域を越えた共時性と地域による差異に着目することが必要である。1920年代は、ドイツでは女性参政権獲得、生存権規定に基づく福祉の充実が見られ、日本においても大正デモクラシーに象徴される開放的な時代と捉えることできる。大恐慌後になると、両国ともナチズム体制や軍部独裁体制によって、国家による個人の統制が強まったが、これは、福祉の強化を通した国民の管理と見なすことができる。福祉を通じた国民への介入強化は、両国に限られたものではなく、社会主義国家のソヴィエト連邦、西側資本主義国のアメリカ合衆国やイギリスにも共通する。 同時に、地域による差異も無視できない。医学の先進国であったドイツではすでに1920年代後半に、癌による死者数が結核による死者数を上回り、1930年代には、癌対策が重要な課題となっていた。ドイツはすでに生活習慣病社会へと移行していたのである。これに対して、同時期の日本では相変わらず結核が最も深刻な疾病であり、感染病社会にとどまっていた。日本において癌による死者が結核による死者を上回るのは1950年代後半のことである。 これまで一国の歴史叙述の中に閉じ込められがちだった身体をめぐる問題の研究を、地域を越えた共時性と地域ごとの差異を織り込みながら再検討することが本共同研究の課題となる。(服部) 旧著『近代日本と公衆衛生』(雄山閣)及び2021年に都市史学会より発行された『都市史研究』第8号にまとめた論文を土台に、それを補足する内容で、報告者のこれまでの都市衛生史研究を紹介した。 「コレラの流行と公衆衛生政策の歩み・概観」として江戸時代から1890年代までの感染症対策の変遷を概観した。次に、明治維新後のコレラの大流行下で生起した社会的差別の顕在化について、具体的な地名などもあげて要点を述べた。その上で、一昨年以来の新型コロナの経験を踏まえ、防疫活動の担い手が現場で何を考え、何を学んだかということに注目するようになったとして、1890年代に京都の医師たちが記録した「市医日誌」を紹介した。この史料は、京都市の情報公開請求制度を利用して、誰もが閲覧できるが、まだほとんど活用されていないが、現場での医師らの意識の変化をとらえることができる重要な史料と思われる。この報告によって、19世紀末日本における都市公衆衛生のモデルケースが明らかになった。(小林) |