以下、本文になります
第2研究 留岡幸助関係資料からみた日本近代 研究代表者:関口 寛(人文科学研究所)
本研究会は、19世紀末から20世紀初頭にかけて社会事業の先駆者として活動した留岡幸助の資料を通じて、日本近代化に彼が果たした役割と、当該期に登場した新たな「救済」のあり方を検討することを目的とする。留岡が残した膨大な日記や手帳などを用い、彼の社会事業論の特徴や社会的逸脱者への視点、またそれに基づく政策の展開を具体的に分析することで、当時の社会事業が有していた特徴と、その過程で生じた社会的な境界やカテゴリー、統治の在り方を明らかにする。また、西洋との比較統治史の観点を取り入れ、日本における「包摂」と「排除」の問題を総合的かつ多角的に考察することを目指す。
2026年度
| 開催日時 | 第14回研究会 2026年6月28日 14時~17時10分 |
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| 開催場所 | 同志社大学 今出川校地 啓明館 共同研究室A |
| テーマ | 「留岡幸助の経済と道徳――ラーネッドの教育からラスキンへの傾倒へ」 |
| 発表者 |
笠井 高人 氏 |
| 研究会内容 |
第14回研究会では、はじめに連絡・報告事項の共有がなされた。特に、杉井六郎氏旧蔵資料の寄贈について報告があり、かつて1970年代後半に本研究所で行われた「留岡幸助研究」・「『人道』の総合的研究」における資料調査や研究会の様子をうかがわせる写真などが紹介された。
続いて、研究員の笠井高人氏より「留岡幸助の経済と道徳――ラーネッドの教育からラスキンへの傾倒へ」と題して研究報告が行われた。笠井氏はまず、二宮尊徳やラスキンに傾倒した留岡の経済学理解・経済観は、イギリス正統派経済学でもマルクスなどの社会主義でもない、やや特殊なものであることを示唆しつつ、留岡における経済と道徳の関係はいかなるものであったのか、また、それはどのように形成されたのかという問いを設定した。そして、先行研究の検討を行い、ラーネッドからの影響の実相や、留岡はラスキンと二宮のどちらを先に発見したのかといった、今後さらに検討すべき論点が提示された。
留岡幸助の経済論に関しては、留岡自身がラーネッドから経済学の授業を受けていたか否かは不明であるとした上で、ラーネッドの授業内容と留岡の著作との比較が行われた。その結果、ラーネッドの講義はミルの議論を基礎にドイツ歴史学派や社会政策が盛り込まれたものであったにもかかわらず、留岡の叙述にはこれらへの言及が見られないことから、留岡にはラーネッドの経済学は共有されていないとの指摘がなされた。そして、むしろ留岡はフェノロサと同様に、理財学としてPolitical economyを捉え、その倫理的側面の欠如を克服する必要を認識したがためにラスキン思想へ接近していった可能性が論じられた。
また、ラスキンに言及した留岡の著作を検討し、留岡はラスキンの著作をかなり広範に読んでおり、とりわけ『この最後の者にも』をよく用いたことが確認された。そして、ラスキンへの言及の仕方は時代とともに変遷していることが指摘され、留岡は1897年にはキリスト教思想としてラスキン思想を摂取したが、1907年頃より報徳思想を起点として経済と倫理を扱う思想家としてラスキンを「再発見」したという認識が提示された。
報告後には質疑応答・ディスカッションが行われた。当日の出席者は10名であった。
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| 開催日時 | 第13回研究会 2026年5月24日 14時~17時20分 |
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| 開催場所 | 同志社大学 今出川校地 啓明館 共同研究室A |
| テーマ | 「留岡幸助と片山潜、その交流と分岐」 |
| 発表者 |
野口 道彦 氏 |
| 研究会内容 |
第13回研究会では、研究員の野口道彦氏より「留岡幸助と片山潜、その交流と分岐」と題して研究報告が行われた。
岡山県に生まれ、約12年間の米国生活の中でキリスト者となり、帰国後はキリスト者社会事業家としてセツルメント「キングスレー館」を設立した片山潜(1859~1933)は、留岡幸助と多くの共通点を有する人物である。しかし、両者の歩みはやがて分岐していくこととなる。留岡が社会の矛盾を体制内で改善する「社会改良」に踏みとどまったのに対し、片山は社会的キリスト教から労働運動へ、さらに社会主義・共産主義へと思想的立場を変化させていった。
野口氏は『留岡幸助日記』を用いて、留岡と片山の出会いと交流の実態を明らかにした。とりわけ在米時代には、留岡が影響を受けた監獄改良家エリザベス・フライの伝記が片山から留岡に送られていたこと(1897年10月8日の記述)などを紹介し、両者の間に一時期、思想的な親近性がみられたことを指摘した。
しかし、共産主義者となった後年に執筆された片山の自伝には、神学の学びやキリスト教信仰はプラグマティカルに利用したものに過ぎなかったかのように記されており、アンドーバー時代の片山におけるキリスト教理解の実態は必ずしも明らかではない。野口氏は、片山の著作を分析し、留岡のキリスト教理解との一致点・相違点を検討することを今後の課題として提示した。
また、帰国後の両者の関係については、『留岡幸助日記』から両者の交流を示す記述がほとんど確認できないことから、次第に距離が開いていったものと推測されることを指摘した。
最後に野口氏は、片山と留岡の交流および分岐を検討することが、留岡のキリスト教への失望や報徳会への接近、さらには労使協調路線の支持や、全国水平社による徹底糾弾への批判を理解するための重要な手がかりとなるとの展望を示した。あわせて、今後取り組むべき具体的な研究課題についても提示した。
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| 開催日時 | 第12回研究会 2026年4月26日14時~17時00分 |
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| 開催場所 | 同志社大学 今出川校地 啓明館 共同研究室A |
| テーマ | 「留岡幸助と『北海道バンド』について」 |
| 発表者 |
室田 保夫 氏 |
| 研究会内容 |
第12回目(2026年度第1回)となる今回の研究会では、研究員の室田保夫氏より「留岡幸助と『北海道バンド』」と題して研究報告が行われた。「北海道バンド」とは、典獄 大井上輝前のもとに監獄改良を主眼に集ったキリスト教教誨師らの総称として用いられてきた表現であり、その中からは、後の社会事業の発達に貢献した人物が多数輩出されたと言われる。なお、日本キリスト教史では、熊本洋学校でL.L.ジェーンズの薫陶を受けた後に初期の同志社で学んだ人々を「熊本バンド」と称するなど、一定の共通項を持つ集団をしばしば「バンド」と呼び習わしてきた(札幌、弘前、横浜、浜松、松江、等々)。
室田氏はまず、「北海道バンド」という表現の初期の用例として生江孝之『基督教社会事業史』(教文館、1931年)および生江『日本基督教社会事業史』(東方書院、1935年)における説明を紹介され、北海道バンドについて周辺を含めた主な研究史も概観された。次に、北海道バンドを研究する上での重要史料となる『同情』誌(1892年1月創刊)および「同情会」について、同誌や『留岡幸助日記』における記述に基づき、その趣意や会員、掲載された留岡の論文を紹介するとともに、「同情」という言葉が今日とは多少異なった意味合いで用いられている可能性を示唆された。
さらに、北海道バンドのメンバーとして、大井上、原胤昭、留岡、阿部政恒、松尾音次郎、大塚素、水崎基一、牧野虎次、山本徳尚を、北海道バンドの関連人物として生江、渡辺亀吉、有馬四郎助を挙げ、それぞれの略歴について室田氏自身のこれまでの研究も振り返りつつ紹介するとともに、未だその経歴に不明点が多い篠宮極吉(拯吉)、末吉俣造、中江汪について研究すべき課題を示された。
報告の後には質疑応答・ディスカッションも行った。出席者は11名であった。
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2025年度
| 開催日時 | 第11回研究会 2026年3月29日14時~17時15分 |
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| 開催場所 | 同志社大学 今出川校地 啓明館 共同研究室A |
| テーマ | 「家庭学校所蔵資料の検討―留岡幸助校長時代の書簡を中心に―」 |
| 発表者 |
二井 仁美 氏 |
| 研究会内容 |
2025年度最後となる第11回研究会では、留岡幸助ならびに家庭学校研究の第一人者のひとりである二井仁美氏(奈良女子大学研究院人文科学系)をゲスト講師に迎え、「家庭学校所蔵資料の検討―留岡幸助校長時代の書簡を中心に―」と題する報告を受けた。
二井氏ははじめに、研究の出発点や自身の問題意識の所在について振り返られた。とりわけ、博士課程在学中の北海道家庭学校での実習で、現場の職員から受けた問いかけと、「教育と福祉の谷間」の問題について語られ、留岡幸助個人から、家庭学校史研究・児童自立支援施設史研究へと自身の研究対象が定まっていった経緯を示された。
次に、二井氏が中心となって進められてきた北海道家庭学校所蔵資料の整理と目録作成についても報告がなされた。作業開始以前の資料をめぐる状況と、長期にわたって北海道・遠軽の北海道家庭学校に通いながら進められた作業の経過とその過程で直面した諸課題、およびその成果が紹介された。
また、東京家庭学校所蔵資料についての紹介もなされた。東京家庭学校所蔵資料については、既に『茅ヶ崎市史資料所在目録 12 東京家庭学校所蔵資料』(茅ヶ崎市、1996年)が存在したが、その整理対象外資料について二井氏が中心となって整理を行い、これまでに二つの目録を作成された(『東京家庭学校所蔵資料目録(欧文雑誌編)』2004年。『近代日本における感化教育の特質 留岡幸助が收集した欧米情報を中心に 平成16〜18年度科研報告書 東京家庭学校所蔵資料目録(欧米刊行物編)』2007年)。二井氏は、これらの資料の状況や目録の課題について説明された。
そして最後に、北海道家庭学校所蔵書簡の概要紹介もなされた。同資料群は、10,194通の書簡からなるもので、二井氏は2025年に『北海道家庭学校所蔵書簡目録』を家庭学校に提出するとともに、「『北海道家庭学校所蔵書簡目録』所収の書簡」(『ひとむれ』2026年2〜4月)を発表された。
報告の後、質疑応答を行った。なお、出席者は14名であった。
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| 開催日時 | 第10回研究会 2026年2月22日14時~17時00分 |
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| 開催場所 | 同志社大学 今出川校地 啓明館 共同研究室A |
| テーマ | 「留岡幸助の移動を跡づける:内務省嘱託としての国内視察・講演を中心に(1900年8月~1914年3月)」 |
| 発表者 |
本岡 拓哉 氏 |
| 研究会内容 |
10回目となる今回の研究会では、研究員の本岡拓哉氏による「留岡幸助の移動を跡づける:内務省嘱託としての国内視察・講演を中心に(1900年8月~1914年3月)」と題する研究報告が行われた。本報告は、留岡幸助の内務省地方局嘱託期(1900年8月〜1914年3月/留岡36〜49歳)における国内視察および講演活動に伴う移動の実態を跡づけ、その特徴を明らかにしようとするものである。
本岡氏はまず、今回の分析が史料的・時間的制約から当該期間の全体を網羅するものではないことを前置きした上で、留岡の移動の全体像を検討し、訪問先、期間、移動手段、経費、同行者、出迎え者、宿泊先等について傾向を示した。留岡は京阪神、岡山、静岡、愛知、広島などへ頻繁に赴く一方、未訪問の県もあるなど訪問先には地域的な偏りがみられた。また、一度の移動は1〜2週間が多いが1ヶ月に及ぶ場合もあり、移動手段としては鉄道、蒸気船、人力車、自転車などが用いられ、警察船や石油発動車を利用することもあったという。さらに各地では名士や知人による出迎えがあり、格式ある旅館を常宿とする実態も明らかにされた。
続いて本岡氏は、留岡の視察活動についても跡づけ、農政、監獄、教育、地域改良に関わる諸施設を視察するとともに、有名人の墓参や神社参拝なども行っていたことを確認した。ただし、留岡の視察メモは自身の観察に基づく記述というよりも、各地の有力者等から聞き取った事柄をまとめた「見聞録」的側面が強いことも指摘された。さらに講演活動についても、会場の種類や規模、聴衆層などの特徴が示された。
最後に本岡氏は以上の分析を総括し、これだけの移動を可能にした背景には、留岡自身の体力や精神力のみならず、内務省・警察のネットワークや協力者の存在、さらに電信・交通網の発展があったと考察した。本報告は、移動という観点から留岡幸助の人物像を再構築する可能性を示すとともに、その移動の軌跡を通じて近代日本における社会改良運動と国家・地域社会との関係を捉え直す新たな研究の視角を提示するものであった。なお、報告の後には質疑応答およびディスカッションが行われ、報告内容をめぐって活発な意見交換がなされた。出席者は8名であった。
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| 開催日時 | 第9回研究会 2026年1月25日14時~17時00分 |
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| 開催場所 | 同志社大学 今出川校地 啓明館 共同研究室A |
| テーマ | 「留岡幸助日記の静岡県の記事をめぐって――浜名郡吉野村を中心に――」 |
| 発表者 |
小林 丈広 氏 |
| 研究会内容 |
第9回目となる今回の研究会では、研究員の小林丈広氏により「留岡幸助日記の静岡県の記事をめぐって――浜名郡吉野村を中心に――」と題した研究報告が行われた。小林氏は、留岡幸助日記の刊本(『留岡幸助日記』矯正協会)と原本の突き合わせ作業を通して、刊本において割愛された部分を特定し、そこに吉野村における実践のリアルな実態をうかがい知る手がかりがあることを示された。
報告においてまず取り上げられたのは、日記原本No.176および刊本『留岡幸助日記』3巻575頁以下の静岡出張の記述である。小林氏は刊本における割愛部分を翻刻し、この時期の翻刻方針が部落問題に関する記述を避けているわけではなく、情報として曖昧な箇所を割愛している可能性が高いことを指摘された。
次に取り上げられたのは、日記原本No.250および『留岡幸助日記』4巻383頁以下の静岡県浜名郡吉野村関係時期である。小林氏は、この記事を大正期の吉野村を知る上で貴重なデータと評価し、更にその分析を通して、「貧乏人追払ひの模範村」(『自由新聞』創刊号、1925年、6月10日)などと批判されることもあった北村電三郎らによる吉野村の改善運動の実態が、必ずしもその批判の限りではなく、「悪漢」とされた人物に住居と結婚相手を世話するなど、異なる一面も持つものであったことを示された。
なお、報告の後には質疑応答・ディスカッションを行った。出席者は15名であった。
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| 開催日時 | 第8回研究会 2025年12月21日14時~17時20分 |
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| 開催場所 | 同志社大学 今出川校地 啓明館 共同研究室A |
| テーマ | 「留岡幸助の部落観」 |
| 発表者 |
石元 清英 氏 |
| 研究会内容 |
第8回目となる今回の研究会では、研究員の石元清英氏によって、「留岡幸助の部落観」と題する研究報告が行われた。報告の概要は以下のとおりである。
石元氏はまず、留岡が部落問題に取り組む契機としてたびたび語ってきた、教誨師時代におけるいわゆる「発見」のエピソードを取り上げた。留岡は、空知集治監で教誨師を務めていた際、囚人の中に被差別部落出身者が多いことを「発見」し、日本における犯罪数を減少させるためには被差別部落の犯罪を減らすことが重要であると考えるに至った、という経験をしばしば語っている。しかし、石元氏が教誨師時代の留岡の日記原本を確認したところ、この「発見」に該当する記述は見当たらないことが指摘された。こうした点から石元氏は、このエピソードが後年に形成された語りである可能性を示唆した。
次いで報告では、留岡の講演や著作における被差別部落への言及について、衛生、犯罪、起源、改良の方法とその成果、竹葉寅一郎との関係といった観点から整理・紹介が行われた。また、日記原本に見られる留岡の部落問題認識についてもあわせて紹介された。
報告の結論として石元氏は、留岡が部落改善の意義や必要性を社会に広く伝えるため、部落の低位性を過度に強調する言説を用いた可能性を指摘した。あわせて今後の研究課題として、留岡によって誇張されたと考えられる実態が、当時の社会における部落観にどのような影響を与えたのかを検討する必要性が示された。
報告後には活発な質疑応答およびディスカッションが行われ、当日の出席者は13名であった。
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| 開催日時 | 第7回研究会 2025年11月23日14時~17時20分 |
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| 開催場所 | 同志社大学 今出川校地 啓明館 共同研究室A |
| テーマ | 「“帝国”の留岡幸助―財閥との関係についての考察―」 |
| 発表者 |
井岡 康時 氏 |
| 研究会内容 |
第7回目となる今回の研究会では、研究員の井岡康時氏により「“帝国”の留岡幸助―財閥との関係についての考察―」と題して研究報告が行われた。これは、財政の面から留岡の活動を明らかにするものであった。報告の概要は以下の通りである。
井岡氏は、後には報徳思想に基づいて大富豪の寄付の正当性を主張することとなる留岡が、鉱毒事件や労働争議にどのような関わり方をしたのか探求する必要があるという先行研究の提起(室田保夫)を確認し、この報告の目的を、留岡が社会事業家として、鉱毒事件や労働争議などの社会問題にどのような向き合い方をしたのか、その内実を問うことと設定された。
そのうえで井岡氏は、日記の記述が残る1887~1929年を4期に分け、日記原本および先行研究への検討を通じて以下の諸点を指摘された。
・ 留岡は家庭学校設立以前から財閥経営者の発言に注意していた(1887〜99年)。
・ 東京に家庭学校を創設し、内務省嘱託となって以降、財閥関係者との交流が深まり、家庭学校の経営基盤は古河財閥の支援や皇室の下賜金により整っていった。そして次第に、企業の生産現場への視察が増え、家庭学校の理事・評議員にも財閥・企業経営者が入ってくるようになる(1899〜1914年)。
・ 北海道に社名淵分校を開設して以降は経営状況が悪化し、こうした状況を打開するためか、これまで以上に多くの財閥・企業経営者との関係を深めていった(1914〜23年)。
・ 努力にも関わらず家庭学校の財務状況は改善せず、留岡はこれまで以上に多くの財閥指導者や企業経営者と熱心に会い、家庭学校維持に奔走した。こうした状況に対して息子である留岡清男からは「事業形態そのものの破綻」として捉え「組織を大幅に変える提案」も受けている(1923〜29年)。
そして報告の最後に、本報告を総括しつつ仮説として次のことが示された。留岡は、明治・大正期の日本社会における貧困・差別・排除を背景に生じる社会問題を解決することに一生を投じた。しかし、財閥との提携を深めていった結果、巨利を求めてアジア侵略へと向かう国家の動向を批判する視点を持ち得なかった。留岡は、報徳思想とキリスト教の信仰の土台の上に問題の克服を目指したが、その試みは十分には成功しなかった、ということができよう。「では、どうすればよかったのか」という問いは、日本近代史研究における大きな問題である。また、報告の後には活発な質疑応答・ディスカッションが行われた。井岡氏からは、留岡日記原文に対する更に精緻な分析を通して、留岡の「つぶやき」を拾い上げることを今後の展望および課題として述べられた。 |
| 開催日時 | 第6回研究会 2025年10月26日14時~17時20分 |
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| 開催場所 | 同志社大学 今出川校地 啓明館 共同研究室A |
| テーマ | 「細民部落改善協議会『速記録』(1912.11)の検討」 |
| 発表者 |
手島 一雄 氏 |
| 研究会内容 |
第6回目となる今回の研究会では、研究員・手島一雄氏より「細民部落改善協議会『速記録』(1912年11月)の検討」と題して研究報告が行われた。
細民部落改善協議会とは、内務省の主催により、全国各地で被差別部落の改善に取り組む地方官僚や篤志家139名が集まり、1912(大正元)年11月7日から9日にかけて開催されたものである。留岡幸助は当時、内務省嘱託として主催者側の立場から参加していた。
手島氏は、今後「留岡日記」などを用いて事実関係を再構成していくための基礎研究として本報告を位置づけ、この協議会で取り上げられた11項目──「教育」「風俗」「職業」「居住」「衛生」「納税」「金融・貯蓄」「社交」「改善機関」「神社・宗教」「移住・出稼ぎ」──それぞれについて、主要な論点を整理し、注目すべき発言の紹介を行った。
また、検討の結果浮かび上がった点として、手島氏は次の諸点を指摘した。
・ 被差別部落とそれ以外の地域の子どもを分離して教育すべきか、混合して教育すべきかという議論が交わされていたこと。
・ 部落改善における農業奨励の有効性が共有されつつも、小作料の高さや農地購入の困難が課題として指摘されていたこと。
・ 浴場建設が、衛生環境の改善や心身の疲労回復に加え、改善運動資金の捻出や部落内外の融和など、多面的な効果をもつと報告されていたこと。
・ トラホームの原因や治療法について見解が一致せず、不確実な情報が流言や偏見を助長していたこと。
さらに手島氏は、留岡による〈部落=残酷な犯罪〉論の問題点、農業奨励と北海道移住政策との関連、戦後同和行政へと引き継がれる課題、そして官僚たちが差別の実態をどこまで把握し得ていたかといった論点についても考察を加えた。
当日は12名が出席し、活発な意見交換が行われた。
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| 開催日時 | 第5回研究会 2025年9月28日 14時~17時 |
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| 開催場所 | 同志社大学 今出川校地 啓明館 共同研究室A |
| テーマ | 「留岡幸助と品川義介――元家庭学校博物館所蔵アイヌ民具コレクションを手がかりに」 |
| 発表者 |
小田 龍哉 氏 |
| 研究会内容 |
第5回目となる今回の研究会では、研究員・小田龍哉氏より「留岡幸助と品川義介――元家庭学校博物館所蔵アイヌ民具コレクションを手がかりに」と題して研究報告が行われた。
小田氏の報告によれば、元北海道家庭学校博物館所蔵アイヌ民具コレクションは、衣食住や生業、信仰にかかわる約70点から成る資料群であり、アイヌ研究者・教育者の吉田巌(1882〜1963)の協力により、帯広伏古のコタンから収集されたものである(現在は帯広百年記念館が所蔵)。
この資料の収集と博物館設置を家庭学校で主導したのが、品川義介(1889〜1982)であった。品川は同志社を退校となった後、留岡幸助の講演に感銘を受けて声をかけ、これをきっかけに留岡と邂逅。1916年から1925年までの約10年間、最初期の家庭学校社名淵分校において教育実践に携わった。
小田氏は、留岡と品川それぞれのアイヌ観を日記や著作に基づいて検討し、留岡のアイヌ観が渡米の前後で変化していること、また両者のアイヌに対する姿勢に相違があることを指摘した。その上で、この相違を分析する手がかりとして、19世紀前半のアメリカにおける超越主義思想の影響に注目していきたいとの展望を示した。
報告では、元北海道家庭学校博物館所蔵アイヌ民具コレクションの現地調査写真を交えた資料紹介も行われ、発表後には活発な質疑応答とディスカッションが展開された。
出席者は14名であった。
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| 開催日時 | 第4回研究会 2025年7月27日 14時~17時30分 |
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| 開催場所 | 同志社大学 今出川校地 啓明館 共同研究室A |
| テーマ | • 「留岡幸助に関する先行研究のリスト化・共有の準備状況と研究史について」 • 「留岡幸助日記について」 |
| 発表者 |
佐々木 結 氏 関口 寛 氏 |
| 研究会内容 |
第4回目となる今回の研究会では、研究員の佐々木結氏と関口寛氏により2つの報告がなされた。
「留岡幸助に関する先行研究のリスト化・共有の準備状況と研究史について」と題した佐々木氏の報告では、先ず同氏が作成した先行研究リストに基づき、留岡研究の状況が概観された。そして、既に第1回および2回研究会で紹介された室田保夫氏による『留岡幸助の研究』(1998年)より後に刊行された留岡を主題に据えた書籍として田澤薫『留岡幸助と感化教育』(勁草書房、1999年)、二井仁美『留岡幸助と家庭学習』(不二出版、2010年)、田中和男(法律文化社、2000年)、兼田麗子『福祉実践にかけた先駆者たち――留岡幸助と大原孫三郎』(藤原書店、2003年)、倉田和四生『留岡幸助と備中高橋』(吉備人出版、2005年)等を取り上げ、それぞれの研究視角や留岡の思想や生涯のどの部分に焦点をあてているかといった点を確認し、今日における留岡幸助研究の到達点と課題を明らかにすることを試みられた。
続いてなされた関口寛氏による「留岡幸助日記について」と題する報告では、史料の外形的特徴が解説された。特に、日記の手稿原本、マイクロフィルム版、翻刻刊行版等、6パターン存在する留岡幸助日記の諸版についての来歴と概要の紹介と、諸版の間で日記の総冊数が一致していないという問題に対する関口氏の考察が示された。
その後、報告内容をめぐる質疑応答・ディスカッションを行った。出席者は12名であった。
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| 開催日時 | 第3回研究会 2025年6月22日 14時~17時30分 |
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| 開催場所 | 同志社大学 今出川校地 啓明館 共同研究室A |
| テーマ | 「留岡幸助研究の視座について」 |
| 発表者 |
関口 寛 氏 |
| 研究会内容 |
第3回目となる今回の研究会では、研究会代表者の関口寛氏より、「留岡幸助研究の視座について」と題する報告が行われ、共同研究のねらいの共有とその深化が図られた。報告は、「はじめに」「1 科学的知見への関心と社会事業の開始」「2 留岡の社会事業論と統計調査」「おわりに」の四部構成であり、「はじめに」では、70年代に行われた留岡研究が依拠していたと思われる従来の研究視角について検討された。また、関口氏の関心に基づいて2025年現在(ポスト コロナ)の歴史学・人文学の様々な研究と多様な研究視角が紹介され、本共同研究の視角をめぐるディスカッションへの手がかりが提示された。
「1」では、19世紀半ばにロンブローゾ(1836-1909)によって提唱され、世界的に影響を及ぼした犯罪学と、日本におけるその受容と展開について紹介された。そのうえで、留岡の著述が複数紹介され、留岡の思想・実践の特徴として科学的知見に基づいて人間の発達プロセスに介入しようとしていること、社会防衛を目的としてその社会事業が構築されていることなどが指摘された。
「2」では、監獄教誨師時代に留岡が行った受刑者調査と内務省嘱託として行った被差別部落への統計調査について紹介がなされた。留岡は数値に基づいて問題を可視化する方法を採っており、その論理は科学的であると共に、それが調査対象に対する負のイメージを拡散する側面もあったことが指摘され、留岡に対する評価の困難さが示された。
「おわりに」では、留岡の慈善観をめぐって、今後の展望と課題が述べられた。
その後休憩を挟んで研究会の後半では、関口氏の報告に対する質疑応答と提起された問題をめぐるディスカッションが行われた。
参加者は13名であった。
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| 開催日時 | 第2回研究会 2025年5月25日 14時~17時30分 |
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| 開催場所 | 同志社大学 今出川校地 啓明館 共同研究室A |
| テーマ | 「留岡幸助の研究に携わって――その歩みと課題」 |
| 発表者 |
室田 保夫 氏 |
| 研究会内容 |
第2回目となる今回の研究会では、研究員の室田保夫氏より、「留岡幸助の研究に携わって――その歩みと課題」と題する報告が行われた。室田氏は、自身の著書である『基督教社会福祉思想史の研究――「一国の良心」に生きた人々』(不二出版、1994)、『留岡幸助の研究』(不二出版、1998)およびこれらの後に発表した留岡にかんする論稿の概要を紹介し、自身の研究を振り返えられた。また、他の研究者や家庭学校関係者等の著作も概観し、留岡研究の状況についても示し、今後の課題として幾つかの点を挙げられた。
その後、報告内容をめぐる質疑応答が行われた。また室田氏からはこれまでに指摘されてきた留岡と天皇制との関わりや部落問題への関与をどのように考えるべきかといった問題提起が行われ、今後議論を深めるべき課題や論点についてのディスカッションが行われた。
出席者は12名であった。
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| 開催日時 | 第1回研究会 2025年4月27日 14時~17時15分 |
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| 開催場所 | 同志社大学 今出川校地 啓明館 共同研究室A |
| テーマ | • 研究員の顔合わせと今後の活動についての相談 • 本部門研究会発足に至るまでの留岡幸助研究の状況について |
| 発表者 |
関口 寛 氏 室田 保夫 氏 |
| 研究会内容 |
今回の研究会では、研究員の自己紹介、部門研究会の発足までの経緯についての報告、諸連絡がなされた。
本研究会は第22期より新たに発足した研究会であるため、最初にそれぞれの研究員から自己紹介と研究計画の概要等が述べられた。
次に、部門研究会の発足までの経緯にかんして、室田保夫氏、関口寛氏より報告がなされた。かつて1970−80年代にかけて同志社人文研で行われた留岡幸助研究会に参加していた室田保夫氏からは、当時の研究会の様子、史料収集、成果の刊行、その反響等についての報告がなされた。なお、この研究会の成果としては、『留岡幸助著作集』(全5巻)、『キリスト教社会問題研究』留岡幸助研究特集号(第28号、1980年1月)、『人道』復刻版(全18巻)等が刊行されており、この研究会によって収集された多くの史料も人文研に所蔵されている。室田氏の報告により、本研究会でも今後活用していくこととなる諸史料や先行研究の背景と課題が共有された。また、この報告は同志社人文研の歴史にかんしても興味深い証言を含むものであった。
関口寛氏からは、世界人権問題研究センター登録研究「留岡幸助日記研究会」でこれまでに進められてきた史料の収集、解析の経過について報告がなされた。この共同研究は、北海道家庭学校所蔵「留岡幸助日記浄書原稿」(321冊)の解析・目次作成を5年間かけて行ってきた。これらをつうじて従来知られていなかった史料の存在や日記の内容が判明し、新たな研究が可能となる状況が整えられてきた。
さらに続けて関口氏より第22期より新たに始まる本研究会の趣旨についても説明がなされ、①護教主義や外在的批判に陥ることなく現代的視点にもとづく歴史像を提示する、②従来十分に活用されなかった日記等の史料を用いる、③諸アクターの連関に注意し日本近代にかんする新たな視点を提示する、という3つの方針が共有された。
最後に、研究成果刊行にかんする計画や予算関係の諸連絡がなされた。参加者は15名であった。
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