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第3研究 1950年代日本における平和共生教育活動と越境キリスト教  研究代表者:吉田 亮(社会学部)

 1950年代以降の平和運動の研究はすでに成果をあげている。一方で、先行研究は一国史観を前提としており、平和共生活動の持つ越境性については、解明が進んでいない。ここでいう平和共生活動とは、極めて包括的な概念であり、国家間の対立(戦争)だけでなく、あらゆる対立(例えば属性による差別)解決を目指すものを含む。では、当該時期、日本のキリスト者(仏教徒含む)内で、どのような越境的平和共生活動の萌芽・展開がみられたのか。本研究会では、キリスト教(仏教を含む)の越境性が発揮されることによって多様に展開された平和共生教育活動を個別的に事例として分析し、その共通点や相違点を考察する。尚、分析時の変数としては、国籍、地域、宗教、ジェンダー、言語差を取り上げる。

2025年度

開催日時 第2回研究会 2025年9月27日 13時~16時30分
開催場所 オンライン開催
テーマ ・  IBCの活動動向に関する研究の可能性について
・  田畑忍の平和観―田畑研究の方向性についてー
発表者
辻直人、神田朋美
研究会内容
 IBCの活動動向に関する研究の可能性について
辻 直人
 
 辻は1947年、戦後復興興支援のため北米諸教派が組織したキリスト教事業連合委員会(IBC)と日本側の教会窓口との協議の場として組織された内外協力会について報告した。IBCは日本に残った8教派を支援する目的で設立され、その史料も紹介された。
  吉田は、関係学校協議会の設立がIBCにとって苦渋の選択だったのか、それとも必然だったのかを問い、北陸学院への支援が他教派に比べて多かったのか尋ねた。辻は現段階では不明であり、今後の課題とした。郷戸は北陸学院への支援の具体的な方法や寄付者はどういう人たちなのか(日系人かアメリカ人か)について質問した。辻はその点は、どこまで追えるかわからないが、日系人が多かったとは言えないと答えた。
  吉田は、教会指導者はエキュメニカルな姿勢を示す一方で、信者は教派に基づいて行動する傾向があると指摘。また、IBCを介さずに支援を受けた例として同志社大学を挙げた。石村は神戸女学院がIBCに依存せず自力で復興を目指したことを紹介し、吉田は同志社がIBCとアメリカンボード双方から支援を受けていた点に注目し、IBCの対応の多様性に関心を示した。
  竹本は紹介された史料が公開されているものなのか確認し、辻は教団が持っている非公開ではない史料であると回答。プレビステリアンのデジタルコレクションとの照合は未確認であると述べた。また、IBCがなぜ8教派に限定されたのかについて、アメリカ側の考えの調査を提案した。辻は、戦後日本に残った教派への支援が目的だったと説明した。
 吉田は、教派協力は戦前から存在し、15教派に声をかけたが6教派しか残らなかったと述べ、今後の研究のテーマを絞ること(財政支援の分配、宣教師の配置、日本からアメリカ留学者の選抜、時代)、内外協力会についてはIBC側だけでなく日本側の史料も併せて検討すべきだと助言した。


田畑忍の平和観
―田畑研究の方向性についてー
神田 朋美

 
 神田は、憲法学を通じて平和を訴えた田畑忍の平和観を彼の言論活動と教育活動に着目して明らかにしたいと述べた。 
 吉田は、田畑が、戦後日本のキリスト教平和運動において全国的に知られていない存在であることから、その実態を研究する意義をみとめるが、研究会の主旨であるトランスナショナル・ヒストリーの文脈にどう位置付けるかが課題だと指摘した。神田は、越境的な要素が見えにくいため、テーマ変更も考えざるを得ないと述べた。
  これに対し、吉田がエレノア・ルーズベルトが来日時、京都で田畑は司会を務め、軍事増強反対の手紙を送ったという話を紹介した。その手紙によって、軍拡のため来日していたエレノアが、方針を変えたとも言われており、もしその手紙がルーズベルト文書館に残されていれば、国際的影響を示す史料となり得る、と助言した。 
 また、吉田は、同志社の平和運動が、ベ平連につながる可能性を指摘し、田畑の教育を受けた学生がベ平連に関与していたならば、思想的流れが見えてくると述べた。ただし、同志社の平和運動は海外との接点が乏しく、田畑の思想形成が海外からの影響があったのか再検討する必要があるとし、高木正太郎のイギリス思想の影響が田畑に及んだ可能性も指摘した。
  池端は、ベ平連が黒人活動家ラルフ・フェザーストーンを招いた事例を挙げ、国際的ネットワークの存在を指摘したが、田畑との関係は不明である。吉田は、田畑が活動的であったことから、人的ネットワークの可能性もあるとし、日記の有無を問うた。神田は日記は未確認だが、草津の図書館での調査を行う予定であると回答した。神田が今後の展開次第では、研究の方向転換も視野に入れ、吉田への相談も検討していると述べた。特に、エレノア・ルーズベルトの日本滞在(東京・京都・広島)における田畑との接点を丁寧に追うことが、研究の鍵となるだろうと、吉田は助言した。
開催日時 第1回研究会 2025年8月23日 13時~16時30分
開催場所 オンライン開催
テーマ ・ 研究打合せ会
・ 続・占領期に来日したアメリカ日系二世宣教師について ー1950年代を中心にー
・ キリスト教主義女子学校における平和意識 ー1950年代前半の神戸女学院にみるー
発表者
吉田亮 、 石村真紀
研究会内容
 続・占領期に来日したアメリカ日系二世宣教師について
ー1950年代を中心にー
吉田亮

 吉田は、戦前期の日米越境キリスト教史が戦後期にどう展開したかを、占領期に来日したアメリカ日系二世宣教師の活動を通じて考察している。本報告はその中間成果である。
 池端からは「リベラル派」と「福音派」の定義について質問があり、吉田は前者を社会的実践重視、後者を内面性と信仰重視と位置づけた。両派とも時代によって戦争観が変容し、戦争反対の姿勢を示した時期もあったと述べた。
 郷戸からは、対象とした二世宣教師5名の選定理由について質問があり、特にサワダが日本語や文化を継承していないにもかかわらず渡日した点に関心が寄せられた。吉田は、戦時中に敵性外国人とされた日系人でもキリスト教コミュニティは受け入れており、彼らの「アメリカ人としてのクリスチャン・アイデンティティ」が強化されたと述べた。
 辻は、GHQがモルモン教をキリスト教として認識していたかを問うたが、吉田は資料に明記はないものの、宗教として扱われていた可能性が高いと回答した。石村からは、教育に従事した3名が学校内でキリスト教活動を行っていたかについて問われたが、現時点では不明であり、今後の調査課題とされた。
 神田は、GHQが二世宣教師を「架け橋」として積極的に評価していたのか、それとも利用的に捉えていたのかを尋ねたが、吉田は判断がつかないと述べた。また、「あらたなる誤解」とは、二世が日本人の顔立ちをしていることから、日本人として数えられることに憤りを抱いた人々の感情を指す。彼らは、なぜ二世がアメリカ市民として扱われるのかという疑問やジェラシーを抱いていた。
 最後に高橋からは、29名の日系宣教師のジェンダー比率と農村伝道の実態について質問があり、吉田は日系女性宣教師の独身率が白人女性より低い傾向があるが、具体的な数値は不明と述べた。農村伝道には高い日本語力とマネジメント力が必要であり、エンドウはその両方に秀でていた。都市部出身者が多い中、農村伝道の実態は未解明であり、今後の研究課題とされた。


キリスト教主義女子学校における平和意識
―1950年代前半の神戸女学院にみるー
石村真紀

 石村は、太平洋戦争後にキリスト教主義学校が復興を始めた中で、神戸女学院がいち早く宣教師を帰任させ、新制大学の設置を全国に先駆けて行った点に注目する。特に平和共生運動における宣教師と学院の関わりを、学生自治組織や課外活動を通じて検討する。
 吉田は、神戸女学院の自治会の動きが他大学に影響を与えた可能性を指摘し、横のつながりの調査を提案。また、戦前・戦後の日米クリスチャンの比較も有意義だと述べた。吉田は、田中に京都大学の自治会設立に関する情報を尋ねた。田中は京大では1950年代以降に左派的活動が見られたが、それ以前は生活協同組合的な活動が中心だったとされた。同志社のキリスト教運動史も参考になるとのコメントがあった。
 郷戸は、1949年から神戸女学院の学生が国際学生セミナーやワークキャンプに参加していたことを紹介し、学生の積極性を評価。吉田は、中国の動乱により宣教師が日本のキリスト教主義学校に移ったという説に言及し、石村は良い教員が加わったとの肯定的見解を示したが、単なる教員の補充にとどまらないかは今後の課題とされた。
 関口は、新旧宣教師の関心や思想の違いについて問うたが、資料不足のため現時点では確認できていない。共産主義の広がりがキリスト教主義学校に与える影響については、神戸女学院が距離を取る立場を取っていたが、他校の対応はまだ不明である。
 また、学院長・畠中の思想については、戦前からアメリカの反人種主義的な考え方を持っていたかが問われたが、資料未入手のため断定はできないものの、行動から見て見解は変わっていない可能性がある。吉田は、畠中が退職後にハワイのヌアヌ教会で牧師を務めたことから、「ハワイ」という視点での調査を提案した。
 ロックフォード大学が神戸女学院の姉妹校であるかについては、そうであり、同大学卒業生が採用された可能性があるとされた。根川は、神戸女学院のユネスコ活動が1953年に設立された理由を問うたところ、石村は同年3月に難波茂吉が学長に就任したことが契機ではないかと回答した。