以下、本文になります
第3研究 1950年代日本における平和共生教育活動と越境キリスト教 研究代表者:吉田 亮(社会学部)
1950年代以降の平和運動の研究はすでに成果をあげている。一方で、先行研究は一国史観を前提としており、平和共生活動の持つ越境性については、解明が進んでいない。ここでいう平和共生活動とは、極めて包括的な概念であり、国家間の対立(戦争)だけでなく、あらゆる対立(例えば属性による差別)解決を目指すものを含む。では、当該時期、日本のキリスト者(仏教徒含む)内で、どのような越境的平和共生活動の萌芽・展開がみられたのか。本研究会では、キリスト教(仏教を含む)の越境性が発揮されることによって多様に展開された平和共生教育活動を個別的に事例として分析し、その共通点や相違点を考察する。尚、分析時の変数としては、国籍、地域、宗教、ジェンダー、言語差を取り上げる。
2025年度
| 開催日時 | 第8回研究会 2026年3月28日 13時~16時30分 |
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| 開催場所 | オンライン開催 |
| テーマ | ・ 戦後の同志社アーモスト館 ―国際友愛精神と学生紛争の間でー ・ 戦後日本友和会に始動 ―京都FORに着目してー |
| 発表者 |
物部ひろみ 、 田中智子 |
| 研究会内容 |
戦後の同志社アーモスト館 ―国際友愛精神と学生紛争の間でー
物部ひろみ
吉田氏からは、アーモスト館研究は越境史・同志社研究の両面で意義深いと評価しつつ、1960年代以降の資料に依拠しがちな点が指摘された。『同志社アーモストクラブニュース』(1949–)や寮日誌、OB証言など1950年代一次資料の精査が不可欠であり、ケーリ一家の位置づけ、寮生との関係、湯浅総長・大下学長・OB(北垣教授ら)の関与を踏まえ、アーモスト館が「共生」の場としてどこまで機能したのかを検討すべきとされた。 関口氏からは、アーモスト館がアーモスト大学の寮モデルをどこまで継承したのか、入寮選考基準や戦後教育改革との関連が論点として提示された。物部氏は、アーモスト館はYMCA型宗教寮ではなく、アメリカのフラタニティ文化の移植であった可能性を指摘し、ケーリが戦前から館長を務めていた点から戦後改革の産物ではないと述べた。一方で、戦後改革がケーリの理念形成に影響した可能性は今後の課題とされた。また、寮生の自主性をケーリがどこまで尊重していたかも重要な検討点とされた。 自治性については、郷戸氏よりICU寮との比較が示され、吉田氏はアーモスト館に管理委員会・運営委員会・寮会の三層構造となっており、自治が実質的にどこまで機能していたかは再検討が必要と述べた。池端氏からは、アメリカ的自治理念(ウィルソニアン・ロジック)と実態の乖離、文化帝国主義的側面が指摘され、物部氏もケーリのリーダーシップ評価を含め、理念と現実の矛盾を今後の課題とした。吉田氏は、第5福竜丸事件におけるケーリ発言がケーリ像の再評価に不可欠であると述べた。 松盛氏・辻氏からは明治学院セレベスト館の事例が紹介され、宣教師と学生の生活的近接性が比較対象として示された。根川氏からは、非キリスト教的・非アメリカ的要素、旧制高校的しごき文化といった日本的寮文化との接点を探る視点が提示された。最後に神田氏より、アーモスト館における新島襄の位置づけ、同志社的キリスト教主義とアーモスト的国際主義の差異など、思想史的検討の必要性が指摘された。
戦後日本友和会に始動 ―京都FORに着目してー
田中智子 吉田氏は、国際友和会と日本支部との越境的連関、理念がどのように日本で土着化したのかを問う視点が提示され、戦後の国際平和運動史に新たな角度を与える研究として興味深いと述べた。また、戦後の交流は、レスターやサーバーら外国人メンバーの来日を契機に活発化しており、日本側の活動にどのような影響を与えたのか、史料的に追えるかと問うた。田中氏は、史料として機関誌やFOR関連文書が中心となるが、有賀自身の50年代資料は乏しく、60年代の方が追跡しやすいと説明した。一方、日本側でのレスターの動向は追跡可能であるとした。関谷氏の存在は日本側のフィクサーとして重要であるが、資料の所在は不明瞭で、セイヤー関連資料の調査が必要とされた。また吉田氏が、京都友和会のリーダーについて問われ、田中氏は、西村関一の役割が大きく、今後の調査対象となると述べた。池端氏からは、FORとアイグルハートの関係、JFORの会議録の所在など資料面の課題が示された。JFORは現存するが、日本側資料の入手は難しいが、関係者の情報提供が可能であると述べた。郷戸氏からは、スワースモア・カレッジのピースコレクションにFOR関連書簡が多く収蔵されている点が紹介された。関口氏からは、戦前から存在したJFORが戦後どのような連続性・断絶性を示したのか、賀川豊彦らの関与を含めて検討すべきとの指摘があった。田中氏は、戦前の有賀は反戦的立場を明確にしておらず、むしろ戦後に非暴力や良心的兵役拒否といった概念を語り始めた点を述べた。吉田氏からは、セイヤーと有賀の認識の差異、友和会がキリスト教平和団体の中でどのように位置づけられるのかを明確にする必要性が示された。郷戸氏からは、クウェーカー研究の観点から、一燈園との関係や宣教師ネットワークの広がりが指摘され、辻氏からはウオルサーの教派的背景や明治学院との関係について補足があった。 |
| 開催日時 | 第7回研究会 2026年3月14日 13時~16時30分 |
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| 開催場所 | オンライン開催 |
| テーマ | ・ ジェイコブ・ディシェイザーの日本宣教(越境キリスト教)と平和構築 (=peace building 持続的平和を目指す対話や和解を通した争いの根本的除去) ・ 1950 年代、澤田節蔵の思想と活動 |
| 発表者 |
池端 千賀子 、 根川 幸男 |
| 研究会内容 |
ジェイコブ・ディシェイザーの日本宣教(越境キリスト教)と平和構築
(=peace building 持続的平和を目指す対話や和解を通した争いの根本的除去)
池端千賀子 まず吉田から、本研究はフリーメソジストのトランスナショナル・ヒストリーにおける事例研究としての重要性と池端の過去のアイグルハート研究の比較の必要性をも提唱した。ディシェイザーの「和解」という言葉の独自性について疑問がなされた。「和解」は戦後初期のICU設立や広島の文脈ですでに頻用された概念であり、彼自身の主体的な思想なのか、あるいは福音派の戦略の中で利用された側面があるのではないかという疑問がなされた。これに対し池端氏は、ディシェイザーは強い指導力を持つタイプではなく、通訳の織田金雄らの野心や思惑が活動を主導していた可能性を述べた。吉田から今後の課題として、シアトルの大学にある日記や書簡等の一次史料を精査し、ウェスレー派の「聖潔」概念や和解の定義を厳密に裏付け、彼の語る和解の意味を厳密に検証する必要性が示された。
根川からは、淵田美津雄との関係を切り離すべきではないとの要望があった。根川は、淵田美津雄との協働関係に注目し、両者が軍人として殺し合いに関与した経験をいかに宗教的「和解」へと転換したのかを問うた。淵田の米国市民権取得や家族のアメリカ社会への参入は、和解の一形態として理解できる可能性があると指摘した。
また、郷戸からは、戦後キリスト教へ改宗した日本人(特に元軍人)の動機やBC級戦犯との関わりについて関心が示された。物部氏より、宣教の背景にある「ウィルソニアン・ロジック」が第一次世界大戦のものとは異なるのかについて質問があり、吉田が戦後日本の民主化を目指す伝道の基盤に同思想があったことを補足した。
最後に池端氏は、教会側の記録には誇張(水増し)が含まれる可能性を考慮しつつ、日米双方の福音派機関紙や史料を調査し、ディシェイザーが具体的にどのような成果を上げたのかを冷戦史の中に位置づけていく必要性を述べた。
1950 年代、澤田節蔵の思想と活動
根川幸男 まず吉田が、本研究が日本を起点とするトランスナショナル・ヒストリーの重要な事例になり得ると評価したうえで、澤田における宗教性、とくにカトリック性の扱いが今後の鍵になると指摘した。澤田は公人として政教分離の制約下にあったが、妊娠中絶批判や優生思想への反対など、カトリック社会教説に通じる言説が確認できる可能性がある。そのため、宗教思想が政策判断にどのように接続していたのかを丁寧に検証すべきだと助言した。また、力行会やフレンド学園関係の史料から宗教的ネットワークを解明する重要性も示された。 報告で触れられた鮎沢・前田・森ら三名のキリスト者との関係について、吉田は、公人クリスチャンが少数であった当時、彼らの間にフェローシップ的な繋がりが形成されていた可能性を指摘した。これに対し根川は、彼らは「同志」というより、人口問題審議会などで接点を持った「並走者」と捉えるのが適切であると述べた。 次に関口から、ブラジル大使赴任時における人口問題解決のロジックや、戦前・戦中の国民道義との連続性について質問があった。根川は、戦後の澤田は戦前の国民道義とは決別し、民主化後の国民に向けた新たな文脈でその概念を用いていた可能性を指摘した。また、カトリック信徒である澤田が優生思想に反対していた点から、その思想形成の背景をさらに検証する必要性が確認された。 竹本からは、海外移住審議会の史料の閲覧可能性や、現在のJICAに繋がる議論の有無について質問があり、澤田の平和主義的哲学の一貫性を裏付けることの重要性が述べられた。最後に吉田は、資料の精読を通じてキリスト教との接点を見出すことが重要であると強調し、根川は今後さらに史料を精査し、澤田の宗教性と政策実務の相関について議論を深めたいと述べた。 |
| 開催日時 | 第6回研究会 2026年2月28日 13時~16時30分 |
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| 開催場所 | オンライン開催 |
| テーマ | ・ 谷本清の被爆経験に基づく平和運動―その始まりと変容 ・ 戦後広島の精神養子運動 (moral adoptions project, 1949-1959)における米国大学への進学計画 ――ある「原爆孤児」へのプロテスタントの関わりをめぐって―― |
| 発表者 |
高木眞理子 、 増木 風佳 |
| 研究会内容 |
谷本清の被爆経験に基づく平和運動―その始まりと変容
高木眞理子 まず、吉田は、谷本が日米を往来した人物であることから、越境史研究の対象として位置づけられると指摘し、特にカズンズとの関係性を軸に研究を深める必要性を強調した。平和運動がなぜ成功しなかったのか、両者が思想的にどのような隔たりを抱えていたのかを明らかにすることが重要であると述べた。また、サタデー・レビュー、日記、ピースセンター資料、グリーンとの関係、メソジスト系資料、エモリー大学とのつながりなど、分析に不可欠な史料群が提示された。谷本が戦後エモリーでの学びをどのように活かし、日米双方で活動できた背景にグリーンの存在があった点も指摘された。
高橋からは、広島で活動した仏教者・常光浩然との比較を踏まえ、谷本に日本国内のキリスト教ネットワークが存在したのか、また第五福竜丸事件後に広がった仏教者の反核運動に対し谷本がどう反応したのかが問われた。高木は現時点で不明であり、今後の重要な検討課題と応じた。吉田からも、人的ネットワークの解明が不可欠であり、関学出身でありながら関学ネットワークを活用していない点への疑問が示された。
さらに、ハーシー『ヒロシマ』の証言の扱いについて、アメリカ側の民主主義的プロパガンダとして被爆者の声が利用された可能性があり、谷本がその構造に対してどのような距離感を持っていたのかも検討すべきであると指摘された。カズンズの語りが人道支援を強調し、日本社会へのアメリカのアピールとして機能した側面についても分析が求められた。
最後に、松盛より谷本の戦時期の言動や礼拝実践、週報の戦時色など、戦前・戦中・戦後を通じた宗教実践の変化を追う必要性が指摘された。吉田からは、次回に谷本のライフコース全体を総合的に捉える分析を求める旨が述べられた。
戦後広島の精神養子運動 (moral adoptions project, 1949-1959)
における米国大学への進学計画
――ある「原爆孤児」へのプロテスタントの関わりをめぐって――
増木 風佳 吉田は、書簡などの資料を詳細に調査し、先行研究が推進者に焦点を当てる中、対象者が越境者候補となったジレンマやプログラムへの影響を探る重要性を指摘した。精神養子運動は宗教色を排した運動であったが、プロテスタント関係者の関与も抽出され、タッピング(バプテスト派)や鮎沢(クウェーカー派)、谷本(メソジスト派)らの宗教的ネットワークが議論された。
増木は1951年時点でピースセンターは日本基督教団やメソジストからの支援を得ていなかったが、ICUからは支援があったことを示した。また、カズンズとハウスは日米知的交流計画を通じて面識があり、原爆乙女らとの書簡のやり取りもあった。吉田はハウズが文化外交の一環として留学派遣を支援していたのではと指摘した。
郷戸、高木は鮎沢と谷本の関係にシモ―も関与していることを指摘した。さらに郷戸は、自分たちのやりたいことのために広島を使ったのではないかと述べた。吉田が、戦後の米国留学はロックフェラー財団が行い外交計画に組み込まれ、孤児がエリート層に組み込まれたことに無理があったのではと指摘した。
竹本は実際の留学者数や進学先の資料を問うたが、増木は、米国大学進学者は確認できず、1953年に龍谷大学に合格した史料を報告した。フルブライト奨学金など高等教育支援の可能性も調査中である。また竹本は、谷本とカズンズのユダヤ系人脈との関係が指摘され、ユダヤ系ネットワークが平和共生運動に大きく関与していた可能性が示された。増木はカズンズの多方面での自己アピールやネットワークの広がりを今後検討したいと述べた。
大森は孤児の大学進学支援が戦時下の生命保持から教育支援へと変化し、米国側の償いのパフォーマンス的側面もあったのではないかと問い、増木は本願寺派の支援や孤児院の要望に応えた支援的・教育的側面が戦後日本に求められたと説明した。辻は戦後の留学の歴史的変遷を指摘した。高橋は山下義信の資金支援の可能性を示唆し、本多は奨学金提供の有無を含め新聞資料の調査の必要性を述べた。
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| 開催日時 | 第5回研究会 2026年1月24日 13時~16時30分 |
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| 開催場所 | オンライン開催 |
| テーマ | ・ 1950年代日本における越境カトリックによる平和共生構想 ―メリノール宣教会の教会指導層の言説を中心にー ・ 戦後日本におけるフレンズ国際ワークキャンプの活動 |
| 発表者 |
大森 万里子 、 郷戸 夏子 |
| 研究会内容 |
1950年代日本における越境カトリックによる平和共生構想
―メリノール宣教会の教会指導層の言説を中心にー
大森 万里子
吉田は、メリノール会が重視した「秩序・正義・福祉」という理念が日本社会でどのように展開したかが焦点となり、興味深いと述べた。また吉田は、占領期には「秩序」が中心概念であったが、1950年代には「福祉」「共生」へと重点が移る点を指摘する。大森は、戦後の貧困の背景には道徳的秩序の崩壊があるとするメリノール側の理解を示し、秩序回復と弱者救済が不可分のものとして語られたことを強調した。 池端は、ティベサーが占領軍の民主化政策に批判的であった点に注目し、同じく占領期を扱う自身の研究対象アイグルハートが肯定的であったこととの対比を示した。吉田は、メリノール会の正義観が朝鮮での経験など個々の背景に影響されている可能性を指摘し、19世紀以降のカトリックにおける正義概念の展開についてさらなる研究の必要性を述べた。 郷戸より人数規模についての質問があり、戦後直後のメリノール会の正確な人数は不明だが、1946年日本には253名の外国人司祭、邦人司祭151名が存在したとされる。吉田が、メリノール会がアメリカ本部との結びつきが強く、他のより土着化したカトリック教区とは異なる独自性を持つ点を指摘した。 また、田中が、メリノール会が都市伝道のみならず農村伝道を行ったかどうか、問うた。大森はその点に関しては今後の課題にすると述べた。吉田から在日コリアンとの接点の有無など、思想と実践の関係を検討する必要性が指摘された。さらに、根川から戦後の人口問題に対するカトリック教会の海外移民再開の動きに対し、メリノール会がどのような立場を取ったのかという問いも提示されたが、現時点では明確な回答はなく、今後の課題とされた。
戦後日本におけるフレンズ国際ワークキャンプの活動
郷戸 夏子 大森は、具体的事例が有益であり、扱う社会課題が時期によって変化したのか、日本社会側の課題に応答した結果なのかを問うた。また「平和共生」の定義を明確化する必要性を指摘し、在日外国人や被差別部落など社会的弱者支援が中心にあったのではないかと述べた。吉田は、弱者支援に関するカトリックとプロテスタントの思想に類似点があることを補足した。 竹本は、「インターナショナル」という語が付く点に注目し、参加学生の動向を追うことで活動の特徴が見えると述べた。郷戸は、資料では個人名で記録されており、ICU、早稲田、同志社、神戸女学院、南山大学などの学生が多いと説明した。吉田は、学生獲得競争の側面も考えられ、「国際」キャンプを調べることでクウェーカーらしさが明確になると述べた。 物部は、クウェーカーが日本で少数派であるにもかかわらず他団体と互角に活動できた理由を問い、郷戸は宗教色を前面に出さず信徒獲得を目的としなかった点、平和主義が学生に響いた点を挙げた。吉田は、クウェーカーが属性にとらわれず開かれた性質を持ち、「礼拝」ではなく「メディテーション」という語を用いる点を紹介した。 最後に、1969年前後の学生運動の変化が参加者数に影響した可能性、著名な参加者の個別事例、参加者の声の分析など、今後の課題が提示された。 |
| 開催日時 | 第4回研究会 2025年11月22日 13時~16時30分 |
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| 開催場所 | オンライン開催 |
| テーマ | ・ 戦後における本願寺派仏教婦人会の再建と新たな国際ネットワーク形成 ・ 戦後京都における社会福祉の出発とキリスト者 |
| 発表者 |
本多 彩 、 関口 寛 |
| 研究会内容 |
戦後における本願寺派仏教婦人会の再建と新たな国際ネットワーク形成
本多 彩
高橋は、全日本仏教会の国際交流の主にアジアを舞台としていた点を踏まえ、本願寺仏教婦人会の構想を問うた。本多は、布教を目的としておらず、宗派内で活動する方が容易であったと説明した。吉田はさらに、浄土真宗が北南米など宗派の重複を避けていたのかを質問をしたが、本多はまだ具体的な資料は、未確認であり、婦人会の活動には全日本仏教会のことは出てこないと答えた。吉田は国際化の地図作成や冷戦下での共産主義への対応を求めたが、本多は一次資料の調査が今後の課題であるとした。門主と婦人会の関係について、本多は婦人会のトップに立つのは門主の妻であり、家族が様々な活動をし、戦前から戦後1970年代まで海外活動に積極的であったと述べた。 竹本は宗派を超えた婦人会の存在と世界的な展開を問うたが、本多は女性のネットワークの広がりはほぼなく、詳細は今後の調査課題とした。吉田はYWCAとの連携を問うと、本多は戦前にキリスト教女子教育を模倣した例があり、平和活動においても影響を受けた可能性があると答えた。社会福祉事業については、敗戦後に支援の必要性が語られ、協力して活動したと報告された。松盛は戦争花嫁に対する対応を問うたが、本多は重要な課題として今後も調査するとした。物部は、1945年から50年の仏教の動きを問うと、本多は神社ほど弾圧されず活性化していたと述べ、高橋はハワイでは終戦後、仏教は黙認されていたので比較的早い段階で再開できたと補足した。
戦後京都における社会福祉の出発とキリスト者
関口 寛
田中は同志社の社会福祉教育内容や榎本の来歴を問うたが、関口は未解明としつつ、学生が京都市社会福祉課に就職しており人材養成のイニシアチブを担った可能性を示した。また、教育制度の変遷や地域性を補助線とする重要性も述べた。また、吉田は宣教師の授業参加や竹中・牧野の理論実践の紹介を求め、関口は社会運動の側面も含め見ていく必要があると応じた。竹村はGHQのもと「国家の責任・国民の権利」を基盤とする福祉体制が形成されたという理解を問うたが、関口は教科書的叙述ではそうだが、研究所資料には「権利」「人権」といった語は見られないと指摘した。竹本は研究所がパトナムの指示で行った三調査のうち街娼以外の資料の有無を問うたが、関口は未調査であり戦災孤児や生活保護調査は存在しない可能性を示した。さらに竹本は住谷の街娼調査の背景を問うと、関口はGHQによる公娼制度廃止と性病防止政策に関連すると答えた。住谷の調査はよくまとまっているが、構造的批判はなく街娼は「気の毒な存在」として記録するにとどまっていると説明した。 |
| 開催日時 | 第3回研究会 2025年10月25日 13時~16時30分 |
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| 開催場所 | オンライン開催 |
| テーマ | ・ ダーリー・ダウンズの平和論 ・ 戦後仏教界の平和運動・仏教振興運動におけるアジア地域との交流の再構築 |
| 発表者 |
竹本 英代 、 高橋 典史 |
| 研究会内容 |
ダーリー・ダウンズの平和論
竹本 英代
吉田は、ダウンズがアメリカ現代史と沖縄現代史の狭間に位置する人物であることから研究の意義を強調し、竹本の研究と他の先行研究との違いを明確にするよう求めた。竹本は福山の論文を再読すると応じた。 吉田は、沖縄の土地問題においてダウンズが共産主義とどう向き合ったかを問うた。竹本は、ダウンズが、日本が天皇制を失えば共産主義化する恐れがあると考えていたこと、また日本では共産主義がキリスト教と共存可能と分析していたことを説明し、さらなる分析の必要性を認めた。吉田は、沖縄キリスト教協議会の組織的立場についても問い、竹本は沖縄と韓国を同一ブロックとしてアジアとの関連を重視していたと答えた。 竹本は阿波根について田中に質問し、田中は彼が教会に属さず人道主義、博愛主義、反戦主義的な個人活動家であり、ダウンズとの関係が興味深いと述べた。また田中は、沖縄の農村伝道がどういう切り口だったのか質問した。竹本は、土地問題から農村改革へと展開した可能性があるが、影響は不明とされた。吉田は、ダウンズの土地観を明らかにすることが意義深いと指摘した。 辻は沖縄内外協力会について質問し、竹本はパールや沖縄インターボードの資料の精査が必要と答えた。関口はリカードの「琉米親善」発言について問い、竹本は増渕の論文を引用したと答えた。増渕は1971年にリカードが書いたものを使用しているのでそのころに使われ、1955年の資料にはこの言葉が見られないと説明した。ダウンズと沖縄キリスト教会、内外協会、阿波根との関係は未解明であり、さらなる調査が必要とされた。最後に吉田は、宣教師だけでなく沖縄の人々や教会側の視点も次回発表に加えるよう求めた。
戦後仏教界の平和運動・仏教振興運動におけるアジア地域との交流の再構築
高橋 典史
吉田氏から、全日本仏教会が事例研究に適している理由、同団体の性格、リーダーシップのあり様について質問をした。対して、発表者は、当時の仏教界を総代表する組織であること、保守組織なので左派から批判の対象となっていること、中山がボスとして君臨しているわけではないこと、について説明があった。池端氏は、仏教界の戦争責任に対して質問があった。発表者は、組織的な対応をするのに、キリスト教界以上に遅れた経緯について説明があった。本多氏は、全日本仏教会による世界仏教徒会議への関わり、アジア諸国との向き合い方に関する質問と、日系二世仏教徒も同会議に参加した事実についての照会があった。発表者から、全日本仏教会からどのような経緯で、どのような意見が同会議に持ち込まれ、どのように審議されたか、一連のプロセスを明らかにしたいとの解答があった。
最後に、吉田は、本研究に於ては、全日本仏教会と世界仏教徒会議との関係性をマクロ的に見ながら、個別東南アジア国家の仏教界と全日本仏教会との交流をミクロ的に見る考察を組み合わせることになるのか、と研究の方向性を確認した。発表者はそれに同意した。
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| 開催日時 | 第2回研究会 2025年9月27日 13時~16時30分 |
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| 開催場所 | オンライン開催 |
| テーマ | ・ IBCの活動動向に関する研究の可能性について ・ 田畑忍の平和観ー田畑研究の方向性についてー |
| 発表者 |
辻直人、神田朋美 |
| 研究会内容 |
IBCの活動動向に関する研究の可能性について
辻 直人
吉田は、関係学校協議会の設立がIBCにとって苦渋の選択だったのか、それとも必然だったのかを問い、北陸学院への支援が他教派に比べて多かったのか尋ねた。辻は現段階では不明であり、今後の課題とした。郷戸は北陸学院への支援の具体的な方法や寄付者はどういう人たちなのか(日系人かアメリカ人か)について質問した。辻はその点は、どこまで追えるかわからないが、日系人が多かったとは言えないと答えた。
吉田は、教会指導者はエキュメニカルな姿勢を示す一方で、信者は教派に基づいて行動する傾向があると指摘。また、IBCを介さずに支援を受けた例として同志社大学を挙げた。石村は神戸女学院がIBCに依存せず自力で復興を目指したことを紹介し、吉田は同志社がIBCとアメリカンボード双方から支援を受けていた点に注目し、IBCの対応の多様性に関心を示した。
竹本は紹介された史料が公開されているものなのか確認し、辻は教団が持っている非公開ではない史料であると回答。プレビステリアンのデジタルコレクションとの照合は未確認であると述べた。また、IBCがなぜ8教派に限定されたのかについて、アメリカ側の考えの調査を提案した。辻は、戦後日本に残った教派への支援が目的だったと説明した。
吉田は、教派協力は戦前から存在し、15教派に声をかけたが6教派しか残らなかったと述べ、今後の研究のテーマを絞ること(財政支援の分配、宣教師の配置、日本からアメリカ留学者の選抜、時代)、内外協力会についてはIBC側だけでなく日本側の史料も併せて検討すべきだと助言した。
田畑忍の平和観
―田畑研究の方向性についてー
神田 朋美
これに対し、吉田がエレノア・ルーズベルトが来日時、京都で田畑は司会を務め、軍事増強反対の手紙を送ったという話を紹介した。その手紙によって、軍拡のため来日していたエレノアが、方針を変えたとも言われており、もしその手紙がルーズベルト文書館に残されていれば、国際的影響を示す史料となり得る、と助言した。
また、吉田は、同志社の平和運動が、ベ平連につながる可能性を指摘し、田畑の教育を受けた学生がベ平連に関与していたならば、思想的流れが見えてくると述べた。ただし、同志社の平和運動は海外との接点が乏しく、田畑の思想形成が海外からの影響があったのか再検討する必要があるとし、高木正太郎のイギリス思想の影響が田畑に及んだ可能性も指摘した。
池端は、ベ平連が黒人活動家ラルフ・フェザーストーンを招いた事例を挙げ、国際的ネットワークの存在を指摘したが、田畑との関係は不明である。吉田は、田畑が活動的であったことから、人的ネットワークの可能性もあるとし、日記の有無を問うた。神田は日記は未確認だが、草津の図書館での調査を行う予定であると回答した。神田が今後の展開次第では、研究の方向転換も視野に入れ、吉田への相談も検討していると述べた。特に、エレノア・ルーズベルトの日本滞在(東京・京都・広島)における田畑との接点を丁寧に追うことが、研究の鍵となるだろうと、吉田は助言した。
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| 開催日時 | 第1回研究会 2025年8月23日 13時~16時30分 |
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| 開催場所 | オンライン開催 |
| テーマ | ・ 研究打合せ会 ・ 続・占領期に来日したアメリカ日系二世宣教師について ー1950年代を中心にー ・ キリスト教主義女子学校における平和意識 ー1950年代前半の神戸女学院にみるー |
| 発表者 |
吉田亮 、 石村真紀 |
| 研究会内容 |
続・占領期に来日したアメリカ日系二世宣教師について
ー1950年代を中心にー
吉田亮
吉田は、戦前期の日米越境キリスト教史が戦後期にどう展開したかを、占領期に来日したアメリカ日系二世宣教師の活動を通じて考察している。本報告はその中間成果である。
池端からは「リベラル派」と「福音派」の定義について質問があり、吉田は前者を社会的実践重視、後者を内面性と信仰重視と位置づけた。両派とも時代によって戦争観が変容し、戦争反対の姿勢を示した時期もあったと述べた。
郷戸からは、対象とした二世宣教師5名の選定理由について質問があり、特にサワダが日本語や文化を継承していないにもかかわらず渡日した点に関心が寄せられた。吉田は、戦時中に敵性外国人とされた日系人でもキリスト教コミュニティは受け入れており、彼らの「アメリカ人としてのクリスチャン・アイデンティティ」が強化されたと述べた。
辻は、GHQがモルモン教をキリスト教として認識していたかを問うたが、吉田は資料に明記はないものの、宗教として扱われていた可能性が高いと回答した。石村からは、教育に従事した3名が学校内でキリスト教活動を行っていたかについて問われたが、現時点では不明であり、今後の調査課題とされた。
神田は、GHQが二世宣教師を「架け橋」として積極的に評価していたのか、それとも利用的に捉えていたのかを尋ねたが、吉田は判断がつかないと述べた。また、「あらたなる誤解」とは、二世が日本人の顔立ちをしていることから、日本人として数えられることに憤りを抱いた人々の感情を指す。彼らは、なぜ二世がアメリカ市民として扱われるのかという疑問やジェラシーを抱いていた。
最後に高橋からは、29名の日系宣教師のジェンダー比率と農村伝道の実態について質問があり、吉田は日系女性宣教師の独身率が白人女性より低い傾向があるが、具体的な数値は不明と述べた。農村伝道には高い日本語力とマネジメント力が必要であり、エンドウはその両方に秀でていた。都市部出身者が多い中、農村伝道の実態は未解明であり、今後の研究課題とされた。
キリスト教主義女子学校における平和意識
―1950年代前半の神戸女学院にみるー
石村真紀
石村は、太平洋戦争後にキリスト教主義学校が復興を始めた中で、神戸女学院がいち早く宣教師を帰任させ、新制大学の設置を全国に先駆けて行った点に注目する。特に平和共生運動における宣教師と学院の関わりを、学生自治組織や課外活動を通じて検討する。
吉田は、神戸女学院の自治会の動きが他大学に影響を与えた可能性を指摘し、横のつながりの調査を提案。また、戦前・戦後の日米クリスチャンの比較も有意義だと述べた。吉田は、田中に京都大学の自治会設立に関する情報を尋ねた。田中は京大では1950年代以降に左派的活動が見られたが、それ以前は生活協同組合的な活動が中心だったとされた。同志社のキリスト教運動史も参考になるとのコメントがあった。
郷戸は、1949年から神戸女学院の学生が国際学生セミナーやワークキャンプに参加していたことを紹介し、学生の積極性を評価。吉田は、中国の動乱により宣教師が日本のキリスト教主義学校に移ったという説に言及し、石村は良い教員が加わったとの肯定的見解を示したが、単なる教員の補充にとどまらないかは今後の課題とされた。
関口は、新旧宣教師の関心や思想の違いについて問うたが、資料不足のため現時点では確認できていない。共産主義の広がりがキリスト教主義学校に与える影響については、神戸女学院が距離を取る立場を取っていたが、他校の対応はまだ不明である。
また、学院長・畠中の思想については、戦前からアメリカの反人種主義的な考え方を持っていたかが問われたが、資料未入手のため断定はできないものの、行動から見て見解は変わっていない可能性がある。吉田は、畠中が退職後にハワイのヌアヌ教会で牧師を務めたことから、「ハワイ」という視点での調査を提案した。
ロックフォード大学が神戸女学院の姉妹校であるかについては、そうであり、同大学卒業生が採用された可能性があるとされた。根川は、神戸女学院のユネスコ活動が1953年に設立された理由を問うたところ、石村は同年3月に難波茂吉が学長に就任したことが契機ではないかと回答した。
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