第13研究 近現代日本の文明論に関する思想史的研究 研究代表者:望月 詩史(法学部)
本研究会は、近現代日本の文明論の展開を思想史的に描き出すことを目的とする。従来の日本の文明論を取り扱った研究は、個人、思想集団、メディアに焦点を当てた個別研究が中心であり、同時代の議論を比較する共時的なアプローチや近現代の文明論を時系列で検討する通時的なアプローチに基づく分析が不十分だった。一方の本研究も、特定の個人や集団という「点」に注目するものの、複数のそれらを有機的につなぎ合わせて「線」・「面」を再構成し、それによって日本の文明論の展開を思想史的に描き出すことを目指す。以上の問題意識に基づき、本研究では、①国際社会における日本の地位の変化とそれに伴う日本人の自己認識の変化、②文明を論じる人物の思想に注目する。そして、明治初期から昭和戦後期までの文明論が、どのような思想を背景に持っていたのかを歴史的に明らかにする。
2026年度
| 開催日時 | 第2回研究会 2026年6月27日 14時~16時30分 |
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| 開催場所 | Zoom開催 |
| テーマ | 日本におけるアーノルド・J・トインビーの世界史論再考 |
| 発表者 |
水野 良哉 |
| 研究会内容 |
今回は、水野良哉氏が、「日本におけるアーノルド・J・トインビーの世界史論再考――1950年代における日本の世界史家の受容を中心として」と題して報告した。
まず、「イントロダクション」として「トインビーを巡る評価の変遷と国際的乖離」(①トインビーのグローバルな名声の発端、②英語圏(特にイギリス)における「凋落」、③日本における「熱狂」)が紹介された。
続いて、「トインビーによる『歴史の研究(A Study of History)』、『試練に立つ文明(Civilization on Trial)』、『世界と西欧(The World and the West)』での、1930-1950年代前半における「西欧中心主義」批判」として、これらの著作においてトインビーが、歴史的思考の「局地性(Parochialism)」、文明の統一(Unity of Civilization)」論への疑義、「停滞した東洋(The Unchanged East)」という幻想の打破、ナショナリズム批判などを展開したことが説明された。
以上を踏まえ、日本におけるトインビーの受容について、「日本における受容の政治的背景・ネットワーク:冷戦と「反共」主義」、「保守系歴史家による受容:鈴木成高と京都学派の影」、「左派歴史家による受容:江口朴郎・上原専禄とアジア・アフリカの独立」に区分しながら、個別の事例が検討された。これらの検討を通じて、日本の歴史家たちは異なる動機や背景に基づきながらも、同時代の英語圏で等閑視されたトインビーの世界史論における「西欧中心主義」批判の核心を30年以上も早く掴み取っていたことが明らかにされた。
以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
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| 開催日時 | 第1回研究会 2026年5月22日 16時30分~19時 |
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| 開催場所 | 啓明館2階 共同研究室A +Zoom |
| テーマ | マルクス主義法学者にとっての総力戦 |
| 発表者 |
戸田 舜樹 |
| 研究会内容 |
今回は、戸田舜樹氏が「マルクス主義法学者にとっての総力戦」と題して報告した。
まず、「マルクス主義と法律学が交差する領域において、総力戦はどのように経験されたのか?」との問いが設定された上で、具体的に次の2点が検討された。
① マルクス主義法学者たちは、同時代の法学者と比較しても、当時最も体制に批判的な法学者たちであった。しかし、総力戦の時代には、彼らの中の多くが理論としても態度としても体制順応的な姿勢を表明した。彼らは体制内化したのか、それとも体制に近い組織を隠れ蓑にして、研究の火を灯し続けようとしたのか。
② 戦後になると一転して、彼らの多くは戦後憲法・民主主義の守り手として啓蒙的な役割を果たすことになる(最も著名な例が鈴木安蔵らの「憲法研究会案」起草である)。しかしそこでも、彼らは戦時下の経験を財産や資源として思想的に継承したはずである。総力戦体制を支持したマルクス主義法学者を、戦後は民主化の旗手とさせたものとは何か。そこで戦時下の思想はどのように活用されたのか。
本論の構成は、以下の通りである。
1 マルクス主義法学とは何か?――マルクス主義「者」の法学か、マルクス主義の法理論か
2 鈴木安蔵とマルクス主義法学
3 マルクス主義者/法学者と総力戦
4 戦時動員から戦後民主主義へ?
これらの検討を通じて、マルクス主義法学は社会主義運動を正当化する道具立てとして一定の成果を挙げた反面、総力戦体制下では時代の大きな論理に飲み込まれたことが明らかにされた。しかし、運動論・組織論の蓄積が戦後民主化・護憲運動に活かされたというパラドックスも無視できないことが指摘された。
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2025年度
| 開催日時 | 第8回研究会 2026年3月27日 16時30分~19時 |
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| 開催場所 | 啓明館2階 共同研究室A +Zoom |
| テーマ | 田中王堂の時代認識とヨーロッパ近代 |
| 発表者 |
山田 大生 |
| 研究会内容 |
今回は、山田大生氏が、「田中王堂の時代認識とヨーロッパ近代」と題して報告した。
まず、本報告の目的が、日露戦後から関東大震災までの「近代」認識を田中王堂の言説を通じて解明することにあると説明された。
本論の構成は、以下の通りである。
1.日露戦後の時代認識
((1)自然主義文学と文明史、(2)「儒教復興論」の登場(1908 年頃)、(3)文明史の提示、(4)日本の位置づけ)
2.海外思想の流行
3.第一次世界大戦後の文明批判のなかで
((1)タゴールの流行、(2)第一次世界大戦と文明の転機、(3)「近世文明」に対する批判的な評価)
4.関東大震災後の象徴主義論
((1)「近世文明」の行方(1924年)、(2)日本文化の再評価)
これらの検討を通じて、以下の結論が導き出された。第一次世界大戦が継続する中で、王堂は「近世文明」に内在的な問題点を見いだしたが、その大枠は擁護する姿勢を取った。その後、関東大震災後に欧米諸国の行き詰まりを指摘した上で、「象徴主義文化」への移行を説く。日本は欧米と異なって「近世文明」を「国民性」の活用によって適切に継承・発展できると主張した。一見すると、王堂の文明論は反近代的な言説に受け止められる。しかし、王堂は関東大震災後も「近世文明」の志向を否定したわけではなく、国内の人びとの精神をルネサンス以前とする点は一貫する立場であった。したがって、王堂の議論は欧米諸国の現状に対する非難にとどまる。王堂はヨーロッパ文明がもたらす諸問題の原因を「近世文明」の運用主体に求めている。あくまでも現状採用しているヨーロッパ文明を適切に運用することに力点が置かれていた。
以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
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| 開催日時 | 第7回研究会 2026年1月23日 16時30分~19時 |
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| 開催場所 | 啓明館2階 共同研究室A +Zoom |
| テーマ | 犬養毅のアジア主義と対外硬運動の展開――文明的指導と自主的外交 |
| 発表者 |
呉 舒平 |
| 研究会内容 |
今回は、呉舒平氏が、「犬養毅のアジア主義と対外硬運動の展開――文明的指導と自主的外交」と題して報告した。
まず、19世紀後半における犬養毅のアジア主義について、保護貿易論や経済発展論などを特徴とする「自由主義的アジア主義」と定義された。続いて、「対外硬運動」及び先行研究が紹介された。その上で、報告の問題意識として、第一に、「犬養は、いかなる経緯を経て、いかなる形で対外硬運動に参加し、ときに指導的地位に立ったのか」、第二に、「思想としての「対外硬」とは、いかなるものなのか」が設定された。本論の構成は以下の通りである。
一、甲申事変後の対清・対朝強硬論 1.甲申事変と対朝態度の「硬化」
2.金玉均暗殺事件と日清戦争前における対清強硬論
二、日清戦争前後における対外硬運動の発展
1.「対外硬六派」の成立と犬養毅
2.「対外硬」と「自主的外交」
3.日清戦後における中国保全論の展開
三、進歩党の成立と対外硬
1.「政府問責」をめぐる対外硬派内部の軋轢
2.国民協会の排除と進歩党の成立
3.対外硬運動の再燃と国民同盟会
おわりに
本報告を通じて、対外硬運動には、「対外硬」を字義どおりに解釈する解釈する原理主義組と自主的外交と解釈する自主的外交組が存在し、犬養は後者の立場で対外硬運動を展開したことが明らかにされた。同時に、対外硬論にも自主的外交論の形で思想性を見出せることが指摘された。
以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
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| 開催日時 | 第6回研究会 2025年12月26日 16時30分~19時 |
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| 開催場所 | 啓明館2階 共同研究室A +Zoom |
| テーマ | 京都学派の文明論 |
| 発表者 |
植村 和秀 |
| 研究会内容 |
今回は、植村和秀氏が、「京都学派の文明論」と題して報告した。
まず、「京都学派」を西田幾多郎門下及び田邊元関係者と規定し、具体的には高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高の4名を挙げた。そして、この学派の特徴が「世界哲学+世界史学」にあり、共通する認識として、「歴史観=文明観:新しい文明=人間=世界を建設」にあることが指摘された。 1、歴史観=文明観に基づく発言 『世界史的立場と日本』座談会
2、現状認識 危機の深刻さと革新の必要性
3、対応策 東洋から西洋の前に出ていく
4、行詰まりと総力戦からの未来
5、人倫の秩序による世界的新文明の形成
最後に、「1、主体性は、どのように英語訳できるのか?」、「2、京都学派の文明論から、今日の文明論の何を想起するか?」の2点について問題が提起された。
以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
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| 開催日時 | 第5回研究会 2025年11月28日 16時30分~19時 |
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| 開催場所 | 啓明館2階 共同研究室A +Zoom |
| テーマ | 室伏高信と『三沢村日記』―文明論を検討する手掛かりを求めて― |
| 発表者 |
望月 詩史 |
| 研究会内容 |
今月は、望月詩史氏が「室伏高信と『三沢村日記』―文明論を検討する手掛かりを求めて―」をテーマに報告した。
まず、室伏に関する先行研究を整理し、室伏研究の課題が示された。それから、1920年代の彼の文明論が紹介された。そして、報告の目的が次の通り示された。「文明」及びそれと不可分な「都市」を批判し、「文化」と「田舎」(農村)の再生を訴えた室伏が、1932年から神奈川県津久井郡三沢村塩民で新生活を開始したことが紹介された上で、このことが彼の文明観・文明論にどのような影響を与えたのか、この点を三沢村での生活を記録した『三沢村日記』を通して検討する。
「1.室伏と三沢村」では、「(1)前史」として、①「文明の没落」論、②「文明」と「文化」、③中国の農村と農村自治運動への関心(「村治派」)の概要が紹介された。「(2)三沢村時代」では、三沢村に転居するまでの経緯が整理された。「(3)三沢村時代の言論活動」では、①「文明の没落」論、②農民・農村論の概要が紹介された。
「2.『三沢村日記』の内容」では、まず、『三沢村日記』の反響が紹介された。それから、『三沢村日記』の内、彼の文明観や農村・農民観を窺い知れる箇所が紹介された。
「おわりに」では、三沢村の生活を通じて、室伏が農村のあり方や農民の生き方に直に触れたこと、東京での生活と比べて不便な生活が彼を「自然」に接近させ、その結果、陶淵明や老荘思想に対する共感をより強めたことが指摘された。しかし、その後の室伏が都市(東京)に戻ったのはなぜか、また、それに伴って彼の文明論・文明観はどのように変化したのか(あるいは変化しなかったのか)については今後の課題とされた。
以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
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| 開催日時 | 第4回研究会 2025年9月26日 16時30分~19時 |
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| 開催場所 | 啓明館2階 共同研究室A +Zoom |
| テーマ | 人口論と文明論――明治・大正期における「過剰人口」問題への関心を中心に |
| 発表者 |
猪原 透 |
| 研究会内容 |
今月は、ゲストスピーカーとして猪原透氏(日本学術振興会特別研究員RPD)をお招きして、「人口論と文明論――明治・大正期における「過剰人口」問題への関心を中心に」をテーマに報告していただいた。
まず、報告の目的として、以下の2点が挙げられた。
①明治~大正前半期にかけての人口論の流れを、経済学史とは異なる思想史的なアプローチから描くこと。②人口論の流れ(とくに「過剰人口」に対する危機意識)と、西洋文明に対する認識・評価との関連を明らかにすること。
本論は、以下の内容で構成された。
西洋人口論の導入――明治初年 マルサス人口論の本格的導入――明治10年代
「過剰人口」論の拡大――明治20年代
「過剰人口」と帝国主義の論理――明治30~40年代
「文明」と出生率の減少――大正期
本論の内容を踏まえて、結論として次の3点が提示された。
①「文明」への関心が西洋人口論の導入を促した。
②明治20年代以降「過剰人口」への危機意識が高まった。
③20世要に入るころから「文明国」は出生率が低下するという認識が広まった。
以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
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| 開催日時 | 第3回研究会 2025年7月18日 16時30分~18時30分 |
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| 開催場所 | 啓明館2階 共同研究室B +Zoom |
| テーマ | 近現代日本における「文明」と「文化」を考えるあたって ー西川長夫「国家イデオロギーとしての文明と文化」『思想』1993年5月の紹介を中心にして |
| 発表者 |
出原 政雄 |
| 研究会内容 |
今月は、出原政雄氏が「近現代日本における「文明」と「文化」を考えるあたってー西川長夫「国家イデオロギーとしての文明と文化」『思想』1993年5月の紹介を中心にして」をテーマに『思想』論文が要約、紹介された。また、西川長夫『増補 国境の越え方:国民国家論序説』(平凡社ライブラリー、2001年)所収論文、生松敬三「「文化」の概念の哲学史」『岩波講座 哲学13(文化)』(1968年、生松『日本文化への一視角』未來社、1975年、所収)も適宜紹介された。
西川論文では、「文明」と「文化」の概念が次のように整理された。
・ 18世紀後半に誕生した新語であり、近代ヨーロッパの新たな自意識と価値観を表明している。
・ 近代国民国家とともに生まれ成長したイデオロギーで、国民国家の存在理由を表明している。
・ 一対の対抗概念で、「文明」は先進国(フランス)の、「文化」は(先進国からの圧迫を受けた)後進国(ドイツ)の国家イデオロギーに変容した。
・ 初めは解放のイデオロギーとして作用していたが、やがて植民地主義やナチズムのイデオロギーに転化する可能性を秘めていた。
次に、日本における「文明」と「文化」の受容と展開が以下のように整理された(ここでは近代日本に関連する主な箇所を取り上げる)。
・ 「文明」はcivilizationの訳語で、「文化」はKultur(ないしculture)の訳語。・明治初期の文明論には三つの流れが存在。「文明」は日本の民衆によって歓迎(特に都市の住民)。
・ ドイツの「文化」を正確に把握したのは陸羯南。ただ、文明化論者が植民地主義者に転落したのと同じく文化論者は帝国主義者に変質。陸も例外ではない。
・ 「文化」は大正期に入って流行語。ドイツの文化学を直輸入する過程で、Kulturの訳語としての「文化」を再発見。
以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。
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| 開催日時 | 第2回研究会 2025年6月27日 16時30分~18時30分 |
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| 開催場所 | 啓明館2階共同研究室A+Zoom |
| テーマ | 梅棹忠夫『文明の生態史観』の思想的インパクトを考える |
| 発表者 |
田澤 晴子 |
| 研究会内容 |
今月は、田澤晴子氏が「梅棹忠夫『文明の生態史観』の思想的インパクトを考える」をテーマに報告した。
まず、報告の目的として、梅棹の「文明の生態史観」、「新文明世界地図―比較文明論へのさぐり」、「生態史観からみた日本」1957 年)を紹介し、その文明論がもった同時代の思想的インパクトについて論壇の人々の反応から考えたいと説明された。
続いて、上記の3つの論説の内容が紹介された。その上で、「梅棹への評価・批判・論争」として、竹山道雄、加藤周一、柳田国男、竹内好、上山春平らの反応が取り上げられた。
これらの反応を踏まえて、梅棹の文明論の思想史上のインパクトが、以下の5点に整理された。
① マルクス主義史学の一元的発展説を批判した多系遷移論
② 序列や価値的判断を否定したフラットな世界認識論
③ アジアとは異質で西欧と同質な日本論、しかし近代化論ではない
④ 戦前派知識人の「後進性」「政治志向」を批判する新世代知識人の登場
⑤ 自然科学分野の方法を適用した世界史構想(新たな歴史研究方法の開拓)
そして、報告の結論として、「文明の生態史観」は一元的な発展段階史観を批判する契機となったが、結果的には「近代化」論に吸収され、日本とアジアの関係を断ち切ることになったと指摘された。 以上の報告を踏まえ、参加者を交えて活発な議論が行われた。 |
| 開催日時 | 第1回研究会 2025年5月23日 16時30分~18時 |
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| 開催場所 | Zoom開催 |
| テーマ | 研究会の運営・スケジュールほか |
| 発表者 |
望月 詩史 |
| 研究会内容 |
今期最初の月例会であり、まず、研究代表者より、本研究会の研究課題・目的などの確認及び運営方針に関する説明が行われた。特に研究会予算の使用については、研究会の独自ルールを設定するため、その詳細について説明があった。また、月例会での配布資料をオンラインストレージで共有する旨のアナウンスもあった。続いて、今年度の開催スケジュールが報告された。
次に、2点の議題について話し合った。第一に来月以降の月例会の内容(Ⅰ構想案の報告Ⅱゲストスピーカーの招聘Ⅲ関連文献の輪読)、第二に必要な人物のピックアップ及び担当者(研究会への追加参加者)の検討である。いずれも、今回の月例会で全てを決定する必要はないため、引き続き検討することで参加者の合意を得た。
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