第16研究 アメリカ文学におけるintersectionality, interdisciplinarity, intertextualityの諸相 研究代表者:白川 恵子(文学部)
本研究は、アメリカ文学および文学研究の多義的特性を反映し、境界越境的・横断的な読みの提示を試みる。研究課題が示す通り、その際の理論的バックボーンとなる概念を、交差性、学際性、関テクスト性と措定している。植民地代から現代までの事象を分析対象として、アメリカ文学/文化/歴史を共時的かつ通時的に扱いながら、これら理論の単体援用を超えて、複合的に混交させつつ特定テクストを論じた場合、いかなる読みが新たに生まれるのかを考察し、共有するのが、本研究の目的である。個々のアイデンティティや社会的立ち位置の重層性、異なる複数学問領域の結節点、多様な媒体/テクスト間に見出せる意外な連関性を、文字通り交差させながら、個々の研究者が任意の対象を分析・解釈し、それをさらに包括していく行為は、従来の権威的主体によって階層化された構造に疑義を唱える異階層性の概念に基づき、テクストを再評価していくことにもなるだろう。
2026年度
| 開催日時 | 第4回研究会 2026年7月24日 18時30分~20時30分 |
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| 開催場所 | 同志社大学今出川校地 徳照館 第2共同利用室 |
| テーマ | エドガー・アラン・ポーと「見る」という体験 |
| 発表者 | 西山 けい子 |
| 研究会内容 |
本発表ではエドガー・アラン・ポーの作品における「見る」という体験の諸相を検討した。ポーは、「モルグ街の殺人」や「盗まれた手紙」において、凡庸な人間が見逃すものを発見する名探偵としてデュパンの人物造形を行なった。ものごとを明敏に見抜く力が発揮されるのが探偵小説だとすれば、見るということが、わかるとか、見抜くとかいうこととは正反対の事態を招くような例もポーの作品にはしばしばみられる。本発表ではとくにこちらの意味での「見る」という体験に重点をおいて考察した。 第一に、見ているうちに対象がわからなくなる体験として、「ベレニス」の語り手の独特の傾向に注目した。彼はやつれ衰えてゆくベレニスの歯に特別の執着を抱くが、それ以前にも、見つめ続けるうちに対象が変容する体験の例を多く語っている。これらは「ゲシュタルト崩壊」として知られる現象でもある。第二に、曖昧なものがある特定の形をもって見えてくる体験を、「黒猫」や『アーサー・ゴードン・ピムの物語』を例にして説明した。第三に、絵画における「アナモルフォーシス」という錯視の技法が使われる例として、「ライジーア」を論じた。ある一点から見ることでそれまで見えなかった図が見えるという技法を、ポーは作中で使うとともに、テクストの構造自体にも反映させている。第四に、ポーの描く恐怖において、「見つめ返すまなざし」というのが反復して利用されていることを指摘した。「落とし穴と振子」には「ライジーア」と同様の、無数の目がこちらを見つめてくるというモチーフがみられるが、そのほかにも「黒猫」や『ピム』における幽霊船の例などがある。第五に、見る対象のうちに時間の経過が感知されるという体験を、「アッシャー家の崩壊」において、アッシャーの館の光景やロデリック・アッシャーの変貌ぶりから説明した。 わたしたちは言語による「リアリティ」の世界に生きていて、言語化されないものである「リアル」なものから隔てられている。しかし、ふだんは排除されているリアルなものが、思いがけないかたちで出現するとき、恐怖や不気味を感じる。この点を今回の発表は視覚経験として論じたものである。
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| 開催日時 | 第3回研究会 2026年6月26日 18時30分~20時30分 |
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| 開催場所 | 同志社大学今出川校地 徳照館 第2共同利用室 |
| テーマ | パレスチナを「問う」文学としての Enter Ghost ―Anglophone Palestinian 文学の系譜 |
| 発表者 | 秋元 孝文 (甲南大学教授) |
| 研究会内容 |
イスラエル/パレスチナ問題が世界的に注目されるなかで、文学がどのように反応してきたのかをパレスチナ系イギリス作家Isabella HammadのEnter Ghost(2023) を中心に英語パレスチナ文学4作品をマッピングすることで概観した。 英語圏の公共圏でパレスチナ人の声が聞こえないという問題を、2023年10月7日のハマスによるテロとそれを記念するNova Exhibitionがはやくも翌24年にはアメリカで展開された事実、コロンビア大学でのパレスチナ支持プロテストとそれをAnti-Semitismと意図的に混同するアメリカのアカデミアの問題から導入し、Ta-Nehisi CoatesのThe Message(2024), Peter BeinardのBeing Jewish After the Destruction of Gaza(2025)で問われた「パレスチナ人の声を聞く必要性」から可聴性の問題、聞くかどうかの問題として導入し、パレスチナ文学の出発点としてGhassan Kanafaniの”Returning to Haifa”から連なる系譜として、Susan AbulhawaのMornings in Jenin(2010)をパレスチナを「告げる」文学、Randa JarrarのA Map of Home(2008)とHala AlyanのSalt Houses(2017)をそれぞれ一人の少女と3,4世代にわたるパレスチナ人一家を主人公とするらパレスチナディアスポラの多様性を描く作品として、そしてその段階を超えた今、新たに高度な文学的洗練を伴ってパレスチナを「問う」文学としてEnter Ghostについて論じた。Enter Ghostの戯曲を混在させる形式は、シェイクスピアの『ハムレット』を西岸で上演するという題材によって、直接的なパレスチナの抵抗ではないのに、世界文学の古典の上演が抵抗そのものとして立ち上るという効果を持っており、To be or not to beという有名なセリフが、パレスチナがあるのかないのか、あると認識するのかしないのか、という「亡霊」的な問いを読者に突きつける。これによってパレスチナの可聴性を開き、「問う」文学として成立しているのである。
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| 開催日時 | 第2回研究会 2026年5月29日 18時30分~20時30分 |
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| 開催場所 | 同志社大学今出川校地 徳照館 第2共同利用室 + Teams ハイブリッド開催 |
| テーマ | ① ウィリアム・フォークナーの『サンクチュアリ』における不能の父の堕落と法の崩壊 ② Sarah Orne Jewett批評の再検討と他者理解のテーマ――The Tory Loverを中心に |
| 発表者 |
① 山辺 省太 ② 斎藤 彩世 |
| 研究会内容 |
① ウィリアム・フォークナーの『サンクチュアリ』を取り上げた本発表において、従来の批評で取り上げられることの多かった二人の父――ポパイやホレス・ベンボウ――ではなく、これまで余り注目されてこなかったPapという盲ろうの老人に焦点を当て、不能の父(神)の堕落と法の崩壊についての分析を試みた。 発表の補助線にしたのは、フランツ・カフカが描く父の醜さである。この醜さは20世紀初頭のヨーロッパの混乱や法による国家秩序の不可能性を表している。『サンクチュアリ』においても、父であるパップは醜怪な様相で描写されることが多い。そして、超越的な要素を内包するこの醜い父が行ったことは、ポパイがテンプル・ドレイクに対してトウモロコシの穂軸を使って凌辱する行為を、ポパイに対して禁止の命令を下すことなく眼前でそれを享受していたことである。形而下の世界に出てくるべきではない不能の父(神)が人間的な欲望を抱いたとき、世界は無秩序で混沌としたものへと変容することを本発表の結論として提示した。 カフカの世界において不気味な動物が徘徊するように、『サンクチュアリ』においても人間的な欲望を持った父は動物的な形象を纏う。具体的にそれはネズミに表されており、テキストを表層的に読む限りではネズミはテンプルを凌辱するポパイを表しているが、パップの性的欲望と結び付くことも指摘した。神が無力であること自体においてキリスト教の根底が揺らぐことはないが、神の無力が醜い形象を纏って形而下の世界に堕したとき、その世界は法の秩序が効かない混沌としたものになるのである。 ② Sarah Orne Jewettの作品は、同時代にはその穏やかな筆致や五感に訴えかける描写が高く評価されたにもかかわらず、その後はフェミニズムの再評価まで批評が途絶えてしまう。Jewett作品に再び光を当てたフェミニストたちはJewettの世界を女性の世界として読み、ときには男性登場人物より視野が広く、温かな交流を可能にする存在として論じてきた。しかし、実際にはJewett作品に男女間の優劣はなく、男性登場人物も女性と同様に重要な役割を果す。また、Jewettの人種観を問題にする研究も登場する。Jewettがアングロ・ノルマンの血筋を誇りに思い、その他の人種より優れていると考えている可能性が、作中の登場人物の言動から指摘されてきた。あるいは彼女が都市の裕福な階級に属し、田舎を搾取することに加担していると論じられることもあった。こうした批評は一見批判的なようで、Jewett作品を何とか批評の対象にしようとする試みであったように思われる。しかし、Jewettが生涯、創作を通して他者理解を説いてきた姿勢や作品のテーマとは乖離がある。Jewettは時代の制約がありながらも、当時の社会的カテゴリーをしばしば脱却して考えることのできる作家であったのだ。もちろんJewettも完全な道徳的主体ではないが、創作を通して自分とは異なる思考や価値観、慣習を持つ人々への理解を訴えた作家と言えるだろう。 本発表では、The Tory Lover(1901)や短編小説、エッセイを通して、Jewettが描いた他者理解のあり方を考察した。Jewettは傾聴と共感、hospitalityを軸に、相手をまず理解しようとすることの重要性を描いているのである。
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| 開催日時 | 第1回研究会 2026年4月17日(金) 18時30分~20時30分 |
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| 開催場所 | 同志社大学今出川校地 徳照館 第2共同利用室 |
| テーマ | アメリカン・リンチング――知覚と表象の〈在〉と〈不在〉 |
| 発表者 |
白川 恵子 |
| 研究会内容 |
本発表は、アメリカ合衆国において、特に19世紀末以降、今日に至るまで表象され続けてきた私刑(アメリカン・リンチング)についての具体事例を、複数ジャンルを横断しながら、年代順に辿り、その過程で、個々の表象において、いかなる特徴が見出せるのかを考察した。 一般に、リンチの場面を最も雄弁に物語っていると思われる作品は、Billy Holidayが歌った “Stronge Fruit”(1939; Abel Meerpolによる作詞作曲は1937)であろうが、この周知の詩歌以外にも、アメリカ合衆国におけるリンチの表象は事欠かない。例えば、Frederick DouglassやIda B. Wellsは、歴史文書や実録によって、国家の組織的問題としてリンチの横行を批判し、小説家たちは、人種の別にかかわらず、超法規的暴力を作品内に描いてきた。物語が、何をどこまで描くのか、それは、リアリズムに徹した現状描写なのか、それともキャラクター、ひいては作家の見解や批判的思惑なのか。逆に、何が描かれていないのか。あるいは、不在の在をいかに表現しうるのか。作品によって読者の五感や情動はいかに発動し、喚起されるのか。こうした観点から、Charles Chesnutt, Thomas Dixon, Theodore Dreiser, William Faulkner, Langston Hughes, Ralph Ellison, James Baldwin, Alive Walkerの作品を考察し、最後に、Mat Johnsonのグラフィック・ノベル作品における小説とは異なる表象形態の例を紹介した。 質疑応答においては、異ジャンルの複数著作を比較しながら、作品間のintertextualityを模索し、歴史・文化・文学領域のみならず、法の観点からの学際的考察も視野に含まれるべき点が確認された。また、19世紀末以降のリンチ対象が男性の焦点化に偏り、女性が排除され、表象すらされていない事実を、Saidiya Hartmanの概念critical fabulationを援用しながら読み解くべきとの課題も指摘された。
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2025年度
| 開催日時 | 第7回研究会 2026年1月23日 17時00分~18時30分 |
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| 開催場所 | 同志社大学今出川校地 徳照館 第2共同利用室 |
| テーマ | Lafcadio Hearnの“Yuki-Onna”――再話における越境性―― |
| 発表者 |
中村 仁美 |
| 研究会内容 |
ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn, 1850-1904)は、1890年(明治23年)に米国の雑誌Harper’s Magazineの記者として来日した。日本の昔ばなしを英語で紹介した作家として知られ、日本で暮らした14年間に出版した本は11冊になる。本発表では、その最後となったKwaidan: Stories and Studies of Strange Thingsに収められ、中でもとりわけ日本的な作品として読みつがれてきた“Yuki-Onna”を取り上げ、ハーンにおける物語の独自性を論じた。ハーンは、米国時代に西洋圏以外の地域の物語を集めた翻訳作品集を2冊出版したが、その序文で、既訳のある物語の重訳であっても、再度ハーンの言葉で語り直す、すなわち「再話」することには意義があると書いている。この見解を確認したうえで、ハーンの「再話」文学における越境性について“Yuki-Onna”の作品分析を通して考察した。 “Yuki-Onna”をはじめ日本の物語の多くをハーンは英語で語り直したが、言うまでもなくそこにはハーンによる加筆、独創がある。“Yuki-Onna”を例に読み解きながら、雪女と出会うのが木樵の男であること、雪女と夫婦となって子どもができること、そして物語がオープンエンディングであること、といった要素に注目しながら、20世紀転換期に西洋化を目指し、急速に軍国国家として変容する日本において、混血の子どもを抱えて残される男について、そして子供らのこれからに注目した。ハーンの思いがこの物語に込められていることは疑いがないだろうからである。また文化人類学でいう異類婚姻譚の視点を借りることで、人種やジェンダーといった観点から国民性や時代性にも目を向けた読みが可能であることを示し、“Yuki-Onna”が、ハーンの生涯かけて拾い集めた異文化混交をめぐる経験がさまざまに絡み合い、時と場所を超えて語り継がれうる「再話」作品として、そして21世紀のいまにおける「現代の民話」としても再読しうる作品であることを論じてみた。
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| 開催日時 | 第6回研究会 2025年11月21日 17時30分~20時30分 |
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| 開催場所 | 同志社大学今出川校地 徳照館 第2共同利用室 |
| テーマ | 講演会「現代アメリカ映画産業における製作のグローバル化と産業労働の変容」 |
| 発表者 |
河原 大輔 (同志社大学 GC学部) |
| 研究会内容 |
本発表は、現代アメリカ映画産業における製作のグローバル化と産業労働の変容を、映画産業研究の枠組みから検討するものである。映画学における産業研究は映画史の領域を中心に長く存在していたが、1990年代以降、カルチュラル・スタディーズやメディア研究、文化政策学との学際的接続が進むにつれ、映画産業内部の権力構造、産業労働の柔軟化・不安定化、制度・政策の影響力といった政治経済的条件に人文学的見地から批判的考察を加える研究が徐々に制度化された。背景には、映画製作の多国籍化、VFXを中心としたデジタル化の急進、巨大メディア企業による寡占化など、映画をめぐる構造的変動がある。 発表者はそのなかでも、ハリウッドが製作工程の一部を海外に委託するランナウェイ・プロダクションに焦点を当てて報告を行った。これは1990年代以降、製作費の高騰、税制優遇措置、ポスト・プロダクション作業を中心としたデジタル化などを背景として、カナダやイギリス、オーストラリア等へと製作拠点が移動した現象である。ランナウェイ・プロダクションの急増により、アメリカ国内では below-the-lineと呼ばれる代替可能性の高い産業労働者の雇用喪失や地域経済の弱体化が深刻化した。他方、受け入れ地域では文化アイデンティティの希薄化や国内産業の空洞化といった問題が指摘されている。2013年のVFXアーティストによる抗議デモは、製作工程の海外委託が創造労働をいかに流動化・不安定化させているかを象徴する事例である。 最後に発表者は、産業研究が作家研究・作品研究と接続する可能性を、スタンリー・キューブリックを例に論じた。近年のアーカイブ研究の成果を足がかりに、キューブリックのイギリスにおける創作活動を当時の大手スタジオの製作戦略やイギリスの文化産業政策といった制度的文脈のなかに再定位することにより、従来の作家像が読み直され得ることを示した。
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| 開催日時 | 第5回研究会 2025年10月18日 18時~21時 |
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| 開催場所 | 同志社大学今出川校地 徳照館 第2共同利用室 |
| テーマ | 講演会「コミックス/マンガの『呪われた必要性』?――人種表象、メディア固有性、その克服」 |
| 発表者 |
鈴木 繁 (Dr. Shige “CJ” Suzuki) ニューヨーク市立大学バルーク校 |
| 研究会内容 |
本発表は、日本のマンガと北米のコミックスにおける人種・エスニック表象を、メディウムの固有性(medium specificity)を軸に、トランスナショナルな視座で考察した。具体的には、表現形式の特性、その歴史的・技術的要因、国家・文化を超えた表現の伝播に注目し、近年の作品がいかにしてコミックスに内在する「負の遺産」を乗り越えようとしているのかを検討した。 コミックスの伝統のひとつであるカリカチュア(戯画)は、19世紀パリにおいて観相学(physiognomy)と結びつき、顔の特徴と内面・性格を関連づける疑似科学的信念としてコード化され、広く利用された。この観相学的イデオロギーは(疑似)科学的レイシズムと結合し、支配・従属・抑圧の構造を支えた。こうした技法はアメリカに継承され、新聞・雑誌を通じて新移民やマイノリティへの差別的表象として政治利用された。戦前・戦後を通じて日本のマンガも同様のスタイルを継承しており、戦前から戦後のマンガにも植民地主義的で人種差別的な表象が見られる。ウィル・アイズナーは、コミックスに利用されるステレオタイプを「呪われた必然性」(accursed necessity)と呼び、コミュニケーションの効率性と直截性(immediacy)を求めるこのメディウムに避けがたい要素だとしている。 この「呪い」を解く方法(または、コミックスの慣習を克服する企て)として、三つのアプローチを検討した。第一に、非白人キャラクターの美学的再構築とその限界(『ミズ・マーベル』『スパイダーバース』など)。第二に、コミックスの「ナラティブ」によってイメージの「直截性」を複雑化する試み(例えば『アメリカ生まれの中国人』)。第三に、誇張化・戯画化・単純化するカートゥーンの力をむしろ積極的に、批評的に利用する方法。日本の「エッセイマンガ」(『ダーリンは外国人』や『中国嫁日記』)などでは、「自己」と「他者」を等しく極度に戯画化・単純化することで一時的に人種的マーカーを解除しつつ、文化的・言語的差異は肯定的に示し、パートナーを「大切な他者」(significant other)として描いている。このカートゥーニングの力は、文化的・身体的差異を消去することなく、固定化された人種表象の「負の遺産」から距離を取り、相互関係を柔軟に書きかえる契機を生み出している。その点でコミックスの「負の遺産」を同じメディウム内で描き返す批評的な試みと言えよう。
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| 開催日時 | 第4回研究会 2025年7月25日 18時30分~20時30分 |
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| 開催場所 | 同志社大学今出川校地 徳照館 第2共同利用室+ Teams ハイブリッド開催 |
| テーマ | ① 「Sarah Orne Jewettの小説研究におけるcosmopolitanのテーマの重要性」 ② 「The Ambassadorsにおけるコスモポリタン像」 |
| 発表者 |
① 斎藤 彩世 ② 杉山 未菜実 |
| 研究会内容 |
① Sarah Orne Jewett(1849-1909)はアメリカ文学史において、地方主義文学の代表的な作家として取り上げられ、Willa Cather(1873-1947)の創作を励ました存在として紹介されることが多い。しかし、代表作のThe Country of the Pointed Firs (1896)や “A White Heron” (1886)以外の小説は、優れたものが数多くあるにもかかわらず、あまり批評されてこなかった。その要因として、Jewettの独創的な小説には19世紀リアリズム小説家たちが用いる直線的なプロットがなかったことによる評価のバイアスや、New Englandや人生の肯定的な側面しかとらえていないと解釈されたことが挙げられる。また、アメリカ文学史の説明では、通例男性白人作家をリアリズム作家と分類し高く評価する一方、周縁化された作家たちの小説は地方主義文学作家とみなし、リアリズムより劣る小説を書いたとする傾向にある。
こうした背景を踏まえ、報告者はcosmopolitanの観点から読み解くことでJewett作品を再評価できることを提起した。Maine州の田舎町を舞台として創作を行ったJewett作品は、地方主義文学としてのみ評価されてきたが、現在そのローカルな場所は外部の様々な土地のネットワーク上にあるという観点で作品が見直されつつある。例えば、Jewettの小説や舞台となる町が都市の読者の消費する場・商品となっていることや、都市の旅行者と地元住民との緊張関係を描いた作家であることが指摘され、その際にcosmopolitanという用語・概念が用いられているのである。複数の文化圏で生活し、その土地の精神風土に精通しながら、どこか一つの土地の価値観にとらわれない生き方はJewettの創作全体に通じるテーマであると言えよう。
Jewettはその土地を深く知り、価値ある歴史・文化・風習・個人史を記録することに関心を持つ一方で、革新的なジェンダー観や文化相対主義的視点を持ち、一つの共同体の価値観に縛られることのない生き方を理想とし、創作を行ってきた。したがってcosmopolitanの観点でとらえ直すことにより、Jewett作品において重要な「共同体の保存」「ホスピタリティの精神」「自然」「ジェンダー」「人種」「共同体と個人」といったテーマを包括的、有機的に論じることができることを報告した。
② 本発表は、Henry Jamesのコスモポリタン像が、初期作品から晩年のThe Ambassadors(1903)に至るまで、どのように深化し展開したのかを明らかにすることを目的とした。 |
| 開催日時 | 第3回研究会 2025年6月27日 18時30分~20時30分 |
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| 開催場所 | 同志社大学今出川校地 徳照館 第2共同利用室+ Teams ハイブリッド開催 |
| テーマ | ① スタインベックとアーレント――『怒りの葡萄』における宗教、革命、権力 ② 「ドメスティシティの脱構築——Edith WhartonとCharlotte Perkins Gilmanの場合」 |
| 発表者 |
① 山辺 省太 ② 石塚 則子 |
| 研究会内容 |
① 『怒りの葡萄』は、オクラホマ州のジョード一家が、豊かな生活が送れると思い辿り着いたカリフォルニアの果樹園で経験した労働の苦悩を描いた作品である。カリフォルニアで差別的な扱いを受ける中、憤りを感じた彼らは労働者が結束して革命を起こす必要性を感じるようになる。しかしながら、革命の先導者であるジム・ケイシーに、自分の家族のほうが革命よりも大切であることを訴える主人公トム・ジョードの言動は、個人主義が浸透したアメリカにおいて、公的な政治空間を形成することの難しさを裏書きする。トムの母親のママ・ジョードが最後まで家族の絆を強調するように、共通善のために共に戦うことを求める革命は、この作品において実現されずに終わる。
今回の研究発表において、『怒りの葡萄』はキリスト教の根源ともいうべき原罪意識から革命への移行、つまり宗教から政治への扉を開いた作品であることを認識しつつも、政治ではなく経済を基盤にした個人主義が発達した20世紀アメリカにおいて、「人民(ピープル)」の革命が起こることは不可能であることを論じた。20世紀を代表する政治思想家のハンナ・アーレントは、暴力が革命の始まりとして避けられないことを認めつつも、人々に自由と安定を与える権力を設置することのない革命はただの暴動に過ぎないと述べている。彼女にとっては旧来の体制の転覆よりも、その後の政治的な安定の方が重要なのだ。『怒りの葡萄』は労働者を搾取する資本主義経済の転覆を夢見ながらも、そしてそのための暴力の必要性を訴えながらも、公共の自由が保障された政治空間を構築する思想が欠けていることを、本発表の結論として示した。
② 報告者はこれまで、近代化の進展とともにアメリカ社会においてひとつのイデオロギー装置として構造化され、機能してきた男女領域分離主義(“Separate Spheres”)が、19世紀の文学テクストにおけるドメスティシティ言説をいかに構築してきたのかについて、学際的に研究してきた。本研究会における最初の報告として、まず男女領域分離主義が19世紀の英米の社会でどのように浸透したかを敷衍するとともに、第二次世界大戦後にアレクシ・ド・トックヴィルの『アメリカのデモクラシー』が再版され注目されたことを契機として、アメリカ史のなかのジェンダー研究の展開をリンダ・カーバーの論考を補助線に整理した。そのなかで報告者が指摘したことは、“Separate Spheres”は単に社会におけるジェンダー役割を固定化する準拠枠だけではなく、カーバーが主張するように、社会の現実を正当化したり、特定の価値観や規範を広めたりするためのレトリックの機能を果たしてきたことである。ひとつのイデオロギー装置として、“Separate Spheres”はジェンダーの二項対立という単純構造にとどまらず、社会の諸力からなる多層的なイデオロギー装置として機能し、19世紀半ばのドメスティシティ言説を様々な点から強化してきた。その一例として、トックヴィルとほぼ同時代を生きたキャサリン・ビーチャーの『ドメスティック・エコノミー』を取り上げ、女性の役割についての規範をレトリックに置き換える、ビーチャーのフェミニスト的な視座を指摘した。
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| 開催日時 | 第2回研究会 2025年5月24日 15時~18時 |
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| 開催場所 | 同志社大学今出川校地 寒梅館6階大会議室 + Teams ハイブリッド開催 |
| テーマ | “What’s New in Henry James Studies” |
| 発表者 |
Greg W. Zacharias |
| 研究会内容 |
“Four Times Henry James: What’s New in Henry James Studies” outlined four areas in Henry James studies that both represent a “modern” or twentieth-century Anglo-American understanding of Henry James and also point to new areas of investigation into Henry James and his work. Any of the four might be suitable for scholars of other writers who were James’s contemporaries too. The four areas outlined are:
1) Henry James and modern drama, with attention to the London group that sought to identify the best modern drama in the world and bring it to London for performance, especially the group’s interest in Ibsen’s plays. In addition to James, members of the group who are discussed include Edmund Gosse, William Archer, William Heinemann, Elizabeth Robins, Marion Lea, and Hugh and Florence Bell.
2) Henry James and public identity, using Philip Waller’s survey of practices of literary culture in later nineteenth-century Britain in Writers, Readers, and Reputations: Literary Life in Britain 1870-1918, to help estimate the ways James presented himself as a modern author in order to gain acceptance in liberal London culture in the later 1870s, when he moved there from Paris, and also as a working writer in Britain who sought to maximize his income without compromising his artistic goals.
3) Henry James’s support of and work with female writers and painters, with attention to James’s relationships with Edith Wharton, Constance Fenimore Woolson, Sarah Orne Jewett, Violet Paget, and Ellen Emmet Rand and Henry James.
4) Henry James and money, with attention to James’s financial status during his later years and the value of his estate just after his death in early 1916.
米国クレイトン大学 グレッグ・ザカライアス教授は20世紀転換期のアメリカ文学のキャノンであるヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)研究の泰斗でいらっしゃり、グローバルな規模で学界に貢献されてきた。 20年以上にわたりヘンリー・ジェイムズの書簡全集(The Complete Letters of Henry James)のプロジェクト・ディレクター兼編集長として、また学会誌『ヘンリー・ジェイムズ・レビュー』の編集者(2018‐ )として現在もご活躍である。 講演では、ジェイムズやモダニティに関する深い洞察、そして書簡全集や学会誌の編集に携わっていらっしゃる知見から、最近のジェイムズ研究の動向について四つの観点から論じられた。大変示唆に富み、最近の研究動向を詳細に説明された。 |
| 開催日時 | 第1回研究会 2025年4月25日 18時30分~20時30分 |
|---|---|
| 開催場所 | 同志社大学今出川校地 徳照館2階 第2共同利用室 + Teams ハイブリッド開催 |
| テーマ | “affirmative fiction”としての奴隷叛乱物語 —研究の背景と事例から見る可能性の模索— |
| 発表者 |
白川 恵子 |
| 研究会内容 |
本発表において、報告者は、まず標題の報告に至る以前の研究過程が、本研究会が掲げるintertextuality, intersectionality, interdisciplinarity の諸概念とどのように関連しているのかを検討した。
さらに、体制に対する転覆的抵抗精神の発露を、アメリカ独立革命期からアンテベラム期までの複数テクストの中に模索した取り組みについて紹介し、その後、奴隷叛乱事件の考察へと進捗した研究過程を示した。
そして、報告者がここ数年間考察してきた初期アメリカにおける複数の奴隷叛乱(陰謀)事件の中から、特にサウス・カロライナの事例(1822)を取り上げつつ、公式報告文書(裁判記録)およびそれを分析・解釈するこんにちの歴史家による論考と小説等の文学的・文化的表象との間の接点を探った。
また歴史テクストと文学テクストとの相互補完的解釈の可能性につき、“affirmative fiction”なる概念を想定して示した。
さらに当該語はサウス・カロライナの事例を考察した先行研究がその論考内で言うところの”novelistic evidence”という概念に近似しているのではないかと指摘した。
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