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第4研究 第二次大戦後日本の教育再建と日系キリスト教 研究代表者:吉田 亮(社会学部)

 戦時下アメリカ日本人移民(日系人)プロテスタント史が戦後日本プロテスタント史にどのような影響を及ぼしたかを究明する。
 アメリカ日本人移民(日系人)プロテスタント史において転換点となった「強制収容体験」が、戦後日本プロテスタントの復興・展開過程に及ぼした影響に特化したトランスナショナル史研究である。「強制収容体験」はアメリカ社会全体にとって「民主主義」「自由」「公平性」「人種」の意味を問う重大事件であった。この体験に直接・間接に大きく関与した日本人、日系人、アメリカ人の中で、占領期日本の再建に直接関与した人々が多く存在する。戦争のために米国滞在を余儀なくされた日本人プロテスタント・エリート、日系人宗教者達、米人元日本宣教師や牧師他であり、彼(女)等がGHQの教育政策、宗教組織の復興、キリスト教系大学の再編、反核・平和教育活動他に深く参画し、牽引した事例を研究する。その際、仏教系との比較の視点を入れる。

2023年度

開催日時 第7回研究会・2024年3月23日 13時~16時
開催場所 オンライン
テーマ 戦後の日本語教育に果たした宣教師 D・ダウンズの役割
発表者 竹本英代
研究会内容 竹本は日米両国の歴史資料を用い、これまでの研究を総括するかたちで、ダウンズの戦前の言語教育論や戦後の動向を中心に発表をおこなった。
吉田ははじめに、本研究は、聖書の「みことば」を大切にするプロテスタント海外伝道において、どのような手法で「みことば」を伝えたかを明らかにする重要な研究であると評し、続けて、ダウンズらがパーマー・メソッドに価値を置き継承し続けた理由と、戦後の言語教育への需要に変化が生じてもパーマー・メソッドが用いられた理由について質問した。竹本は、ダウンズをはじめとした宣教師たちの言語教育の理想がパーマー・メソッドと一致していたことが継承された理由と考えられること、戦後においては、教授法そのものではなく、教育者像(日本語を母国語とし、言語教授法の訓練を受けた教師による教育)を継承したと捉えている旨を答えた。この応答を受け吉田は、戦前の日本でうまれた長沼メソッドが、戦時下アメリカ、戦後日本でも用いられたことは、言語教授法の越境であり興味深いとした。続いて池端は、日本のキリスト教界の国家神道屈服とメソジスト派の黒人差別を同様とするダウンズ論文の詳細を求めた。竹本は、結章とフィリピン抑留時の記述にメソジストに関する記述はあるが批判的なものではないことを伝えた。根川は、長沼メソッドによる言語教育の成果に関する記録の有無を問い、竹本は、戦前戦後の宣教師において最も異なっている点は語学力であり、戦後の宣教師の日本語力が高いとする1959年のダウンズらの評価を紹介し、その背景に、日本語力にプラスして日本人理解に長じた宣教師育成を謳ったIBC宣教師マニュアルの存在が考えられることを挙げた。また根川は、長沼が作成した『標準日本語讀本』に謙遜表現に関する項があることを伝え、長沼メソッド学習者の会話の実際について問うた。竹本は、戦後用いられた教科書は、長沼が宣教師向けに改訂した『標準日本語讀本』であること、IBC宣教師使命では「慎む」ことが求められていることを繋げ、これらが謙遜表現教育に結びつく可能性を示した。最後に吉田から、今後の研究において、戦前から戦後に引き継がれたもの、変化したものが明らかとなることが求められた。
開催日時 第6回研究会・2024年2月24日 13時~16時半
開催場所 オンライン
テーマ
  1. 常光浩然の国際的平和運動・仏教振興運動の背景にあった人的ネットワークについて
  2. 1950年代本願寺築地別院のInternational Buddhist Associationと在京二世仏教徒
発表者
  1. 高橋典史
  2. 本多 彩
研究会内容 常光浩然の国際的平和運動・仏教振興運動の背景にあった人的ネットワークについて
高橋典史

 高橋は、戦後直後の常光の故郷広島での諸活動を紹介したうえで、その後、常光が「自由仏教人」として全国的・国際的に活躍していく背景にあったと考えられる戦前の人的ネットワークについて明らかにした。
 吉田は、常光の国際平和運動の出発点に同郷人ネットワークがあるという重要な示唆に謝意を伝え、常光の超宗教とは連合体と融合体どちらを意図しているか、また、戦後の共産主義問題への反応について尋ねた。高橋は、連合・コラボレーションを意図したものであったこと、戦後の共産主義に関する積極的言及はなかったことを答え、キリスト教へのライバル視が顕著であることを付け加えた。次に池端が、常光の自由仏教徒思想の基盤はどこにあったのかを問うたのに対し、近代仏教の流れ(本来の仏教の教えを前面に押し出す)の影響を受け、宗派主義や旧体制に対する対抗文化的側面が見られること、「自由」には体制からの自由という意味を含むと推測していることを答えた。吉田は、キリスト教界の国際化やエキュメニカルの議論では教派改革を意識している例が散見することを挙げ、常光の活動における浄土真宗改革という側面の有無について尋ねた。高橋は、日本的伝統仏教の現代化を目指していたことを答え、宗派改革については今後の研究課題にしたいとした。関口は、冨士川のヘッケルの影響を仏教界はどのように受け止めていたか、また、常光へのそれらの影響について質問した。高橋は、ヘッケルの思想が仏教界や常光に影響を与えたか否かは現時点で不明であること、平和主義については冨士川と常光では異なっており、常光がアメリカで教育を受けたことが影響していると考えていることを伝えた。吉田は、戦後日本における文明的圧力の中で、仏教界の対抗軸や言説、常光に文化帝国主義のような視点があったかについて質問した。高橋は、戦前はアジア侵攻のなかに仏教の教えが組み込まれ、戦後はキリスト教的文化やGHQ、アメリカ文化への反感、危機意識が非常に強く、仏教をオルタナティブなものとして意識していたと感じていることを回答した。重ねて吉田が、逆コースが強まる中で、常光にアジアを意識する言動が出てくるか否かを問うたのに対し、当初はアメリカ経験に拠った活動が目立つが、時間を経る中で変化したと推測できるため、今後検証したいとした。最後に本多から、覚善寺の事蹟調査方法について示された。



1950年代本願寺築地別院のInternational Buddhist Associationと在京二世仏教徒
本多 彩

 本多は、国際仏教協会(International Buddhist Association、以下IBA)の目的、組織、活動内容、関わっていた二世や仏教青年会等の教化団体との関係について、在京日系二世仏教徒の動きが活発な1950年代前半を中心に、IBA30周年記念誌(Sangha: 国際仏教協会30周年記念特集Special 30th Anniversary Edition 1980)などを用いた考察をおこなった。
 吉田は、IBAに関する新しい知見を与えられたことへの謝意を伝え、IBAに対するBCAの反応と、YBAは民主的市民育成を目的として作られた組織であるかの2点を尋ねた。本多は、BCAも浄土真宗本願寺派本山と同様、IBAを肯定的に受け止めていたと考えられること、IBAの活動には日本の仏教界を活性化した痕跡が見られること、YBAは当時の仏教界に異を唱えつつ、良き市民を育成するという側面があることを答えた。高橋は、門主の海外巡行が1951年という早い段階で可能となった背景について、逆コースの中でのIBAの変化について、IBAから見た日本の伝統宗教に対する反応についてという3点を尋ねた。本多は、門主の公職追放が解かれたことが海外渡航の後押しとなったと考えられること、GHQとの力関係などは不明だが、浄土真宗本願寺派との意思疎通は出来ていたと捉えていること、逆コース下でもIBAの基本姿勢は変化していないこと、IBAと日本寺院間に親密なつながりはなかったと考えていることを回答した。これを受け池端から、門主海外渡航について、GHQに届いていたキリスト教優遇批判が影響していた可能性が伝えられ、資料提供の申し出がなされた。次に本多から高橋に対し、常光はアメリカの誰と遣り取りしていたか、仏教伝道協会の山下などとの親交の有無についての質問があり、高橋は、戦前は日米協会や沼田が二世や海外との橋渡し役だった可能性を覚えるが、戦後は不明のため調査すると回答した。吉田は、戦後日本において、アメリカ文明による日本改革という大きな流れの一翼をキリスト教界が担っているが、IBAもこのような文明史観の一翼を担ったと捉えることは可能か否かを問うた。本多は、当時の浄土真宗にアメリカンスタイル、キリスト教界的スタイルを学ぼうという姿勢が見えることから、今後精査することを回答した。
開催日時 第5回研究会・2024年1月27日 13時~16時半
開催場所 オンライン
テーマ
  1. フロイド・シュモー 著Japan Journeyから
    あらためて「ヒロシマの家」プロジェクトを考える
  2. 戦後の教育再建の一断面―世界経済調査会、教育刷新委員会(審議会)、日伯中央協会における澤田節蔵の活動をめぐって
発表者
  1. ⾼⽊眞理⼦
  2. 根川幸男
研究会内容 フロイド・シュモー 著Japan Journeyから
あらためて「ヒロシマの家」プロジェクトを考える
⾼⽊眞理⼦

 高木はこれまで、シアトルの⽇本⼈バプティスト教会のAndy牧師(Rev. Emery Andrews)と広島との関わりを中⼼にすえ、被爆地広島と多様なアメリカ⼈たちとの関係をさまざまな⾓度から⾒つめてきた。これに関し、本発表では、Floyd SchmoeによるJapan Journeyから考察をおこなった。
 吉田は、シュモーを介してアンディへの見解を深める目論見は成功したと考えることを伝え、「家」の持つ、信仰を守る砦という意味についてどのように考えるかを尋ねた。高木は、家族による次世代育成を意図していると考えていることを答えた。これを受け吉田は、学校による教育スタイルとは異なり、家族による教育スタイルが成された特異性を指摘した。さらに、ヒロシマの家居住者に中流階層が選ばれたことは意図的か否かを問い、高木は、最初の試みでは広島市役所が選択していること、後半ではより困っている方たちを対象にしている例もあることを答えた。郷戸は、当時の日本のクエーカーたちはインターナショナルスチューデントセミナーに注力していた為、シュモー個人の活動という印象が強いことを伝えた。高木は、同様の印象を持つが、他者の力を借りる場合には有力者を選択している点を示し、シュモーのクエーカー内の立ち位置を尋ねた。郷戸は、ラディカルな存在であったことを答えた。根川は、占領期の日本入国許可はGHQと外務省のどちらによるものかと、高良とみが国際機関で活躍した背景を尋ね、高木は、今後調査するとした。吉田は、GHQが宣教師枠を規定していたことから、ローズがシュモーを宣教師枠で入国させた可能性を示した。また、高良は明確なクエーカー教徒かを問い、郷戸が調査する旨を答えた。関口は、シュモーらの活動記録にはどのような資料があるかを尋ね、高木は、中心は新聞であり、それ以外に日本人からアンディ宛の書簡があることを回答した。高橋が、シュモーやアンディらの、朝鮮半島での記録の有無を尋ねたのに対し、高木は現時点では未発見であることを答えた。吉田は、朝鮮戦争も含めた、逆コースへのアンディやシュモーの反応に関する追加調査を求めた。

戦後の教育再建の一断面
―世界経済調査会、教育刷新委員会(審議会)、日伯中央協会における澤田節蔵の活動をめぐって
根川幸男

 根川は、教刷委の活動ととともに、それと関連する世界経済調査会、日伯中央協会における澤田節蔵の活動と人脈を取り上げ、ユネスコ加盟やサンパウロ400年祭参加という、戦後の教育の再建や国際的展開への貢献について明らかにした。
 吉田は、本研究会では民(private)からの動きに焦点を当てた研究が多い中、官からの動きの研究が非常に興味深いことを伝え、ブラジルとユネスコをリンクさせたのは澤田にしか成し得なかったことではないかと尋ねた。根川はそれに同意を示し、日本の経済界の動きを見れば、澤田の達見と言えることを答えた。さらに吉田は、世界規模のキリスト教界の、日本は移民を中南米にという流れと澤田の動きが連動していたか否かを尋ねた。根川は今後の課題とすることを答え、フレンド派のボールズ父子との関係が澤田の思想形成へ与えた影響について関心を寄せていることを伝えた。続けて吉田は、澤田は優生学に批判的意見を持っていたか否かを尋ね、根川は、明確な反対を表明していたこと、澤田の妻を媒介としてカトリックの影響も大きかったと考えていることを答えた。関口は、出生調節は避妊技術による調節も含まれているのか、戦前戦後の移民政策との関連性についてどのように考えるかを質問した。根川は、戦後まで一貫して、移民政策は人口問題と完全にリンクしており、人工中絶を特に否定する記録があることを答えた。重ねて関口は、優生学的断種政策への否定か、避妊技術への否定か、澤田の中心はどちらかを問い、根川は再度資料を精査することを伝えた。また、戦後復興下での他のキリスト者たちについて質問した。これを受け吉田は、調査の継続を求めた。また、1950年代初頭からのキリスト教界の移民推進について回答した上で、人口問題と移民政策における、澤田の考えやスタンスに戦前戦後の相違の有無を尋ねた。根川は、さらに調査する旨を答えた。物部は、西田天香と湯浅八郎の関係から、西田の下で働いていたハワイ出身の同志社関係者の調査を勧めた。根川が湯浅と澤田について問うたのを受けて吉田は、湯浅のユネスコ運動は民、澤田は官であり、質的に異なることを挙げ、これを深めることで澤田の独自性に繋がる可能性を示した。高橋は、西田は修養や道徳運動の有識者として関係していたのではないかと考えている旨を伝えた。また田中は、京都ユネスコ会長には在米日本人の中からの人選傾向がうかがわれることを伝えた。
開催日時 第4回研究会・2023年11月25日 13時~16時半
開催場所 オンライン
テーマ
  1. 戦後⽇本におけるアメリカフレンズ奉仕団の復興活動―国際学⽣セミナーの活動を通して―
  2. ローレンス・ラクーアによる音楽伝道が戦後再建期の日本社会に与えた影響の一考察(2)
発表者
  1. 郷戸夏子
  2. 髙橋詩穂
研究会内容 戦後⽇本におけるアメリカフレンズ奉仕団の復興活動
―国際学⽣セミナーの活動を通して―
松盛美紀子

 郷戸は、1949年と1950年の国際学生セミナーに関し、参加した学⽣たちがどのようなことを考えたのか、そしてどのような講義や学⽣の報告が⾏われたのかを報告書やレポートから明らかにし、戦後⽇本においてAFSCが学⽣たちに対し開催した国際学⽣セミナーの意義、そして戦後⽇本における意味について検討をおこなった。
 吉田は、青年や学生会議の流行期において、クエーカーにとっての「対話」の特色や意味合いなどについて尋ねた。郷戸は今後調査をおこないたいとした。関口が、上代の「日本では敵国の再教育」という言葉は具体的に何を指しているのか質問したのに対し、アメリカによる日本への再教育という意味であること、上代はアメリカの教育を高く評価していることを回答した。物部は、オーテス・ケーリと上代が類似した考えをもっていた理由を問い、吉田から、リベラルアーツ教育が戦後日本の高等教育改革に求められていたことが示された。神田はシーベリーの日本人学生評(ヒステリック)と同様のものが上代レクチャーにもあるか否か、日本側からの戦時下や原爆投下時の現状を話す機会の有無について質問し、知識と経験を繋げて語ることが出来ない日本人学生の姿や、知識上の批判の域を出ない日本の家族制度、天皇制に関する話があったことを答えた。吉田は、「個」が重要なキーワードとなることを挙げ、クエーカー独自の「個」への考え方とセミナーとが繋がることを求めた。郷戸は吉田に対し、同時期の他の学生会議に超宗教的側面があったか否か尋ね、吉田は、その点において本セミナーの特色やクエーカーの強みが出ていると考えられることを回答した。大森は、アメリカ至上主義的評価の有無と、セミナーにおける社会主義に対する評価を尋ねた。郷戸は、大森同様、アメリカ至上主義を感じたこと、資本主義に対する問題意識が強かったこと、経済の観点から見ると社会主義を推す学生グループがあったことを答えた。関口は、上代は「個人」と「共同体」から民主主義思想を構築しようとしていたのかを問い、今後考察したいとした。池端は、日本人参加者の再軍備に対する意見を尋ね、郷戸は、具体例は現時点で発見できていないが、核や再軍備への問題意識を持っていたと考えていることを伝えた。最後に吉田は、クエーカーらしさの追求と、参加者の意見調査を進めることを求めた。

ローレンス・ラクーアによる音楽伝道が戦後再建期の日本社会に与えた影響の一考察(2)
髙橋詩穂

 髙橋は、関⻄農村センターに保管されていた資料をもとに、関⻄におけるラクーア音楽伝道の軌跡から、戦後再建期の⽇本社会にどのような影響を与えていったのかについて検討をおこなった。
 吉田は、第一回と第二回の音楽伝道の変化の原因を尋ね、髙橋は派遣者のクオリティの違いや、ラクーアが日本社会に音楽伝道が根付くことを目指していた点を答えた。続けて吉田は、センター方式への変更はアメリカからの一方的指示であるかを問い、髙橋はアメリカからの支援とプレッシャーがうかがえると回答した。池端は、アメリカ側も農村伝道に注力していたのか否か、指示者は誰かについて尋ねた。高橋は、日本側の力だけでは献堂が難しいと思われる地域をアメリカ側が選んだと答えた。しかし1968年資料によると、日本人牧会者とアメリカ人牧師との協議で伝道地を決定していたようにも思われるとした。吉田は、伝道活動の主導権が誰にあったかは重要であり、外国伝道会議との関係性などを明らかにすることを求めた。続けて吉田は、メソジストが得意とするキャラバン伝道と関連する記録の有無を尋ね、髙橋は、伝道内容が多様化している点にキャラバン伝道の影響を感じると答えた。吉田は、ラクーア個人も含め、歴史的視点を入れること、讃美歌からの掘り下げもおこなうことを提言した。田中から、センター方式とアメリカンボードのステーションなどとの違い、予算配分決定権の所在、センター単位の報告書の有無、大学単位での学生導入例について問われ、髙橋は今後調査するとした。吉田は、日本国内のセンターやアメリカの中央委員会の記録調査と、日米資料を比較することの可能性を示した。物部は伝道で用いていた映画タイトルを尋ね、髙橋は今後調査したいとした。大森はラクーアと武藤の関係について尋ね、髙橋はラクーア伝道と同時に武藤の講演がおこなわれていたこと、武藤の講演によって説教理解が深まったと考えていることを答えた。最後に吉田は、武藤研究の重要性を示し、占領期日本の西洋音楽の受容変化や再建に対し、ラクーアがどのような影響を与えたかを明確にすることを求めた。
開催日時 第3回研究会・2023年10月28日 13時~16時半
開催場所 オンライン
テーマ
  1. 敗戦後関西学院の農学教育事業―同志社農本文化事業の前提と背景―
  2. 戦後京都におけるカトリックの伝道活動―メリノール宣教師の活動に注⽬して―
発表者
  1. 田中智子
  2. 大森万理子
研究会内容 敗戦後関西学院の農学教育事業―同志社農本文化事業の前提と背景―
田中智子

 田中は、前年度発表時に課題として挙げたマクナイトに焦点を当て、関西学院所蔵の一次史料を用いて、これまでに明らかにした同志社の動向に対する相対的・鳥瞰的位置づけを試みた。
 吉田は関学と同志社の対比が興味深いとし、メソジストの農村伝道に関する戦前戦後のつながりについて尋ね、田中は神崎日記などで詳細が明らかになる可能性を考慮していることを答えた。神田は、農村伝道に対する関学学生の反応と、在日宣教師の勢力図について説明を求めた。これに対し、学生は積極的でなかったと思われること、宣教師の力関係についてはICU設立資料やキリスト教学校教育同盟の記録などを分析予定であることを回答した。吉田から、ブランボーの位置づけについて補足説明がなされた。竹本は兵庫県および香川県との折衝や動向について尋ね、田中は、香川県について、歓迎していた記録が残っていること、南メソジストミッションが四国伝道を長く希望していたこと、現時点で詳細は不明であることを伝え、兵庫県においては、実業高校設立を含め全体構想に組み込まれていると見ていることを答えた。関口は、「農本」という言葉は戦前的価値観を継承しているように見えるが、マクナイトは農村をどのように捉えていたのか、教育学的言葉などは使われているかを問い、田中は、関学では「農本」という言葉は使われていないこと、マクナイトが当時のマイノリティかマジョリティか定かではないが、農村や農民のメンタリティが低く、自信がないことを批判していたこと、教育学的言葉は用いられていなかったことを伝えた。また、『農民クラブ』を精査することで農村伝道の思想が鮮明になると考えているとした。これを受け吉田は、戦前と戦後の連続性と非連続性は重要な視点であり、農村伝道に関する考え方の変化や、マクナイトによる継承と変革などが詳らかになることを求めた。池端は、マクナイトの考えの中に民主や自由などのハイヤー構想があるか否かを尋ね、田中は、マクナイトには体系的理論はなく、キリスト教宣教の対象者を変革するべきという考えや、農民こそ社会の主体となるべきなどの発言があることを伝えた。吉田は、関学の卒業生が農学部設立運動を起こしたと記憶しているが、それと本発表内容との繋がりについて尋ね、田中は、戦前からの連続性は現時点でうかがわれないことを答えた。最後に吉田から、論考における本発表の最終的な位置づけなどが問われた。

戦後京都におけるカトリックの伝道活動―メリノール宣教師の活動に注⽬して―
大森万理子

 大森は、戦後(1945〜1952年)の京都を中⼼に活動したメリノール宣教会に注⽬し、カトリックによる伝道活動について教育と慈善の両⾯から、その実態を明らかにした。
 吉田は、戦前戦後を通してメリノールの活動が俯瞰された点が興味深いとし、メリノールが教育と慈善をどのように捉えているかについて尋ねた。大森は、宗教教育が民主主義を伝えることになると考えていたと捉えていること、その論理の根拠については今後考察をおこなうことを答えた。池端は、ティベサーが宗教と民主主義を語る際に「アメリカ」という言葉は含まれているのかを尋ね、単語としては出てこないが、アメリカ人の教える民主主義というニュアンスは感じられることを答えた。これを受け吉田から、マッカーサーのアメリカ民主主義をメリノールの宣教師たちがどのように共有していたかという点も、分析視点に加えることが勧められた。田中は、メリノールの農村伝道は組織性が高かったのかを尋ね、大森は、今後、メリノールのオフィシャルな記事の検討予定を伝えた。竹本は『メリノール』の調査手法について質問し、日本だけではなく他国での活動記事も調べることで、メリノールの民主主義の輪郭がはっきりするのではないかと提言した。大森は『ミッショナリーバルタン』も含め検討することを答えた。物部は、キリスト教色を前面に出していない点や卒業生の進路などでアーモスト寮との違いを、ティベサーの言葉からは植民地主義的思想を感じたとした。関口は、1932年にカトリックは国家意識が欠けると批難されたことに対するメリノールの反応を尋ね、大森は、今後検討したいとした。吉田からは、上智大学の例に限らず、日米双方の人種主義に対するメリノールの対応や反応の調査が勧められた。神田は、農村において修身の代わりにカトリックの宗教教育を勧め受け入れられたという例のその後を尋ね、大森は、実際には展開されていないと考えているとした。最後に吉田は、カリタス会やカトリック学生連盟との関連を挙げ、カトリックの民主主義やキリスト教原理がさらに明確になることを求めた。
開催日時 第2回研究会・2023年9月23日 13時~16時半
開催場所 オンライン
テーマ
  1. 新制大学の発足と明治学院―「明治学院新聞」からみるキリスト教主義大学の模索
  2. C.B.デフォレスト書簡に見る日本派遣宣教師と戦後復興―1943~1950
発表者
  1. 松盛美紀子
  2. 石村真紀
研究会内容 新制大学の発足と明治学院―「明治学院新聞」からみるキリスト教主義大学の模索
松盛美紀子

 松盛は、戦時下にミッションとの関係を絶った明治学院は、戦後どのような形で復興を遂げたかについて、「明治学院新聞」(1 946年12月5日~1951年12月15日)を用いて戦後復興期におけるキリスト教主義学校の模索について明らかにした。
 吉田ははじめに、本発表で用いた資料の性格について尋ねた。松盛は、学生の記事に限らないため学園内部の動向を調査できると考え用いたとし、今回未精査の明治学院時報については、今後調査を行うとした。次に吉田は、新約聖書の教えと直結した自由自治を重要視することは、ICUや同志社など多くのキリスト教主義学校で共通していることを指摘した。神田は、社会主義思想に対する首脳陣の発言が同志社と異なっていることを伝えた。根川が矢野貫城の辞任理由を尋ね、戦後処理に目途がついたことがひとつの理由と考えていると回答した。これを受け吉田から、矢野の考察においてGHQとの関係を意識する重要性が示された。大森は、「市民」の意味や「新しい精神」との結びつきについて質問し、松盛は自由・人権・平等をもつ「市民」、「新しい」には戦中戦前とは異なるという意志の表明があると答えた。吉田は、「市民」について考察の中で丁寧に触れること、キリスト教的市民像との相違、戦前戦後の概念変化などの更なる調査を求めた。また、1947年頃から建学者ヘボンを打ち出した背景を意識することを伝えた。池端は「市民」とキリスト教主義との関係、「自由の精神」の詳細、何からの自由を意味しているかを尋ね、松盛は、「市民」の登場と宣教師の再来日が重なっている為、アメリカ的思想の反映と考えていること、個人の選択の自由や、軍国主義的教育からの自由と考えていることを答えた。吉田は、信仰と市民概念は一体化していることを前提として考察することが重要とし、「市民」概念に留意すること、戦争責任をどう考えていたのか、流行に便乗したものかなどの検討を求めた。竹本は、矢野と別の考えとはどのようなものだったのか質問した。松盛は、矢野以外の考え方は未調査だが、ヘボンの建学の精神からの脱却や発展、ミッションからの独立などを訴える記述を紹介した。高橋が、理念と実態についてや、国内の教派ネットワークとの関係を尋ねたのに対し、明治学院はミッションと矢野の持つネットワークにより発展していったこと、青山学院と関東学院との総合大学構想やICUとの差別化を意識していたことなどを答えた。さいごに吉田は、戦後の激変期におけるキリスト教主義学校の中での、明治学院らしさを見つけて欲しいと求めた。

C.B.デフォレスト書簡に見る日本派遣宣教師と戦後復興―1943~1950―
石村真紀

 石村は、神戸女学院大学所属教員の研究会により昨年度末に公表された、C.B.デフォレスト書簡の活字化及びデジタル画像を活用し、日米開戦から戦後復興期に至るデフォレストの活動と取り巻く状況を明らかにした。特に、研究キーワードに関連する書簡について該当部分の訳出を試み、検討を加えた。また、本研究会に関連する内容の書簡についての紹介をおこなった。
 吉田は、デフォレストが収容所と神戸女学院再赴任という両方の経験を持つことの貴重性を示し、ミッションの定期刊行物の閲覧可否を尋ねた。石村は、戦後の機関誌には宣教師の動向があまり載っていないことを答え、アメリカン・ボードの組織変容も注視しながら調査をすすめるとした。神田は、デフォレストの女子教育に関する発言について尋ね、現時点では提示資料以外の記述は見つかっていないこと、ウーマンズ・ボードへは表現が異なる可能性があることを回答した。これを受け吉田は、ボードの教育方針に関する大きな問題であり、経緯なしに出てくる発言とは考え難いため、デフォレストとボード内の女子教育観に関する変化、戦前からの非連続性、波及効果などの調査を求めた。続いて吉田は、音楽教育に関する議論の戦前戦後の違いや、声楽から楽器へと教育内容がシフトしたと考えて良いか(ラクーアに見える要素の有無)などを尋ね、戦前からの流れを堅持する風潮や、宣教師ではなく専門教員の雇用など小さな変更が見られることを回答した。大森は二世教員の採用について詳細を求め、石村は、在米二世の招聘を目指し、現時点で一人だけ実例を確認出来ていることを答えた。吉田は、戦時下での体験の連続性、非連続性を意識した更なる調査を求め、次に、英語教育法について尋ねた。石村は、戦前に宣教師が作った独自カリキュラムが継続されていることを答えた。吉田は、北米でも日系二世を宣教師として派遣する議論があったが、神戸女学院ではどのように二世が求められていたかの調査を求めた。これに対し石村が、他大学の例を尋ね、吉田は、同志社の例を挙げながら組織的リクルートではなかったことを説明した。松盛が明治学院には二世教員の記録は見当たらないこと、吉田が、ICUでも実例は聞いたことがないことを伝えた。関口は、天皇来院時の畠中の発言について説明を求めた。吉田は、当該書簡の重要性を示し、書簡の日付以降の変化や活動の調査を促した。池端は、平和運動や平和教育に関する記録の有無を尋ねた。これを受け吉田から、クリスチャンフェローシップの大原則を引き継ぎながらも、アイグルハートとデフォレストに活動の違いがあることの有意性を示し、戦後の新しい形のシスターフッドも意識した調査を提言した。
開催日時 第1回研究会・2023年4月26日 13時~16時半
開催場所 オンライン
テーマ
  1. 日米プロテスタントと国際基督教大学構想、1945~50―日本側の「自主性」をめぐって―
  2. R.I.シーベリー資料に関する考察―1948・1949年を中心に―
発表者
  1. 吉田亮
  2. 神田朋美
研究会内容 日米プロテスタントと国際基督教大学構想、1945~50―日本側の「自主性」をめぐって―
吉田亮

 吉田は、米プロテスタントが在米日系人の支援活動から得られた知見を、日本プロテスタントと交渉しながら、敗戦直後(1945~47)の日本伝道再開時にどのように生かして取り組んだのか、その結果どのような成果を挙げたのかを考察することを目的とし、本発表では、日米プロテスタントが戦後日本伝道再建の一環として展開したキリスト教大学設立構想において、日本側の「自主性」がどのように発揮されたかを検討した。
 吉田が、アメリカの代表が日本の主要大学をまわったことやICUに関する各大学の記録について問うたのに対し、石村は、神戸女学院では言及はなかったと思うこと、松盛は、明治学院は不明のため確認することを答えた。郷戸がICUと皇室との関係について尋ね、吉田は、皇室はキリスト教との接近によって民主主義化や軍国主義との乖離のアピールを狙ったものと思われ、関係構築に積極的だったのは皇室側と考えられるとした。また郷戸は、クリスチャンセンチュリーの「民主主義へのフロンティアである日本」という表現が興味深いことを伝え、吉田は、米プロテスタントにとって「フロンティア」という言葉は、協力への意欲に大きな影響を与えたと考えられると応答した。神田は、ICU創設時の同志社の反応を紹介し、創設過程における長老派の影響について尋ねた。吉田は、創設過程では長老派偏重のようなものは一切ないが、設立時の評議員会において長老派の数が突出することについて、現時点では、戦前戦後通し総合大学構想を最初に提案したのが長老派のメンバーであったこと、構想を牽引してきた自負心が要因の一つと考えていることを回答した。石村は、評議員会メンバーに在日宣教師はいたのかを尋ね、吉田は、関西学院院長、聖路加国際医療センターのオーヴァートン、西南学院ドージア、同院長ギャロットの4人のみと回答した。さらに石村は女性メンバーの有無を尋ね、YWCA総主事、津田塾学長の星野愛、救世軍の山室民子、富士見町教会の植村環がいたことを答えた。さらに、創設過程初期から東京大学の南原などが協力していたことから、評議委員会には常に無教会派に2枠確保されていたことを付した。田中は、公会主義や同志社医科大学構想など、近代史に前歴があったことを振り返られることはなかったのかを尋ね、吉田は、戦前の失敗をふまえて戦後新たに挑戦したため、関係者の頭の中ではつながっていたと考えられるが、記録はないことを回答した。最後に吉田は、ICU構想と日系人の接点について、現時点では、日系2世の東ヶ崎が理事長であったことと、キャンペーンへの在米日系2世の積極的参加に関することのみだが、この点をさらに深める予定であることを示した。これについて郷戸から、ララやクエーカー関連資料の可能性が伝えられた。

R.I.シーベリー資料に関する考察― 1948・1949年を中心に ―
神田朋美

 神田は、第4研究会2022年度総括会議において示された研究テーマと設定キーワードを手掛かりとし、これまで不明であったシーベリーの活動実態や思想傾向を明らかにすることを目的として、前年度発表時に課題としたシーベリー関連資料の収集結果およびその詳細について報告をおこなった。
 吉田は、今回紹介した資料はハーヴァード大学所蔵資料全体のどの程度であるかと、日本国内の新聞の所蔵について尋ね、神田は、1948年と1949年に関してはほぼ報告できたこと、同女新聞の所蔵については確認することを答えた。また吉田は、同志社の新聞に対するシーベリーの思い入れの根拠がどこにあるかを尋ね、神田は、学生運動隆盛やそれに対する湯浅の対応が背景にあると考えていることを答えた。吉田は、「学生新聞の使命」にはシーベリーの信仰の在り方や自由の捉え方などが非常に表れていることを指摘した。関口は、戦後日本においてアメリカの人種主義的感性についてどのように捉え直していったのかを尋ね、神田は、シーベリーから見た日本人のマッカーサー評を伝え、受け入れに時間を要したと考えていること、人種差別を嫌悪するシーベリーの特性が、日本で受け入れられやすかった一因であったと考えられることを答えた。さらに関口は、先の質問を長期的に見た場合を尋ね、神田は、人種主義問題を「日本人の自立」など視点や表現を変化させて捉えていたのではないかと答えた。吉田は、日本人クリスチャンにとって人種の話はセンシティブであり、自主性などと表現を変えながら発露させていたこと、宣教師の持つアングロ優越主義的考えは20世紀を通じてあり、反共においても人種の優劣関係が存在した可能性を示した。また、シーベリーの反人種主義は宣教師の中で例外的か否か、日系人に対するシーベリーの捉え方などを通じ、シーベリーの人種観を相対的に描くことを提言した。さらに、女性宣教師であることの特異性、日本人女性をどう見ているかについても付加することを勧めた。石村は、女性宣教師を対象とするつながりから、デフォレスト資料でもシーベリーを注視することを伝えた。吉田は、宣教師は最低2国の架け橋を果たすため、母国側への影響力も持っていることを意識しながら調査すること、祖国に対する活動の意義を明らかにすることで、戦前の日本研究とは異なる意味や役割を見出す可能性を指摘した。また、神田がキーワード設定を模索していた福祉について、リベラルプロテスタントにとっては必然的に含んでいる為、単立ではなく他のキーワードに含まれるとした。田中は、福祉という言葉は多様な側面をもつ為、複層的かつ慎重に考えることを提言した。最後に吉田は、自由の捉え方、宗教教育の意味付けなどの視点を重視しつつ、考察を深めることを求めた。

2022年度

開催日時 第9回研究会・2023年3月25日 13時~16時半
開催場所 オンライン
テーマ
  1. ローレンス・ラクーアによる⾳楽伝道が戦後再建期の⽇本社会に与えた影響の⼀考察
  2. 総括会議
発表者 髙橋詩穂
研究会内容 ローレンス・ラクーアによる⾳楽伝道が戦後再建期の⽇本社会に与えた影響の⼀考察
髙橋詩穂

 髙橋は、戦後⽇本のキリスト教の⼀⼤伝道プロジェクトであったラクーア⾳楽伝道が、再建期の⽇本社会に与えた影響について、彼らの「⾳楽演奏」に視点をおいて考察を行った。
 吉田は、音楽と民主化の親密な関係性は世界的にも歴史を持っているが、本研究と戦後日本の武藤富男との関係についてどのように考えているかを尋ねた。髙橋は、ラクーアが感謝していたことは把握しているが、今後は武藤の視点も含め考察したいと回答した。さらに吉田は、日本基督教団はラクーアの伝道のどのような点に魅力を感じていたかも明らかにすることを求めた。高橋典史は、レジュメ中の「教団」とはメソジスト、日本基督教団、超教派な別組織のどれを指したものか、音楽伝道はポピュラーな伝道形式であったかについて質問し、青山学院のプログラムや伝道募集要項を見る限り日本基督教団のバックアップが大きいと考えていること、アメリカでポピュラーであったかは不明であることを答えた。これを受け吉田は、マリンバによる演出力が効いている点も加味しながら研究を進めて欲しいと提言した。郷戸は、ラクーア来日時のメインの受入先は青山学院であったか、日本人コネクションはどのようなものであったか、伝道が最も盛り上がった地域はどこであったかを尋ね、髙橋は、受入の中心は武藤と思われること、伝道は、最初は東京から始まっているが、第二期では東北、神戸などが大きな拠点であり、伝道が困難と思われるところを狙って行っていたことを答えた。吉田は、明治期の讃美歌流入時、日本人の音感と西洋のそれとに差があり人々の苦労となっていたが、それと同様のトラブルがあったか否かを尋ねた。髙橋は、戦後、西洋の音階が広く導入され教育にも用いられるようになった際、歌だけでの音階獲得は難しかったので器楽を用いた教育が行われてきたことを答えた。さらに吉田は安倍圭子研究について尋ね、髙橋は、安倍研究が進んでいること、ラクーアをきっかけとして、現在、日本のマリンバ演奏は世界的に見てもトップクラスであることを答えた。物部は、求道者カードにサインをすることの意味について、音楽伝道の受け手側の記録の有無について、演劇を通しての伝道の有無について尋ねた。髙橋は、サインはキリスト者となる決心を示したものと考えていること、受け手側の反応は未確認なこと、声劇などによる伝道が現在見られることを回答した。池端は、アイグルハートの著書にラクーアの伝道に関する記述があることを伝えた。最後に吉田から、キリスト新聞や教団新報などの調査の有効性が示された。

総括会議(省略)
開催日時 第8回研究会・2023年3月18日 13時~16時半
開催場所 オンライン
テーマ
  1. 戦後の教育再建の一断面―教育刷新委員会(審議会)における澤田節蔵の活動を中心に
  2. 戦後日本宣教に果たしたダーリー・ダウンズの役割
発表者
  1. 根川幸男
  2. 竹本英代
研究会内容 戦後の教育再建の一断面
―教育刷新委員会(審議会)における澤田節蔵の活動を中心に
根川幸男

 根川は、戦後の教育の方向性を定めた教育刷新委員会の会議録から澤田の発言を拾い、澤田の「回想録」(澤田壽夫編1985)における戦後の教育刷新にかかわる部分と照合し、教育再建や海外移民再開を含む戦後復興の中で、一人のキリスト者がどのような働きをするのか、それにブラジル体験がどのように影響したのかについて明らかにした。
 吉田は、本発表の大きな特徴は①外国語問題 ②対外活動という2点であり、特に②が移民問題と繋がっていくという新しく興味深い研究であると評した上で、「留学」について、当初は双方向性を持つ議論だったものが受入メインへと変化したという認識で良いのか、日本人の国際移動や創出には留学と移民の二種類あるが、どこかのタイミングでこれらは繋がったのか、澤田の理念と東京外国語大学のカリキュラム作成などとの連動の有無について質問をし、根川は今後検証していくことを回答した。高木は、東京外国語大学は外国語専門家創出よりも外国事情の専門家創出を目指す大学という印象を持っていることと、根川の発表から澤田の目指したものを聞く限り、東京外国語大学の地域研究研究科の必要性と重なることを伝えた。根川は、ユネスコに関する第21特別委員会記録が皆無であること、澤田とキリスト者との連携がないのはなぜかについて参加者らへ質問した。吉田は、矢野や河合、星野は戦前からの強力なキリスト教学校ネットワークを持っていたため、澤田とカラーが異なっていたのではないか、また、クリスチャンネットワークが閉鎖的だった可能性について示唆した。郷戸は、クエーカーネットワークに澤田の名前は登場しないが、甲南学園が交換留学を始めたことが澤田のネットワークと関連しているのではないかと提言した。池端は、1922年の宣教師関係資料に澤田の名前が登場すること、フィリピンのカトリック教会に家族で訪れた記録があることを伝えた。最後に吉田は、本研究が研究会の趣旨にマッチしており、特徴①と②をさらに深めることを求めた。

戦後日本宣教に果たしたダーリー・ダウンズの役割
竹本英代

 竹本は、石井紀子「帝国のはざまで-戦時下アメリカに帰国した来日宣教師-」(2022年)では使用されていない、ダウンズがユニオン神学校に提出した修士論文『日本の教会と宣教に及ぼした戦時圧力の影響』(Effect of war time pressures on churches and missions in Japan)の「内容」から、戦後来日前のダウンズの日本宣教の考え方について明らかにした。
 はじめに吉田は、本発表とアイグルハート研究との対比の可能性を示した。池端は、ダウンズとアイグルハートの戦時下の日本キリスト教界に対する評価が類似している点が興味深いとした。吉田は、フィリピンでの経験や植民地化された土地での経験が、ダウンズの特色としてあるのか否かについて尋ね、竹本はヴァンス資料の欠落箇所に関する推測を伝えた。また池端に対し、アイグルハートの天皇制理解について質問した。池端は、国家神道のトップを天皇と位置付けていたこと、国家神道は宗教の一つだが、庶民の生活に深く根付いたものであるため簡単に変えることはできないと記していることを答えた。竹本は、ダウンズの修士論文にはアイグルハートやダグラス・ホートンの影響があると考えている事を伝えた。田中は、戦前から戦後にかけての宣教経験を基に修論や博論を書くことは、当時のアメリカの学会や宣教事情においてどのような意味があったかについて解説を求めた。竹本は、ニューヨークがキーワードではないかと考えていること、ユニオン神学校がコロンビア大学と提携していることを答えた。この質疑を受け吉田から、ユニオン神学校やコロンビア大学は、海外伝道関係のドキュメントを全収集する使命を持っていることが影響した可能性が考えられると示唆があった。最後に吉田は、本発表によりダウンズの日本伝道に対する基本的スタンスが明らかとなったことを評し、今後は、宣教師に日本語を教える、英語を日本の民主化の中で広げるという一連の流れにおけるダウンズの立ち位置を明らかにすることを求めた。
開催日時 第7回研究会・2023年2月25日 13時~16時半
開催場所 オンライン
テーマ
  1. オーテス・ケーリと同志社大学の戦後教育
  2. アイグルハートのキリスト教理解(教派、国家、階級等の枠組みからの自由)とその源流―アイグルハートの著作から
発表者
  1. 物部ひろみ
  2. 池端千賀子
研究会内容 オーテス・ケーリと同志社大学の戦後教育
物部ひろみ

 物部は、ケーリの活動や思想が太平洋戦争前、戦中、戦後を通してどのように連続性をもっているかを考察することにより、戦後の同志社再建への彼の貢献を再評価することを目的とし、本発表では主に戦後の経験、特に同志社大学での教育活動に焦点を当てて、戦中の彼の体験は、戦後の日本で彼が実践した大学教育にどのようにつながっていたのかについて考察を行った。
 吉田は、ケーリが頻繁に用いた「解放」「人間主義」の言葉の実態がどのようなものであったかについて、今後の調査で明確となることを求めた。続いて、吉田から大森に対し、京都大学のメリノール主催の学生寮とアーモスト館を比較した際の気づきなどについて意見を求めた。大森は、デモクラシーという点に共通点を感じたことを述べ、ケーリが「デモクラシー」という言葉を使わないようにした意図について、物部に質問した。物部は、「デモクラシー」から「人間主義」という言葉の置き換えを狙ったものと思われることを答えた。さらに大森から、ケーリの日本語著作の執筆について質問があり、物部は、ケーリの娘たちへのインタビュー調査において尋ねたいとした。吉田は、アーモスト館の代表となる際、アーモスト大学はケーリにどのようなことを求めていたのか、それらに関しアーモスト大学側に記録は残っていないのかについて尋ね、物部は、今後調査を行うことを回答した。最後に吉田は、インタビュー、ジャーナル、同志社の機関誌などの調査により、さらに考察を深めることを求めた。

アイグルハートのキリスト教理解(教派、国家、階級等の枠組みからの自由)とその源流―アイグルハートの著作から
池端千賀子

 池端は、昨年度の発表に引き続きアイグルハート自身の著作から、彼の教派、国境、階級を越えたキリスト教理解を探り、彼が影響されたと考えられるメソジスト運動創設者であるジョン・ウェスレー(John Wesley)に、彼のキリスト教理解の源流を探った。また、彼が日本のキリスト教とその歴史をどのようにどの程度認識していたのか、それらがどのように「自由」の概念とつながっていたのかについて考察を行った。
 吉田は、アイグルハートとウェスレーを結び付けての考察を賢明なものと評価し、ウェスレーが唱えた「反奴隷主義」に関する記述の有無や、メソジストの根源的概念「自由」をどのように展開したか(「責任」も含め)を詳らかにすること、リベラルクリスチャンを代表する機関誌『クリスチャンセンチュリー』でのアイグルハート執筆記事の調査を助言した。続いて、A Century of Protestant Christianity in Japan(甲)の出版目的について尋ねたのに対し、池端は、アメリカのキリスト者に向けて、日本への理解を求める為であったと捉えていることを答えた。これを受け吉田は、アイグルハートが日本キリスト教界を強烈に援護した背景を明らかにすることを勧めた。郷戸は、占領期のアイグルハートが親しくしていた人物名を尋ね、誰と行動を共にしていたかは著作には出ていないが、アイグルハートとセイヤーの個人的往復書簡が残っていることから、平和活動に関心のある人物と近しかったと考えられることを答えた。吉田は、FOR(友和会)関係者と親しかった可能性を付け加えた。神田は、アイグルハートの「責任」とは、アメリカン・ボードの三大主義などと類似したものかについて尋ね、神との関係性を念頭に置いた「責任」と捉えていることを答えた。根川は、(甲)に澤田節蔵の名前が登場するか否かを尋ね、1947年から1952年の再調査を依頼した。吉田は、Cross and crisis in Japan(乙)と(甲)を比較した場合、どちらによりアイグルハートの思考が表れているかを尋ね、池端は(甲)と考えていることを回答した。これを受け吉田は、(甲)と1952年版(乙)での、アイグルハートのスタンスの違いを詳らかにすることを求めた
開催日時 第6回研究会・2023年1月28日 13時~16時半
開催場所 オンライン
テーマ
  1. 「自由仏教人」常光浩然における越境的二世教育から―国際的平和運動・ 仏教振興運動への変遷の背景
  2. 日米日系二世仏教徒の1950年代―BCAとIBA―
発表者
  1. 高橋典史
  2. 本多彩
研究会内容 「自由仏教人」常光浩然における越境的二世教育から
―国際的平和運動・ 仏教振興運動への変遷の背景―
高橋典史

 高橋は、常光浩然の活動における、戦前の二世の越境教育(日本留学)や仏教青年会運動から、戦後の国際的な平和運動および仏教振興運動への展開を明らかにし、その背景にあったと推察される「自由仏教人(徒)」(宗派の立場にとらわれずに活動する仏教者)というユニークな立ち位置を形成した、青年期における諸活動やそこでの人的ネットワークについて発表した。
 吉田は、「超宗派」がトランスナショナルに移動していく変遷過程が非常に興味深いと指摘した上で、日本のキリスト教界は、1910年のエキュメニカルムーブメントが起点となり外発的に超教派運動が展開したが、仏教はどうであったのか、起点はどこであったのか、その中で常光の位置付けはどうであったかについて質問した。高橋は、近代仏教史で「通仏教」が広がっていく様子を手掛かりに調査したい旨と、常光にとって「通仏教」は基本思想に含まれていると考えられるが、思想を実践しようとした点が特異であることから、活動家のイメージを持っていることを答えた。関口は、常光と富士川游との関係性について、北米欧州視察報告はなぜ『児童研究』に載ったのかとその内容について、戦後の常光のアメリカへの考えや、戦前の自身に対する振り返り等の有無について尋ねた。高橋は、常光には終生、富士川の影響があったこと、中山文化研究所員だった関係から『児童研究』へ寄稿したと考えられること、日系移民についての記述は少しであったこと、アメリカや原爆投下への批判や評価などはなく、戦前からの越境的活動、若者への活動などに対してポジティブな自負を持っており、むしろ、当時の日本の世相に対して批判的であったことを回答した。郷戸は、キリスト教や新宗教拡大に対する危機感を持ちながらも、宗教や宗派を超えての連帯を有用と考えていたのか、そのようなスタンスが仏教界から批判される原因だったのかについて尋ねた。高橋は、常光は他宗教をライバル視していたが排外的ではなく、むしろ他宗教から学び、変化するべきであると訴えていたと答えた。高木は、1950年の世界宗教平和会議の資料を持っているか否かについて尋ね、川口論文以上の情報を入手していないことを回答した。本多は、常光の発言は通仏教的か真宗的か、それらを使い分けていたのかについて尋ねた。高橋は、真宗的な話が多かったと認識していること、運動方針などについては超宗派的発言を行っていたことから、使い分けようとしていた感があると答えた。さらに本多は、通仏教は大乗仏教的影響があると考えるかと質問し、運動的には影響があると考えていることを回答した。最後に吉田から、「広島」「同郷ネットワーク」などのキーワードを重視しながら、メカニズムの解明を希望する旨が伝えられた。

日米日系二世仏教徒の1950年代―BCAとIBA―
本多彩

 本多は、1950年代の新たな資料をもとにBCA(Buddhist Churches of America、浄土真宗本願寺派北米開教区)とIBA(International Buddhist Association、国際仏教徒協会)について取り上げ、特に BCA の二世仏教徒の動きと、どのような二世が IBA に関わっていたのか、組織のつながり等について明らかにした。
 吉田は、日本における、仏教徒とクリスチャンの二世の活動の違いについて、今後明らかにするべき課題であり、非常に越境史研究的であることを指摘した。また、「新しい力」という言葉の意図について尋ねた。本多は、IBAが日曜礼拝の在り方を大切にしていたことを挙げ、新しい信仰の在り方を「新しい力」と捉えていたと考えていることを答えた。高橋は、IBAの存続時期についてと、IBAに在籍していた軍関係者と開教師志願者の差異について、開教師志願者の日本留学時の滞在先について質問した。これに対し、IBAは1982年頃まで続いていたと推測していること、軍関係者の滞在は短期で、開教師志願者は長期にわたりIBAに関係していたこと、留学生は東京と京都に数人ずついたことを回答した。吉田は、BCAや本山側の資料にもIBAに関する発言があったか否かについて問い、本多は、IBA組織に関する記述はなく、築地別院資料にある可能性を示唆した。物部は、アメリカ本土やハワイなど、出身地の異なる二世の関係性について質問し、これに、BCAのマジョリティはアメリカ本土出身者と捉えていること、特にカナダ出身者が含まれている点に着目していることを回答した。次に竹本が、アメリカの仏教他宗派青年会グループの有無を尋ね、おそらくあったと考えていると答えた。これを受け竹本は、IBAの英語タイトルに宗派名が出ていないことは、超宗派的動きの表れではないかと推測した。本多は、若者世代がどのような宗派意識を持っていたかについて考察する必要を感じていると応答した。高橋詩穂は、声明の音感覚がアメリカでどのように受け入れられていたかを質問し、本多は、日系人には違和感はなかったと思うが、アメリカ人には理由や意味を説明する必要があったと思われること、読経は本山のやり方を踏襲していたことを回答した。最後に吉田から、リーダーとなる人物たちのライフヒストリーが明らかになること、日本の青年たちへの影響やネットワークの有無、築地別院資料の詳細が明らかになることを望む旨が伝えられた。
開催日時 第5回研究会・2022年12月24日 13時~16時半
開催場所 オンライン
テーマ
  1. 戦後日本の道徳教育問題に対するカトリック教育界の受容と批判—『カトリック教育』(1950〜1952年)を手がかりに—
  2. アメリカから広島へ、広島からアメリカへ—谷本牧師のヒロシマ・ピース・センター計画—
発表者
  1. 大森万理子
  2. 高木眞理子
研究会内容 戦後日本の道徳教育問題に対するカトリック教育界の受容と批判—『カトリック教育』(1950〜1952年)を手がかりに—
大森万理子

 大森は、1950年から1952年にかけての文部大臣天野貞祐の発言に端を発した道徳教育の議論に対するカトリック教育界の受容と批判を明らかにする為、第一に、戦後の学校教育における宗教教育について、カトリック教育界がどのような認識を示していたかを確認し、第二に、天野文相の発言を中心とした道徳教育問題に対して、カトリック教育界がいかなる反応を示したのか、受容と批判の両側面からの検証を行った。
 吉田は、カトリックの道徳教育に対する議論はプロテスタントよりも熱心であったことを挙げ、戦後カトリック教育界再編において大きな課題であったことを指摘した。その上で、協議会は政府や社会に対しアクションを起こしていたかと尋ねた。大森は、道徳教育に関して請願を行っていたことを答え、吉田はさらに、議事録等の発行について、『カトリック教育』でのメリノール関係者の発言や記事の有無について質問した。大森は、議事録の調査を行うこと、メリノール関係の記事は無かったことを答えた。高橋は、『カトリック教育』の組織についてと、本誌が教育現場に与えた影響について質問した。大森は、教育協議会の機関誌であり、中央組織に組するものと理解していること、読者層はカトリック教育従事者を想定しているが、上智大学や東京の教区が中心であったものと思われることを答えた。続いて高橋は、ヴァチカンとの具体的やり取りの有無について尋ね、やり取りの有無は分からないが、ヴァチカン発行通信を読んでいたことが載っていると回答した。田中が、「身体の清潔」「心の純潔」に対する具体的発言や説明の有無について尋ね、把握している中ではなかったことを答えた。さらに田中から、男女共学にともなう議論展開の有無についての質問が重ねられ、直接的にはないが、家庭におけるジェンダー教育の記事はあったことを回答した。吉田から、オピニオンリーダーの著書や発言の調査、カトリック内で道徳教育議論の前に存在したと考えられる宗教教育議論を踏まえること、『カトリック新聞』による調査等が勧められた。池端は、政教分離についてGHQやCIEの態度が明らかでなかったこと(現在も)が、本事案にも影響していること、天野の発言に対するカトリックの歩み寄りの姿勢に驚きを覚えたことを伝えた。高橋は、『カトリック教育』発行主体やその変遷について示し、『カトリック新聞』や上智大学所蔵資料の調査を勧めた。最後に大森は、先の池端の指摘に関連して、カトリック教会が道徳教育に関わろうとした際、「一般に対しては自然法に基づくような道徳教育を目指す」等と表現することにより、政教分離を乗り越えようと模索していたと推測する旨を述べた

アメリカから広島へ、広島からアメリカへ—谷本牧師のヒロシマ・ピース・センター計画—
高木眞理子

 高木は、J・ハーシーの『ヒロシマ』の登場⼈物としてその名を知られることになった⾕本清牧師の⾏動を、⽇本からアメリカへの働きかけ、そしてアメリカから⽇本への働きかけに焦点を当て、⾕本をサポートしていたメソディスト派や彼の出⾝⼤学エモリー⼤学はどういう⽬的で彼を⽀えることになっていったのか。⾕本は、メソディスト派の考えとは異なる⽬的に向かおうとしていたのではないのか。またはメソディスト派は⾕本の新たな⽬的、本当の⽬的(ピース・センター建設)に理解を⽰さなかったのではないか。それはなぜなのか。逆に⾕本をして新しい⽬的にともに向かうように動かしていたのはアメリカの中でもどのような⼈々であったかについて明らかにした。
 吉田は、戦後日本の再建問題に関する谷本のアプローチを調査することにより、当時の背景が明らかとなったことが興味深いと伝えた。高橋は、終戦直後の広島を舞台に、地域の人々や他宗教との関係、キリスト教会間の連携などについて尋ねた。高木は、谷本がHPCのような活動を起草したきっかけは、超宗教の祈りの場に参加したからこそであり、キリスト教以外とのつながりも重要視していたと考えていることを答えた。これを受け高橋は、谷本を多角的に見ることにより、さらなる展開を期待していると伝えた。竹本は、川口論文と本発表との相違点についてと、戦後日本での様々な活動が利権の交錯により難しい状況下にあったことをふまえ、谷本の活動の最終的な結果について質問した。高木は、川口論文との違いは、谷本がどう考えていたかを中心に据えた点にあること、HPCは現在まで小規模ながら継続しており、谷本の名を冠した賞を授与していることを答え、谷本没後のHPCの状況についてさらに調査を行いたいと述べた。大森は、道徳養子運動はN・カズンズの興味が低下したことに要因があると認識していたが、これに関する高木の見解について質問した。高木は、道徳養子運動が下火になった理由は、事務手続きの煩雑さにあると考えていること、谷本自身は一定の評価をしていたと考えていることを回答した。最後に吉田は、広島という地で、日本人主導とアメリカ人主導の活動が並立している点を指摘し、両者がどのような並立関係にあったかなど、広島に焦点を当てることの重要性を改めて示した。
開催日時 第4回研究会・2022年11月27日 13時~14時半
開催場所 オンライン
テーマ 戦後日本における国際学生セミナーの具体相
―1949年の大会を中心に
発表者 郷戸夏子
研究会内容  郷戸は、占領期⽇本において、American Friends Service Committee(アメリカフレンズ奉仕団、AFSC)が中心となって行った活動のうち、ララ物資以外の救援活動として国際学⽣セミナー(International Student Seminar)に焦点を当て、彼らの⽬指した⽇本の復興、活動の意義を検討した。これにより、平和主義を掲げるフレンド派がどのように戦後⽇本の再建を考え、⾏動していたのか。そして、アメリカ政府及び⽇本政府にとってフレンド派はどのような存在として考えられ、利⽤(?) 、協⼒(?)していったのかについて明らかにした。

 吉田は、当時の社会、キリスト教界において共通の課題であった、日本の民主化を担うリーダー育成に関する試みのひとつとして、国際学生セミナーは、クエーカーの影響が大きい点が特徴であることを指摘した。また、キリスト教界からのアプローチの具体例が示された点、運営本部の視点などが明らかとなった点が意義深かったと評価した。また、他の会議やセミナーの特色を調べ、比較を行うことの可能性について示唆した。根川は、国際学生セミナーの記録に澤田節蔵の名が登場するか否か、「和解」というキーワードは誰と誰のものを意味しているのか、澤田昭夫はカトリック信徒だが、フレンド派と異なる意見などはあったかについて尋ねた。郷戸は、節蔵に関する記述は現在のところ見当たらないこと、和解は、日本とアメリカ、日本とアジアのものと考えていること、昭夫に関連して、様々な思想を持つ人物の参加が見られることを回答した。これを受け吉田から、セミナーのエキュメニカルな側面も明らかになることが望まれた。池端は、クリスチャンによる共産主義等の再定義の試みを感じ、普遍的キリスト教を考察することにもつながるのでは、と所見を述べた。吉田は、個人の自由と基督教信仰をつなげている点や、セクト主義的でないところが興味深いとした。次に神田は、高木八尺が講演で語った、儒教や仏教ではなくキリスト教倫理に根ざした民主主義や平和の構築に関する具体例について、アジアの民族間緊張の具体例について尋ねた。これに対し吉田から、高木八尺は、武田清子の接ぎ木論とは逆の、キリスト教倫理に日本文化を接ぎ木するという考えを持っていたことが示された。高木は、自身の研究との関連を意識したこと、広島という場所の意義に着眼するきっかけを得たことを伝えた。吉田は、「和解」に関するあらゆるアクションには、常に「共に」というスタイルが現れていることを示し、郷戸からは、祈りだけでは足りないという意識があったことが示された。田中は、日本以外にどのような場所でワークキャンプが行われていたのかを尋ね、アメリカ・フランス・ドイツ・フィンランドなど、戦争で荒廃した地域で行なわれたことを回答した。最後に吉田は、今後の資料調査の展望について尋ね、郷戸は、AFSC本拠地の資料を調査したいと考えていることを伝えた。
開催日時 第3回研究会・2022年10月22日 13時~14時半
開催場所 オンライン
テーマ 敗戦後同志社の農本文化事業
発表者 田中智子
研究会内容  田中は、学究肌という印象のある同志社神学科の有賀鐵太郎が、農村部に対する伝道や社会事業活動に思いのほか傾倒している様子を契機として、全容が不明な敗戦直後の同志社(神学科/部)の農村活動について整理し、関連事実を明らかにし、その位置づけをおこなった 。

 吉田は、アメリカでも、戦後のキリスト教伝道において常に農村伝道が存在していること、日本の農村伝道の地方での実態が明らかになっていないことを挙げ、本発表の成果は非常に大きく、農村社会の民主化と農村伝道のつながりにおいても興味深い発表であったと述べた。大森は、戦前の農本文化とのつながりや相違点などについて説明を求めた。田中は、戦前の農村伝道も重層的なものであり単純に説明することは難しいが、日本農民組合の設立などによって農村伝道の理念化が進んだことを答えた。また、占領政策下での伝道経験の有無や開拓経験が、農村伝道とどのように繋がっていくのかを明らかにするため、マックナイトに着目していくことが方策のひとつと考えていることを伝えた。吉田が、農民福音学校など、戦前からあった知育と農業の並行スタイルを取る教育とのつながりについて尋ねたのに対し、田中は、戦後において「文化」がキータームとなる可能性、研究の主眼を同志社神学科ではなく、外部に置くべきか模索している旨を答えた。これを受け吉田は、「福音」と「文化」のもつニュアンスの違いなど、今後の考察点となり得るとした。根川は、原田助総長時代の学生たちが農村伝道を行っていた流れが、農本文化財団設立にあったか否かを尋ね、明確な流れは確認出来ないが、農村伝道経験者に声をかけていったと考えられることを答えた。神田は、戦後同志社で財団設立が相次いだこととの関連、桃山農学校での経験と同志社香里との関連、神学部農村伝道科の関西学院大学への移管に、日本基督教団と同志社の関係不良の影響があったか否かについて尋ねた。田中は、今後の行政文書調査によって明らかとなる可能性と、教団と同志社の関係不良の一例を示した。これを受け吉田は、両者の関係不良があったからこそ、同志社の農村伝道が教団中心のパターンに則っていない点とともに、農村伝道がICUの学科設立や南米への移民送り出しに直接的な影響を与えていることを示した。
開催日時 第2回研究会・2022年9月24日 13時~14時半
開催場所 オンライン
テーマ 占領期日本の大学改革と松本亨 (2)
発表者 松盛美紀子
研究会内容 占領期日本の大学改革と松本亨 (2)
松盛美紀子

 松盛は、太平洋戦争下にミッションとの関係を絶った明治学院は、戦後どのような形で復興を遂げたのかについて、明治学院とミッションの関係や明治学院と松本亨の関係を通して、戦後のキリスト教学校の復興を明らかにした。
 吉田は、本研究が「自由」をキーワードとして考察できる可能性があることを指摘し、今回の調査資料には、アメリカ教育使節団や矢野貫城などについて記述の有無、それらに対する松盛の見解を尋ねた。松盛は、矢野について肯定的記述はなかったこと、アメリカ教育使節団については、シェーファーの来校を取り上げるのみであったことを答えた。神田は、学校法人となった際、戦後日本のキリスト教界で戦責が問われていた富田満が理事長に就任したことについて、学内に反対意見などはなかったのかについて質問した。松盛は、戦後50年が経過してやっと、明治学院内に富田らを批判する土壌が出来たと考えていると答えた。これを受け吉田は、旧態依然と認識しながらも、組織のボスとして立てざるを得ない混迷の有無や、GHQ政策の影響の可能性などを指摘した。さらに竹本は、IBCが日本基督教団の存在に大きなメリットを見出していたことを挙げ、その点において、富田が理事長であった利点があるのではないかと指摘した。池端は、賀川文庫の説明を求め、賀川豊彦からの寄贈図書であることが説明された。次に吉田は、新制大学設置準備のうち、明治学院の積極性のようなものは何か見受けられるかを尋ね、学園の生き残りを第一とした無難な取り組みが主体であったこと、英語教育と少人数教育を二本柱としていたことを答えた。これに対し吉田から、松本の具体的関与や、松本ならではの英語教育の実態などが分かると良いのではないかと助言があった。竹本からは、宣教師資料の調査が勧められた。また、理想教育の内容についてと、時事英語という言葉は戦前からあるのかについて尋ね、時事英語という言葉はシラバスに使用されており、戦後は一般的だったと捉えていること、理想教育の内容は、英語教育、少人数教育、宗教教育が大枠だったことを答えた。さらに竹本から、英語教師として著名な松本が経済学科所属だったのはなぜかと問われ、経済学科内に時事英語の講義があり、ビジネスや時事について英語で教えていたことを回答した。物部は、科学館創立は設置基準を満たすためだけだったのか、将来的構想に基づいてだったのかを尋ね、設置基準を満たすためであり、将来的プランの有無ははっきりしないと答えた。最後に吉田は、松本の講義の詳細、ミッションとの関係、IBC関連資料、明治学院百年史資料編、明治学院資料館の理事会記録などの調査を提言し、本研究が、松本の、戦中のアメリカでの体験と戦後の貢献のつながりを示すものとなることを期待していると結んだ。
開催日時 第1回研究会・2022年8月27日 13時~16時
開催場所 オンライン
テーマ
  1. 北米外国伝道会議と日本の総合大学構想、1945~47―協力アプローチを巡って―
  2. 第二次世界大戦後の同志社の教育復興―R.I.シーベリ―資料調査に関する経過報告―
発表者
  1. 吉田 亮
  2. 神田 朋美
研究会内容 北米外国伝道会議と日本の総合大学構想、1945~47
―協力アプローチを巡って―
吉田亮

 吉田は、北米外国伝道会議(FMC)は、強制収容された日系人への伝道・救済活動で得られたノウハウを戦後日本伝道再建、特に高等教育方針にどのように生かしたのか、米国の文化帝国主義的・人種主義からどのように日本プロテスタントの「自主性」を守り、展開したかについて考察を行った。
 神田は、FMCの総合プログラムの内容についてと、湯浅八郎の同志社総長就任や、ICU設立時に同志社がaffiliationを表明した背景について尋ねた。これに対し吉田は、総合プログラムはFMCの決議に則って展開され多岐にわたっていたこと、同志社と関わる背景は、1948年以降の資料調査により明らかとなる可能性があることを答えた。郷戸は、外国人宣教師の中で日本側についた者はいたのかと尋ね、ライシャワーが日本側の意見を全面支持しており、協力者としての側面が最も強かったと答えた。池端がアイグルハートの関与についてと、FMCの日本に対する姿勢について尋ねたのに対し、アイグルハートは当委員会に深く関わっていなかった可能性がありえること、ICU設立に関しては日本側のリーダーシップを保証しているように見えることを回答した。竹本は、ICU設立時の財源折半の相手はFMCか、FMCが大学設置に関する議題を投げた相手はインターボードかと質問し、吉田は、財源比率は日米同額で、アメリカ全土からの寄付金で賄われたこと、湯本会議以降はインターボードがアメリカ側のフロントとなったことを伝えた。田中が、本考察が帝国大学体制から国立大学体制に移行する時期と被っているが、国立大学や師範学校を意識していたか否かを尋ねたのに対し、1930年代以降、官立大学への競争意識が強烈に発生し、それは40年代以降も続いていたことを挙げ、今後、日本側資料を調査する際に注視する旨を回答した。さらに田中から、アメリカの教育使節団との関連について問われ、東京大学の教育機関との関係が密であったこと、FMCも教育使節団を意識していたことなどが示された。関口は、大学建設第2回中央委員会で示された特色第1項は、日本の既存大学にもあった特色かを質問し、吉田は、体験型教育(グループ学習)などを重視していたことを指摘した。これに関し、池端からアメリカの大学の例、郷戸から現在のICUの寮生活に対する認識が紹介された。

第二次世界大戦後の同志社の教育復興
―R.I.シーベリー資料調査に関する経過報告―
神田朋美

 神田は、第12代同志社総長・湯浅八郎の時代に教育顧問に就任したR.I.シーベリーについて、来日前に得ていたと考えられる戦後の日本に関する情報をThe Return to Japanを用いて整理し、次に、現時点で収集できた日米双方の資料から、シーベリーの同志社における働きを中心に報告を行った。
 大森は、シーベリー書簡の“new curriculum”と大塚節治文献の「新制大学学科目」は同じことを指しているか、当該事項へのシーベリーの関与はどの程度であったかを尋ねた。神田は、資料を比較する限り同じことを指していると推察していること、関与の詳細に関する資料の発見を目指すことを伝えた。吉田が、シーベリー就任以前、同志社に教育顧問という役職があったか否かを尋ねたのに対し、なかったと認識していること、シーベリー招聘決定時と着任時で職域設定に変化があったことを回答した。続いて、田中から武間謙太郎に関する情報、物部からO・ケーリの新制大学設置に関する情報、竹本から武田清子とシーベリーの親密な関係について、それぞれ情報提供がなされた。また郷戸からは、ICUアジア文化研究所の武田関連資料の可能性についてと、キリスト教学校へのララ物資配給に関する若干の優遇が存在したことが示された。これを受け吉田から、キリスト教学校への優遇はFMCにも見られることが伝えられた。また、1945年頃のABCFM年次大会記録の日本に関する記述について質問がなされたが、未確認のため追加調査を行うとした。池端からは、友和会資料に関する情報提供がなされた。最後に吉田は、「平和」と「女子教育」に留意して研究を進めるよう提言した。